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漂う結び目
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日本橋地域は快晴で、乾いた風が相も変わらず薬研堀不動院の幟旗をはためかせている。
風は冷たいものではなかった。十一月半ばを過ぎても、昼間はまだ半袖Tシャツで過ごせるような陽気が続いていた。
それでも、裏通りに反射するのは、秋の柔らかい日差しだった。
賢一はポットから注いだ香りの飛んだコーヒーを手に、窓を眺めた。
役所が閉まる前に輸出事務を片付けなければならない週末、閉庁中にやってきた輸入品の申告をしなければならない週明けという、業務の二つの波は波乱なくやってくるものの、この時期の仕事量は安定していた。
職場内の情緒的環境も落ち着いている。つまり、イライラカリカリしている人間はあまりいない。
三園とはくだらない話をし、事務の五十嵐からは素行不良息子の愚痴を聞き、係長の河野とは仕事のやりとりに終始する。過ごしやすい時節だった。
「よう。最近、美砂ちゃんとはどうなのよ」
窓辺に立った賢一に、三園が背中から声をかけた。河野は東京支社本部へ、稲田は税関に行っているため、オフィス内は三人だけだ。
「いきなりっすね」
「お前、最近いやに落ち着いてるだろ。幻覚じみた話も聞かないし。もう、美砂ちゃんとうまくいってる以外にないと思ってさ」
夏ごろ、美砂とデートすると三園に口を滑らせたことがあった。その後の報告はしていないし、三園からも特になかったので、忘れたか興味がないものとばかり思っていた。
「もう付き合ってるって話は聞いてるよ」
「ええ、誰に?」
頬杖をつきながら労務の単調な作業をしていた五十嵐が、賢一の声に目を上げた。
「虎泰。あいつさ、人の話を聞き出すのは妙にうまいんだよな。美砂ちゃんから旅行に行ったことも聞いたらしいぞ」
「ちょっと待ってください。虎泰さんにべらべらしゃべる美砂も美砂なら、三園さんにそれを話す虎泰さんもどうなんですか」
「虎泰は俺も当然知ってると思ってたんだよ。その秘密主義、よくないぞ」
「プライベートに秘密主義もクソもないでしょ」
その会話に五十嵐が忍び笑いをした。
「で、どうなのよ」
振り出しに戻り、賢一はわざとらしくため息をついて見せた。
「順調ですよ。定期的に会ってます」
肘で小突いてくる三園に賢一は言った。
実際は定期的というのとは少し違った。最寄り駅が数駅しか離れていないので、特に予定を立てない逢瀬を重ねていた。
横浜散策のあと、温泉にはまだ残暑厳しいうちに行った。
海沿いの騒がしくないところ、という美砂のリクエストを尊重して、賢一が場所を決めた。平日の稲取は、ひなびた街並みが心に染みた。
そこでは水辺探しなどはせず、海岸を歩き、かつて団体客で賑わったであろう古い旅館で過ごした。
その後は、どちらかの部屋で会うことが多くなった。お互い故郷を離れた一人暮らしだから、遠慮する必要もなかった。おかげで部屋はきれいになった。
賢一は美砂と一緒にいるのは少しも苦ではなかった。性格とは違う、微妙な何かが合うような気がしていた。
美砂が賢一のことをどう思っているかは、いまいち掴めないことが多い。自分の考えは躊躇なく話すものの、美砂は感情を表に出すことが少なかった。二人で過ごす時間はどこか淡々としていた。
ただ、賢一の部屋に置いてあった木彫りの人形を見たときは、美砂は無邪気な顔をした。
「青貝さんが映像で見る人形ってこんなのなんですか?」
「少し違うかな。もっと素朴な顔つきで、もっと腕が良かった。それは、だいぶ現代的な顔しているよね」
「そうですか? 私は好きですね」
「俺もそう思ったから、買っちゃったんだよ」
そんな美砂との会話を思い出していると、年甲斐もなく、心ここにあらずになる。
だから、耳に入ってくる三園の声がとてつもない雑音に思えた。
「美砂ちゃん、職場でだいぶ明るくなったってよ。大事にしなよ」
雑音だからというわけではなく、明るくなったという言葉に賢一は首をかしげた。
「そこがね、よくわからないんですよ。俺に対してはいろいろあんまり変わらないような」
「お前が鈍感なだけだろ」
「いまだに俺に対して丁寧語なんですよ?」
「アホか。結婚したって丁寧語のままの女性だっているくらいなんだから、そこは重要じゃねえだろ」
「いやいや、美砂はそんなタイプじゃないですって」
五十嵐が耐えきれないというように笑い始めた。賢一はようやく三園との会話が恥ずかしくなってきた。
「五十嵐さん、どう思います?」
「丁寧語? いいんじゃない。かわいいじゃん」
ピントがずれているように思えてならない返答を聞いて、賢一はカップを手にしたまま椅子に座った。三園も隣に座る。
「なあ、今夜ちょっと付き合ってくれない?」
「なんです?」
「こずえでさ、また虎泰と飲むんだけど、同席してくれよ」
「まーた舞ちゃん目当てでしょ。しかも俺を酒の肴にするつもりですね」
珍しく三園が苦笑して、首を横に振った。
「いいや。美砂ちゃんとうまくいっているならなおさらさ、あいつのは話は聞いた方がいいんじゃないかと思って。俺がおごるよ」
風は冷たいものではなかった。十一月半ばを過ぎても、昼間はまだ半袖Tシャツで過ごせるような陽気が続いていた。
それでも、裏通りに反射するのは、秋の柔らかい日差しだった。
賢一はポットから注いだ香りの飛んだコーヒーを手に、窓を眺めた。
役所が閉まる前に輸出事務を片付けなければならない週末、閉庁中にやってきた輸入品の申告をしなければならない週明けという、業務の二つの波は波乱なくやってくるものの、この時期の仕事量は安定していた。
職場内の情緒的環境も落ち着いている。つまり、イライラカリカリしている人間はあまりいない。
三園とはくだらない話をし、事務の五十嵐からは素行不良息子の愚痴を聞き、係長の河野とは仕事のやりとりに終始する。過ごしやすい時節だった。
「よう。最近、美砂ちゃんとはどうなのよ」
窓辺に立った賢一に、三園が背中から声をかけた。河野は東京支社本部へ、稲田は税関に行っているため、オフィス内は三人だけだ。
「いきなりっすね」
「お前、最近いやに落ち着いてるだろ。幻覚じみた話も聞かないし。もう、美砂ちゃんとうまくいってる以外にないと思ってさ」
夏ごろ、美砂とデートすると三園に口を滑らせたことがあった。その後の報告はしていないし、三園からも特になかったので、忘れたか興味がないものとばかり思っていた。
「もう付き合ってるって話は聞いてるよ」
「ええ、誰に?」
頬杖をつきながら労務の単調な作業をしていた五十嵐が、賢一の声に目を上げた。
「虎泰。あいつさ、人の話を聞き出すのは妙にうまいんだよな。美砂ちゃんから旅行に行ったことも聞いたらしいぞ」
「ちょっと待ってください。虎泰さんにべらべらしゃべる美砂も美砂なら、三園さんにそれを話す虎泰さんもどうなんですか」
「虎泰は俺も当然知ってると思ってたんだよ。その秘密主義、よくないぞ」
「プライベートに秘密主義もクソもないでしょ」
その会話に五十嵐が忍び笑いをした。
「で、どうなのよ」
振り出しに戻り、賢一はわざとらしくため息をついて見せた。
「順調ですよ。定期的に会ってます」
肘で小突いてくる三園に賢一は言った。
実際は定期的というのとは少し違った。最寄り駅が数駅しか離れていないので、特に予定を立てない逢瀬を重ねていた。
横浜散策のあと、温泉にはまだ残暑厳しいうちに行った。
海沿いの騒がしくないところ、という美砂のリクエストを尊重して、賢一が場所を決めた。平日の稲取は、ひなびた街並みが心に染みた。
そこでは水辺探しなどはせず、海岸を歩き、かつて団体客で賑わったであろう古い旅館で過ごした。
その後は、どちらかの部屋で会うことが多くなった。お互い故郷を離れた一人暮らしだから、遠慮する必要もなかった。おかげで部屋はきれいになった。
賢一は美砂と一緒にいるのは少しも苦ではなかった。性格とは違う、微妙な何かが合うような気がしていた。
美砂が賢一のことをどう思っているかは、いまいち掴めないことが多い。自分の考えは躊躇なく話すものの、美砂は感情を表に出すことが少なかった。二人で過ごす時間はどこか淡々としていた。
ただ、賢一の部屋に置いてあった木彫りの人形を見たときは、美砂は無邪気な顔をした。
「青貝さんが映像で見る人形ってこんなのなんですか?」
「少し違うかな。もっと素朴な顔つきで、もっと腕が良かった。それは、だいぶ現代的な顔しているよね」
「そうですか? 私は好きですね」
「俺もそう思ったから、買っちゃったんだよ」
そんな美砂との会話を思い出していると、年甲斐もなく、心ここにあらずになる。
だから、耳に入ってくる三園の声がとてつもない雑音に思えた。
「美砂ちゃん、職場でだいぶ明るくなったってよ。大事にしなよ」
雑音だからというわけではなく、明るくなったという言葉に賢一は首をかしげた。
「そこがね、よくわからないんですよ。俺に対してはいろいろあんまり変わらないような」
「お前が鈍感なだけだろ」
「いまだに俺に対して丁寧語なんですよ?」
「アホか。結婚したって丁寧語のままの女性だっているくらいなんだから、そこは重要じゃねえだろ」
「いやいや、美砂はそんなタイプじゃないですって」
五十嵐が耐えきれないというように笑い始めた。賢一はようやく三園との会話が恥ずかしくなってきた。
「五十嵐さん、どう思います?」
「丁寧語? いいんじゃない。かわいいじゃん」
ピントがずれているように思えてならない返答を聞いて、賢一はカップを手にしたまま椅子に座った。三園も隣に座る。
「なあ、今夜ちょっと付き合ってくれない?」
「なんです?」
「こずえでさ、また虎泰と飲むんだけど、同席してくれよ」
「まーた舞ちゃん目当てでしょ。しかも俺を酒の肴にするつもりですね」
珍しく三園が苦笑して、首を横に振った。
「いいや。美砂ちゃんとうまくいっているならなおさらさ、あいつのは話は聞いた方がいいんじゃないかと思って。俺がおごるよ」
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