漂う結び目

izumi_mutsu

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漂う結び目

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「温泉? この暑いのに?」
 美砂は呆れたように笑って言った。
「ああ、そうか。地元では何かっていうと温泉に行ってたから」
 賢一は頭をかいた。美砂はおかしそうな顔になって言った。
「いいですよ。温泉行きましょうよ」
 二人は国際橋のたもとからインターコンチネンタルホテルのわきを通り、臨港パークへと回り込んでいった。ホテルの大きな日陰の向こうで、小さく踊る海面がまぶしい。建材の具合なのか、空間が白かった。
 賢一は努めて平静な口調で言った。
「俺、こっちに来てからは女性には縁がなくて、デートもしてこなかった」
「何です、急に」
 美砂がびっくりしたように言った。
「気が利いた誘い方もできないから、少し気恥ずかしくなって」
「そういうこと言うんですか」
 美砂は今度は本当に呆れて言った。
「私、ただ、どこかに行きたかっただけです」
 賢一は二度うなずいた。
 十代の時の女性との交際を、ままごとだったとは思ってはいない。あの頃は年齢なりに真剣だった。
 ただ、二十代を湿り気なしで過ごしてきたため、都会のたしなみやしきたりといったものを全く知らなかった。そんなものが実際にあるのかどうかはともかく、賢一はそう感じていた。
 すぐに美砂が口を開いた。
「さっきのお寺で、横浜のこと何も知らないって言ってたけど、学生時代、こういうところには来なかったんですか?」
「自分で勝手に忙しくしてたから。大学の時は友人の商売を立て直すことばかり考えてて、就活にも乗り遅れたくらいだった。その友人がいなくなってから仕事を探し始めて、なんとか潜り込んだのが今の会社だった」
「会社は忙しい?」
「会社が、というよりは、俺が自分の身を立てるのに必死だった。就職してからは会社に言われたことは何でもやったし、役立ちそうな資格はがむしゃらにとった。あいつと同じようになるのが怖かったのかもしれない。女性と付き合えるようになるなんて、遠い先の話だと思ってた」
「それ聞くと意外です。そんなふうには見えなかったけど」
 面白がるような顔で美砂が言った。
「どういうこと?」
「自信ありげに東日本橋を闊歩してたじゃないですか」
「不安げに見えないように、わざと大股気味で歩いたりはした。そのせいじゃない?」
「本当ですか、それ」
「本当」
 賢一は自分の化けの皮が剥がれていく気分で、居心地が良くなかった。
「俺が歩いているところ、目撃されてたの?」
「私は憶えてましよ。サラリーマンなんていくらでもいるのに、なぜか青貝さんは印象に残ってた。スーツ姿じゃないからかな。だから弁当屋で会ったときは驚いたし、こずえの帰りに声をかけてくれたときはもっと驚きました」
 賢一は目を見開いた。
「とてもそんなふうには見えなかった」
「だから、それは青貝さんもです」
 ホテルを通り過ぎると、木々が植栽された公園に入った。
 階段状になった波打ち際は、故郷とは似て非なるものだ。ベイブリッジから大黒ふ頭、米軍の補給艦船まで、港の風景が饒舌で、陽光が明るかった。
「横浜って、すごく人工的ですね。全体がテーマパークみたい」
 美砂がいまさら気づいたように言った。彼女の視線の先には、裏から見るランドマークタワーと、従者のような周囲のビルがあった。
「港の周りだけね。後は延々と住宅街が広がってる。本当に、どこに行っても同じような景色だよ」
「青貝さんも、そういう場所にいたんですか?」
「そうだね。大学も祖母の家もそんな場所だった」
 美砂は帽子のつばをちょっとあげると、隣の賢一の顔をチラリと見た。
「動物の飼料とかを売ってたんですよね」
 改めて聞かれ、賢一は自然と言葉が湧いてきた。
「詩郎っていうんだ。魚津の高校で友だちになって、卒業してからも、二人とも神奈川の大学に進学した。あいつは一人っ子だったから、そのくらいの余裕はあったみたいだね。農学部ならわざわざ都会に出なくてもいいような気もするけど」
 詩郎は決して都会を好みそうな人間ではなかったし、進学先を親友に合わせるような性格でもなかった。地元の大学も含めていくつか受験したうち、合格したのがそこだけだったのは、何かの縁だった。
「人が多い土地に来たからこそ、そんな商売をしようって気になったのかも。はじめは、あわよくばって言う感じだったと思うよ。二年生になって俺に連絡をしてきたときには、もう周りの人に自分で輸入した資材を売り回っていた」
「うまくいくもんなんですか?」
「友だちに売っている間だけね。友だちの友だちだとだいぶ信用度が怪しくなる。さらにその知り合いになると、もうただの他人だったから、売り上げが不安定になってきた。それでも、詩郎は販路を拡大していった。インターネットのサイトを開設して、SNSも駆使して」
 賢一はそこで笑った。
「社交性なんてほとんどないやつだったのにね。あのときの詩郎は取り憑かれたように調べ物をしては行動に移していった。俺もそれにのっかったんだ」
 賢一は芝生に人がいない木陰を見つけ、腰をかけた。美砂も賢一の隣に座ると、リュックから水を出して賢一に渡した。
「あくまでも詩郎の商売だったから。利益が出れば山分けって感じでやってた。でも実際は運転資金に回すためにバイト代はほとんど飛んでいった」
「その商売とは別に、ですか?」
「儲けなんて全くなかったよ。居酒屋と警備のバイトをして、詩郎の名義で借りてたアパートで帳簿を付けて、なんてことをずっとしていた」
 言いながら、賢一はアパートのかび臭さを思い出していた。
 小田急江ノ島線の善行駅近くに、詩郎が事業用に1Kのアパートを借りていた。大学が隣駅だったため、詩郎にとっては都合が良かったのだ。
 立地の割に格安の物件は、日当たり最悪でかびの臭いしかしなかった。
 そのアパートは、賢一が住んでいた町田からは交通の便が良く、大学のある金沢八景からは行きにくい場所だった。自然と、その間にある上大岡や戸塚などでバイトをすることになった。
 結果として横浜の郊外を行き来するだけの大学生活だったことになる。
「大変でした?」
 美砂は短く聞いた。
「希望があったから、苦には感じなかった。いつかは儲けになるっていう世俗的な希望だけど、それがあるうちは楽しかったよ。俺は祖母の家に住んでいたし、食事も作ってもらってたから気楽だったのもあるな」
 賢一はそこで急に眉間を寄せた。一口飲んだ水のペットボトルを、無意識に美砂に返した。
 美砂はそれを受け取ると、賢一の腕に触った。
「ああ、ごめん」
 賢一はそう言うと、眉間の皺を解いた。
「楽しいとか、気楽だったとか言うと、罰が当たるかも。詩郎は違かったからね」
 語る必要のないこと。そう思いながらも、賢一は続けていた。
「あいつは生活費にも事欠くようになっていった。俺もインスタントラーメンの差し入れくらいはした。だけど、あいつの生活の実態は全くわかってなかった。詩郎は四年になる頃には本当に抜き差しならなくなっていた。バイト代も親の仕送りも全部運転資金にまわしていたから」
 賢一は、滞空している数羽のトビを目で追っていた。あのころは、あんなふうに高みから眺めていただけだと言う気がする。
「詩郎は俺が知らないうちに大学を中退して、アパートも引き払っていた。在庫は二束三文でばらまいて、どこかに消えた」
「え?」
「俺には一言残していったから、失踪といえるのかどうかはわからない。でも、それ以来音信不通だよ。後で知ったんだけど、だいぶ借金もしていた。一部は親に肩代わりしてもらって、結局は自己破産したみたいだ」
「自己破産……。大学は中退しちゃったんですか? せっかく四年になってたのに」
「卒業するには単位は全然足りてなかったからね。あれ以上、親に迷惑かけたくなかったんだろ。親は大学だけは卒業するように言ってたのに、聞かなかったみたいだ」
 美砂は口からため息のような音を出した。
「あれはショックだったな。今でも、若気の至りなんて言えるほど消化できてない。俺はどこかで間違ってたんじゃないかって」
「でも、それで卒論書いたって」
「そうそう。転んでもただでは起きなかったね。自分でもたくましいと思うよ」
 賢一はやけに爽やかに微笑んだ。
 美砂はその笑みには釣られず、真面目な顔を賢一に向けた。
「仕事に没頭して、そのほかは控えめに生活してきたのは、罪悪感というか、贖罪だったんですね」
「まさか。俺はそんな人間じゃない」
「青貝さんの話、そういうふうにしか聞こえませんよ」
 賢一は返す言葉が見つからなかった。言われてみれば、確かにわかりやすい人間だった。
「それだけショックだったんだなって思います。私余計なこと言ってます? 気分を悪くしたらごめんなさい。でも、そう思います」
「いいや、大丈夫。ずいぶん優しい見方をしてくれるんだなって、思ってた」
 それは賢一の本心だった。
 賢一の表情を見て、美砂は安心したように微笑んだ。
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