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漂う結び目
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冷たい石の塔を思わせる質感のランドマークタワーが、今日は過熱した街で揺らいでいた。
ビルの隙間から唐突に現れるスカイツリーの迫力に比べれば、みなとみらいのビル群はずいぶんと親しみやすく感じた。
賢一と美砂はそのビルたちを背に、野毛山不動尊に続く階段を上った。
桜木町駅から続く平坦な地形が、ここで崖様に立ち上がる。埋め立て地とかつての海岸線との境目だということは、素人の賢一にもわかった。
賢一が大学時代を過ごした街に行ってみようと言い出したのは美砂だった。
美砂の嗜好と、横浜らしい風景の両方が満たせそうな場所を、賢一はここくらいしか思いつかなかった。
大学時代は、金沢八景のキャンパス、町田市の祖母宅、アルバイト先、詩郎が事務所用に借りていたボロアパートを行き来する生活だった。
「だから、ほとんど知らないんだ」
崖に沿うように建てられた本堂わきの階段を上りながら、賢一が言った。
「そんなもんです。私も東京のことなんて本当に知らないし」
二人でこうして歩くのは何度目だっただろうか。日本橋の後は、飯田橋、神楽坂、神田、お茶の水、はては芝から品川まで、かつての地形をなぞる散策をして、そのたびに下調べをした店で食事をしたりした。
賢一はすぐに丁寧語をやめ、美砂は続けた。賢一の方が三歳上だということもある。それだけでなく、美砂は話し方で一線を引いているようにも感じた。
階段を上りきった屋上は丘上の地形とつながった平地になっていた。提灯と石版が密に並んだ屋上の際からは、みなとみらいのビル群が眼前に見渡せた。
「ランドマークタワーって、きれいな建物ですよね」
「きれいかな。ロボットっぽいと思ったことはある」
「え、どこが?」
美砂は小さく笑った。
伽藍の屋根下には巨大な五色幕が張ってあり、近代的な高層建築と対照的な光景だった。
二人はお参りをし、おみくじを引いた。こんなことが賢一には楽しかったりする。美砂はそれに淡々と付き合った。
その後、伊勢山の神宮を巡ってから、紅葉坂を下った。
坂を下りきり、国道十六号で信号待ちをした。ここも台地と埋め立て地、旧市街と新市街の境目だった。
「なくなった掘を想像するときは、地面じゃなくて頭の上に思い描くんだよね?」
長い赤信号を見つめながら、賢一が言った。
「はい。よく覚えてますね」
「印象に残ったから。今この場所に立ってると、波打ち際を想像できる?」
美砂は空を見上げると、かぶっていた帽子のつばを指で支えた。
「なんだかイメージできないです。松江で育ったせいかな。海岸が身近ではなかったから。私の想像力は、運河限定ですね」
そのとき信号が変わり、カッコウの鳴き声が響いた。動き出した周りの人々に押されるように、二人もみなとみらいに向かった。
「俺は海の方がイメージしやすいな。こことか、この前行った品川とか。上ではなくて、足下のイメージだけど。これが運河だとうまくいかない」
「そりゃそうでしょ。私がおかしいだけですよ」
当たり前だという調子でいう美砂は、楽しげにも見える顔をしていた。
「俺もおかしいのかもしれないよ。今まで言ってなかったけど、半年くらい前から、勝手に映像が浮かんでくるんだ」
美砂は怪訝な顔をした。賢一は春から浮かんでくるビジョンについて話をした。
自分では異常だと思っていないとしても、美砂に話すのは想像以上に怖いのだと、話し始めてから気づいた。時折、言葉がたどたどしくなる。あの映像の解像度はやはり普通ではないと、認めないわけにはいかなかった。
二人はモールには入らず、ランドマークタワー前の通りをまっすぐに歩いた。話をしていると、どうしても進路は単純になる。
大きな街路樹が木陰をつなげていた。歩道の人の多さを気にすることもなく、賢一は念入りに言葉を選んで話していた。
「その堀の周りには何があるんですか?」
一通り話を聞いてから、美砂は賢一が思っていなかった方向から質問をしてきた。
賢一はとっさに答えていた。
「堀沿いは蔵が多い。一区画入れば普通の店もあって、さらに裏に長屋がある」
「それだけだと、どこでも当てはまりますね。運河は物を運ぶためにあるんだから。その女の子は、私からの連想で生まれたのかもしれないけど」
素肌をさらしている左腕をそっと撫でながら言うと、美砂は賢一の方を向いた。
「面白いですね」
美砂の明るい言い方は、賢一には予想外だった。
「そう言ってくれてありがたいけど、俺は気味が悪いと思うことがあるよ」
「青貝さん、私も似たようなものだと思うんです」
再び前を向きながら、美砂が言った。
「私が松江にいる頃から水辺をふらふらとしてきたのは、たぶん、青貝さんが今話してくれたのよりも、だいぶ薄い何かを受け取っていたからだと思う。そのことを私が自覚しているわけじゃなくて、単なる興味として、私を動かしていたんじゃないかな」
今度は美砂が言葉を選びながら話した。歩調と同じで、ゆっくりとした語り口だった。
「なんだか、そんな気がする。世の中の人たちが持っている興味関心って、実はみんなそうなんですよ、きっと」
「そこまで考えたことはなかった」
「感じがするってだけです。飛躍してます?」
「自分に起こってることが、かなり日常から飛躍してるから。いまさら気にならない。それに、話は理解できるよ。俺は誰でも受け取っているものを、特に強く感じ取っているってことだよね」
「そう。青貝さん、人の話をくみ取るの上手ですよね」
「ありがと。ちょっとオカルト風味だけどね、その話」
「松江出身ですから」
美砂は、ふふん、という笑い方をした。
賢一は美砂の横顔を見て、思い出したように付け加えた。
「ああ、あと木材だね。木を扱う店とか問屋が多い印象だな。出てくる職人も木で家具とかを作ってた」
パシフィコ横浜に突き当たった。右手の国際橋から、人混みが絶えず押し寄せてくる。その合間を縫うようにして二人に届く、運河を渡った潮風が記憶を呼び起こしたのかもしれない。
「木材? 時代にもよるけど、連想しやすいのは木場ですよね」
「そうだよね。はっきり会話で出てきたわけじゃないけど、川向こうだっていう印象は常にあるし」
「なら、やっぱり深川でしょ」
美砂は簡単に言った。
「職人は仕事に忙しい。町がどんどん更新されていくから、特需みたいになっているのかもしれない。町は浮き足だって、どこか荒い雰囲気もある」
賢一は思いつくままに言った。
「それと、少し歩けば堀に行き当たるんだよな」
「じゃ、やっぱりそうですよ」
「そうみたいだね。次は江東区に行ってみようか」
賢一がそう言うと、美砂は少し黙った。
「それもいいですけど。次はもうちょっと目先を変えたところに行きたいです。少し遠出するとか」
信号待ちで大観覧車を背にした美砂は、躊躇するように言った。
賢一はそれを聞いて、はっとしたような顔をした。それから口早に言っていた。
「温泉、どうかな」
ビルの隙間から唐突に現れるスカイツリーの迫力に比べれば、みなとみらいのビル群はずいぶんと親しみやすく感じた。
賢一と美砂はそのビルたちを背に、野毛山不動尊に続く階段を上った。
桜木町駅から続く平坦な地形が、ここで崖様に立ち上がる。埋め立て地とかつての海岸線との境目だということは、素人の賢一にもわかった。
賢一が大学時代を過ごした街に行ってみようと言い出したのは美砂だった。
美砂の嗜好と、横浜らしい風景の両方が満たせそうな場所を、賢一はここくらいしか思いつかなかった。
大学時代は、金沢八景のキャンパス、町田市の祖母宅、アルバイト先、詩郎が事務所用に借りていたボロアパートを行き来する生活だった。
「だから、ほとんど知らないんだ」
崖に沿うように建てられた本堂わきの階段を上りながら、賢一が言った。
「そんなもんです。私も東京のことなんて本当に知らないし」
二人でこうして歩くのは何度目だっただろうか。日本橋の後は、飯田橋、神楽坂、神田、お茶の水、はては芝から品川まで、かつての地形をなぞる散策をして、そのたびに下調べをした店で食事をしたりした。
賢一はすぐに丁寧語をやめ、美砂は続けた。賢一の方が三歳上だということもある。それだけでなく、美砂は話し方で一線を引いているようにも感じた。
階段を上りきった屋上は丘上の地形とつながった平地になっていた。提灯と石版が密に並んだ屋上の際からは、みなとみらいのビル群が眼前に見渡せた。
「ランドマークタワーって、きれいな建物ですよね」
「きれいかな。ロボットっぽいと思ったことはある」
「え、どこが?」
美砂は小さく笑った。
伽藍の屋根下には巨大な五色幕が張ってあり、近代的な高層建築と対照的な光景だった。
二人はお参りをし、おみくじを引いた。こんなことが賢一には楽しかったりする。美砂はそれに淡々と付き合った。
その後、伊勢山の神宮を巡ってから、紅葉坂を下った。
坂を下りきり、国道十六号で信号待ちをした。ここも台地と埋め立て地、旧市街と新市街の境目だった。
「なくなった掘を想像するときは、地面じゃなくて頭の上に思い描くんだよね?」
長い赤信号を見つめながら、賢一が言った。
「はい。よく覚えてますね」
「印象に残ったから。今この場所に立ってると、波打ち際を想像できる?」
美砂は空を見上げると、かぶっていた帽子のつばを指で支えた。
「なんだかイメージできないです。松江で育ったせいかな。海岸が身近ではなかったから。私の想像力は、運河限定ですね」
そのとき信号が変わり、カッコウの鳴き声が響いた。動き出した周りの人々に押されるように、二人もみなとみらいに向かった。
「俺は海の方がイメージしやすいな。こことか、この前行った品川とか。上ではなくて、足下のイメージだけど。これが運河だとうまくいかない」
「そりゃそうでしょ。私がおかしいだけですよ」
当たり前だという調子でいう美砂は、楽しげにも見える顔をしていた。
「俺もおかしいのかもしれないよ。今まで言ってなかったけど、半年くらい前から、勝手に映像が浮かんでくるんだ」
美砂は怪訝な顔をした。賢一は春から浮かんでくるビジョンについて話をした。
自分では異常だと思っていないとしても、美砂に話すのは想像以上に怖いのだと、話し始めてから気づいた。時折、言葉がたどたどしくなる。あの映像の解像度はやはり普通ではないと、認めないわけにはいかなかった。
二人はモールには入らず、ランドマークタワー前の通りをまっすぐに歩いた。話をしていると、どうしても進路は単純になる。
大きな街路樹が木陰をつなげていた。歩道の人の多さを気にすることもなく、賢一は念入りに言葉を選んで話していた。
「その堀の周りには何があるんですか?」
一通り話を聞いてから、美砂は賢一が思っていなかった方向から質問をしてきた。
賢一はとっさに答えていた。
「堀沿いは蔵が多い。一区画入れば普通の店もあって、さらに裏に長屋がある」
「それだけだと、どこでも当てはまりますね。運河は物を運ぶためにあるんだから。その女の子は、私からの連想で生まれたのかもしれないけど」
素肌をさらしている左腕をそっと撫でながら言うと、美砂は賢一の方を向いた。
「面白いですね」
美砂の明るい言い方は、賢一には予想外だった。
「そう言ってくれてありがたいけど、俺は気味が悪いと思うことがあるよ」
「青貝さん、私も似たようなものだと思うんです」
再び前を向きながら、美砂が言った。
「私が松江にいる頃から水辺をふらふらとしてきたのは、たぶん、青貝さんが今話してくれたのよりも、だいぶ薄い何かを受け取っていたからだと思う。そのことを私が自覚しているわけじゃなくて、単なる興味として、私を動かしていたんじゃないかな」
今度は美砂が言葉を選びながら話した。歩調と同じで、ゆっくりとした語り口だった。
「なんだか、そんな気がする。世の中の人たちが持っている興味関心って、実はみんなそうなんですよ、きっと」
「そこまで考えたことはなかった」
「感じがするってだけです。飛躍してます?」
「自分に起こってることが、かなり日常から飛躍してるから。いまさら気にならない。それに、話は理解できるよ。俺は誰でも受け取っているものを、特に強く感じ取っているってことだよね」
「そう。青貝さん、人の話をくみ取るの上手ですよね」
「ありがと。ちょっとオカルト風味だけどね、その話」
「松江出身ですから」
美砂は、ふふん、という笑い方をした。
賢一は美砂の横顔を見て、思い出したように付け加えた。
「ああ、あと木材だね。木を扱う店とか問屋が多い印象だな。出てくる職人も木で家具とかを作ってた」
パシフィコ横浜に突き当たった。右手の国際橋から、人混みが絶えず押し寄せてくる。その合間を縫うようにして二人に届く、運河を渡った潮風が記憶を呼び起こしたのかもしれない。
「木材? 時代にもよるけど、連想しやすいのは木場ですよね」
「そうだよね。はっきり会話で出てきたわけじゃないけど、川向こうだっていう印象は常にあるし」
「なら、やっぱり深川でしょ」
美砂は簡単に言った。
「職人は仕事に忙しい。町がどんどん更新されていくから、特需みたいになっているのかもしれない。町は浮き足だって、どこか荒い雰囲気もある」
賢一は思いつくままに言った。
「それと、少し歩けば堀に行き当たるんだよな」
「じゃ、やっぱりそうですよ」
「そうみたいだね。次は江東区に行ってみようか」
賢一がそう言うと、美砂は少し黙った。
「それもいいですけど。次はもうちょっと目先を変えたところに行きたいです。少し遠出するとか」
信号待ちで大観覧車を背にした美砂は、躊躇するように言った。
賢一はそれを聞いて、はっとしたような顔をした。それから口早に言っていた。
「温泉、どうかな」
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