漂う結び目

izumi_mutsu

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漂う結び目

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 八時になろうとしていた。
 総務の五十嵐以外は全員が職場に残り、会話もなくディスプレイに向き合っていた。
 いつも、繁忙期には淡々と時間が過ぎていく。この穴蔵には、支店本部とは違う、独特な雰囲気があった。
 賢一の職場は若々しさはなく、かといってカビの生えたビジネスマナーにうるさいわけでもない。健全かどうかはさておき、繁忙期であってもある種の緩さがあった。
 係長の河野は部下に対して迎合的な面は一切なく、かといって強くものを言えるような関係でもなかった。
 河野自身は機転が利くわけでも仕事の質が高いわけでもない。仕事ができる三園や賢一、部署に長くいる稲田には強く言えないのだ。
 甘い統率のわりに業務が回っているのは、通関という仕事の性質や、社内の部署の位置づけといったもの以上に、成員が温和だからだと賢一は思っていた。
 その意味では、会社の人選は正しいのかも知れない。
 成り行きで着いたポジションでいつも楽しくなさそうに仕事をしている河野に対して、好きにはなれずとも、賢一は割と同情的だった。
 その河野が大きなため息をついたので、賢一は各人の机にチョコレートを配った。若手だと、自然とこんな役回りになる。
「また支社に行く。明日の午後は消えるからな」
「やめて欲しいですね、暮れも押し迫っているのに」
「そうもいかないよ。年歴で決まってる会議だからな」
 ここで部下を面白がらせるような愚痴でも言えれば、また違った人望ができるだろうにと、真面目くさった上司を見て賢一は思った。
 席に戻ると、デスクの上で携帯が震えていた。賢一はスマートホンのディスプレイに浮かんだ発信者の名前を見ると、雑居ビルの廊下から屋外の非常階段に出て通話にした。
「ごめん、仕事中ですよね」
 美砂だった。通話ができるかSNSで確認してから電話してくることが多かったので、今回は急ぎの要件だろう。
「あの、今ようやく園長がつかまって、許可もらったんですけど、私、急遽帰省することになったんで」
 最近、美砂の園には都と区の臨時の監査が入った。処分が決まるのはまだ先になるらしい。
 だが、美砂のうわずった口調はそのせいではなかった。
「何かあった?」
「父が仕事中に交通事故を起こしたみたいで。夜になって連絡が来たんです」
「大変じゃないか。お父さんは?」
「詳しいことはわからないんです。ただ、命に別状はないってことだけ」
「よかった。ひとまずは」
 賢一は思ったことをそのまま口にしていた。非常階段は隣のビルとほとんど接していて、思わず大きくなった声が響いた。
「たぶん、いろいろ手伝わないといけないだろうから、いったん帰ります。飛行機も夜行バスも今日はもう出ちゃってるから、明日の便で」
「わかった。園は大丈夫だって?」
 早口でまくし立てていた美砂は、賢一のその質問でふっと息をついた。
「たぶん、今のところは。虎泰さんもまだいますし」
 賢一は頭の中でカレンダーを巡らせた。もうすぐクリスマスだ。
「少なくとも年始までは向こうになるだろうね」
「父の様態次第ですね。でも、実は・・・・・・」
 そう言ってまた美砂は息をついた。つられるように、賢一も深めに息を吸った。
「青貝さんにまだ話せてなかったけど、私も園を年度末で辞めようと思ってたんです。違う園に行くか、仕事自体を変えてみてもいいかなって。もう主任にはそれとなく伝えてるんです」
「あんなことがあったからね。わかるよ」
 賢一は落ち着かなくなる心を制して冷静に返した。
「よかった、理解してくれて。でも、父がひどければ、それが早まるかもしれない。とりあえず、有休が手つかずなんで、それ使います」
 賢一と話しているうちに美砂の口調は普段の落ち着きを取り戻してきた。内面の混乱は、普段より微妙に速いしゃべり方にわずかに覗いていた。
「そうなると、長く向こうにいる可能性もあるわけか」
「私、東京がいいって思ったことは、ほとんどないんです。でも松江に帰りたいわけでもないんですよね」
「その話は後で考えればいいよ。身の振り方は、今はね」
「はい」
 美砂は素直に言ったあと、ぼそっとこぼした。
「子どもたちの顔を思い浮かべると、つらいな」
 そんな言葉を美砂から聞くのは、賢一には新鮮だった。
 美砂は、明朝七時の出雲行きの飛行機がとれたと言った。アパートから京急蒲田までの移動を考えると、五時には出たいという。
「だから、明日は会えないと思うんです」
「そんなこと言ってる場合じゃないからね。状況がわかったら教えて」
「そうします。今から準備します」
 美砂の声に名残惜しさを感じたが、仕事があった。賢一は通話を終わらせようとした。
「ねえ、青貝さん」
 じゃあ、と言いかけた賢一の言葉を塞ぐように美砂が言った。
「全然関係ないんですけど」
「うん?」
「あのビジョン。青貝さんがよく話してくれる」
「昔の堀川の? そういえば最近出てこないな」
「私、ふと思ったんです。左腕にあざのある女の子は、人形が欲しくて職人の若者にまとわりついてたわけじゃないんだろうなって」
 賢一は少し戸惑って曖昧な相づちを返した。美砂は二秒ほど黙って、また続けた。
「その子、若者と話すきっかけが欲しいから、人形をねだった。だから、人形は惜しげもなく友だちにあげちゃうんです」
「まあ、そこはどっちもあるんじゃない?」
「ううん、どっちもじゃないです。なんとなくわかるんです。その子は、その生涯の中で一番心を通わせることができたのが、その若者だったんだと思う」
 美砂の言葉が、賢一の耳に響いた。
「ただ堀の傍を一緒にぶらぶらするだけで、本当にうれしかったんですよ」
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