漂う結び目

izumi_mutsu

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漂う結び目

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 酒処じんぱちは、東日本橋と日本橋浜町の境目付近、高層マンションとオフィスビルが混在する一角にあった。他にも店が数軒並んでいるためか、裏通りながら人通りがあった。
 白提灯に格子戸という、とりたてて特徴のない店だ。表に出してある品書きの値段は、清潔感のあるたたずまい相応なものだろう。メニュー自体も、特に目を引くようなものではなかった。
 ところが、じんぱちは付近のサラリーマンで知らぬ者はいない人気店だった。何ヶ月も待たされるほどではないにしろ、夜に行くのなら予約はしたほうがよい。
 一階の小上がりの席で向かい合いながら、三園は賢一にそんな情報を教えた。
「俺も予約とったの三ヶ月前だぜ? もう忘れてたっての」
「人気なのは接待需要ですかね」
 賢一は店内を見回して言った。三園の予約のことなど、どうでもいい。
「いいや、見た感じ多くないな。みんなプライベートだろ」
「自腹ですか。俺、こんな店知らなかったです」
「勉強不足だよ、青貝君」
 大阪本社から帰ったばかりの三園は、珍しくネクタイをしていた。本当に予約をとったことを忘れていたのだ。
「で、なんで俺が一緒なんです?」
 賢一は席に着くまで抱えていた疑問を持ちだした。
 夕方のオフィスで賢一を誘ったのは三園だ。一月前のこずえの時とはまた違う雰囲気だった。
「出張帰りでなければ、他の人間を誘う余裕もあったんだけどね」
「なんだ、代打ですか」
「三ヶ月も先の人間関係を予測するって、難しいよな」
 三園の言葉で、すぐに切れ長の目を細めて微笑む顔が浮かんだ。
「それって、まさか舞ちゃんじゃないですよね?」
「ないな。舞ちゃんはね、こんなリアルの交際で手垢を付けちゃいけないんだよ。弁当屋で微笑んでるのを愛でるのがいいの」
「それヤバいですよ。だいたい、あの人弁当屋で微笑んだりしないし」
 そうは言っても、その舞はもうげんき弁当にはいない。横浜の店に移ったのは数週間前だった。
 突き出しが運ばれてきた。
 いままで賢一は、飲食店の人気など水物だろうと、高をくくってきた。カツ丼はどこで食べてもカツ丼だからだ。
 ところが、いぶりがっこを使ったなにやらという突き出しから、既に賢一には未知の食体験だった。意外なことに、特に刺身がうまかった。
 東京にはうまい魚などないと思い込んでいたから、無知と偏見を認めなければならなかった。もちろん、そんなことを三園に話したりはしない。
「虎泰な、やっぱり保育園やめるってよ」
 酒が入るとすぐに、三園が話した。膨大な日本酒のリストから三園が適当に選び、それぞれ手酌で飲んでいた。
「ええ。そんな感じしましたよね」
 うなずきながら、三園はこのことが話したくて誘ったのだと、賢一は思い至った。
「内部告発した時点で残ろうなんて考えてなかったんだろうな」
「潔いというんですかね、それは。これからどうするんだろう」
 ネクタイを畳に放り投げた三園に、賢一が言った。
「そりゃ就職活動だろ。東京には残るつもりらしいから」
「もともと、どこの人なんです?」
「滋賀。大津のお坊ちゃんだよ」
 虎泰の実家は祖父の代からの不動産屋で、虎泰の父が商売を数倍に広げたらしい。
「わかる気がしますね。でも、あの人なら実家に頼らなくても、どこでも就職できるんじゃないんですか。学歴もそうだけど、誠実そうな人じゃないですか」
「それはどうかな。まじめではあるけど、他人に対して誠実かというと、ちょっと首をかしげるね」
 三園は薄暗い笑みを浮かべて言った。
「俺があいつと友だちになったのは、地域のイベント、というか行事でさ。お互いの大学は離れていたけど、何でか一緒になってね」
「行事って何なんだったんですか?」
「子ども食堂。熱心な団体があってさ」
「うええ、三園さんが子ども食堂ですか? 虎泰さんならまだしも」
 三園は手を振った。
「そのときの彼女に手伝い頼まれたんだよ。まあ、やってみたら楽しかったけどね」
 賢一は露骨に安心した顔をした。三園はそれにはかまわずに続けた。
「あいつはそのころから信念を持ってやってたよ。手抜きもしないし、子どものことを第一に考えてね。ただ、理想のあまり、周囲を振り回すところがあった。俺は、こいつは自分勝手だなって思ったよ。優秀であっても、正しさを振りかざすやつって、組織の不協和音でしかないだろ」
「それはわかります」
「あいつは文句なしに優秀で、面倒くさいやつだった。俺は物見遊山で行ったようなもんだったから、そんな人間を面白がれたんだけど。とても誠実だとは思わないな」
 嫌われるような性格ではなくとも、何かと周囲と軋轢を生む虎泰と、それを面白がる三園という図は、賢一には苦労なく思い描けた。
「それじゃあ、今回の保育園の件も驚きはなかったんですね」
「あいつらしいと思ったよ。あの保育園の内情なんて何も知らないから、それこそ正しいかどうかはわからないけどね、俺は虎泰の言うことに百パーセントうなずくことはできないね」
「昔は気にならなかった友人とのズレが、無視できなくなってきたってことですかね。ならば、わかります」
 三園は簡単にうなずいた。
「そりゃ、男は三十越えれば友だちなんかどんどん減っていくんだろうけどさ。今回は俺だけの話じゃないだろ。あいつが辞めて苦労するのは、美砂ちゃんたち同僚なんだし。彼女、何か言ってないの?」
「虎泰さんのことは何も。毎日が大変だとは言ってますね。恒常的に人が足りてないのは確かみたいなんで」
 美砂の仕事は残業が常に発生するようなものではないので、退勤するのは賢一より早い。それでも、最近は賢一が自室で簡単な夕食を作ってふるまうことが多かった。
「食事を作るにも、部屋を片付けるにも、エネルギーが残っていないって、この前、珍しくこぼしてました」
「虎泰の話聞いてると、気の毒になってくるぞ。また温泉でも連れてってやれよ」
「もうすぐ忙しい年末じゃないですか」
 三園はため息にも聞こえる笑い声を出した。
「嫌だねえ。いっそのこと、二三ヶ月貿易ストップしてくれねえかな」
「そりゃダメです。カニが食えなくなります」
 賢一はちょうど箸にしたカニの和え物を見ながら言った。
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