漂う結び目

izumi_mutsu

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漂う結び目

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 蔵と商家が混在する家並みが、黒々とした影になり、行燈の火がところどころに浮かんでいた。
 日が暮れた直後、町の底には空の残照がわずかな光を投げかけるだけだ。そうして足下が徐々におぼつかなくなっていくのに、掘割の水面だけは空の色を映して明るかった。
 湯屋からの帰りの父子、粗末な提灯を掲げた男数人の連れ合いなど、通りはまだ人が多い。
 いとは日の短い季節だとこのくらい暗くなるまで善治を待っていることがあった。人通りがあるとは言え、女児がうろついていい時間ではなかったように思う。
 若夫婦の長屋の部屋には居づらかったというのもあるだろう。理由は推して知るしかない。
 落ち合ったあと、いとが善治に語るのは他愛のない話ばかりで、彼女の気持ちの核心には触れようとはしなかった。
 そうやって自分を抑えるようなあり方を自然と身につけてしまう。善治にはそれがよくわかった。
 自身の生い立ちと重なるところもあるいとには、憐憫の情を覚えることもあった。大人が子どもの相手をする退屈さは、その同情で打ち消されていただけだと思っていた。
 だから、いとが奉公に出てから、寂寥と言っていい感覚がやってきたことが、善治を戸惑わせた。いとだけでなく、善治自身が夕暮れの会話を日々の糧にしていたのだと気づかされた。
「いとがいないと寂しいかい」
 薄暗い中、声をかけてきたのは長屋の差配だった。堀のわきにぽつんと立ち尽くす善治を見れば、そう声をかけたくもなるのだろう。
「正直いうと、そのとおりで。妙に懐いてくれてましたから」
「心配しなくても、あの子なら奉公先で元気にしているよ」
 いとは差配の伝手で本所の船宿に行った。本所と言っても、中川にほど近い運河沿いだ。
 差配はそのように言うが、善治は自分自身の奉公を思い出すと、いとが安らかに暮らしているとはなかなか思えなかった。
「元気ならいいんですが」
「子どもは柔らかいよ。すぐに場所に合わせて形を変えられるからね」
 差配は、それがいかに子どもに負担をかけるのかが、わからない種類の人間だ。
 普段は人当たりの良さに紛れてしまうが、本来、自分とは水の合わない世界に棲んでいる人だと、折りに付けて思わされる。
「渡す相手がいなくなって張り合いがないかもしれないが、善さん、あの人形もう少し作ってくれないかい?」
 そんな善治の思いを知ってか知らずか、差配は突飛な申し出をしてきた。善治は闇に溶けかかったその顔を見た。
「聞くと、欲しがっている子どもが多いんだよ。だから、子どもの小遣い程度の値段で、木戸番屋に置いてみようかと思ってね」
 できがいいからもう少し高く売ってもいい気がするが、いかんせん子ども相手だから、と差配は柔らかい表情で語った。
「もちろん、善さんからは買い取るよ」
「金なんざ、どうでもいいですよ。本当なんですか、欲しがってる子どもが多いってのは」
「そんなことで嘘はつかないさ。親子の人形をそろえたいって子が多いから、どんどん種類を増やしていくってのはどうだい? 兄い、姉え、弟、妹、じいさん、ばあさん」
「少しずつでいいなら、ぜひ」
「そうかい、よかったよかった」
 善治は、笑顔でふんふんとうなずく差配から、再び堀に目を移した。
 町はどんどん暗くなっていくのに、堀のぼんやりとした明るさは失われない。水面の色は、すでに空とは異なるものだった。
「それでね」
 差配は必要なことだけを耳当たりよく話すと、さっさと場を去るのが常だった。が、そのときは言葉を継いだ。
「いとの世話を見てた利兵衛夫婦がよそへ移るんだ」
「え、どこです」
 善治は思わず聞いていた。
「親方の言いつけで、また神田に戻るそうだ。子どもが生まれたばかりで女房が大変だが、こればかりはしたかないねえ」
「それじゃあ、いとの帰る場所はなくなっちまいますね」
 善治は腕を組んで言った。表情のない言い方だった。
「それもしかたないさ。帰る場所なんて、本当のところ、だれにもありはしないんだ」
 常に差配を覆っている薄い韜晦の霧が、その言葉を口にしたときだけは晴れていた。


 差配のその言葉がきっかけだったのか。
 理由はよくわからないが、善治は重いめまいに襲われた。夜のとばりが降りようとしている町が、ひととき眼前から消えた。
 とっさに後ずさって身体を支えた。ほんの半歩程度だったので、差配は気づいていない。時間も一瞬のことだった。
 だが、善治は世界を見る目が変わったのがわかった。
 その一瞬で、善治は遙か遠い先まで見通していた。途方のない数の絵巻物が、頭の中に広げられた気分だった。
 いや、言葉とも絵ともちがう。一人の女性の生、自分自身の行く末が、隙間なくつまった体験として、頭をよぎっていったのだ。
 今は、わかる。
 この先のいつか、いとは一度だけ、自身を引き取り育てた裏長屋に来ることになる。
 子どもとも女性とも言えない年頃で、堀端で善治に一生懸命話しかけていたころの子供っぽさがすっかりと抜けた顔だった。
 彼女は木戸で立ち止まり、しばらく思い惑ったあと足早に去る。彼女に気づく住人はいない。
 その後、大人になったいとが、断り切れない縁談で気性は合わないが甲斐性だけはある男と一緒になること、子どもを一人育ててから長いとは言えない生涯を終えることが、善治にはわかった。
 親と死に別れた多くの子どもにとって、人生の新しい展開は心躍る冒険にはならないこともある。
 普段は紛れていても、節目節目で吹き出してくる大きな不安が、新天地への船出を怯えさせるのだ。
 それは善治も同じだ。
 何も目立つことはなく、この埃っぽい町に簡単に埋もれてしまうような人生であっても、彼にとっては十分に波乱に満ちたものになるはずだった。
 善治は首を振り、珍しく思い出話を続けている差配のわきで、掘割に目を落とした。
 そして、自身に起こった異変がまだおさまっていないことを知った。
 薄闇の中、堀はそれまで善治が見たこともないような色で町に筋を描いていた。
 淀みがちな市中の堀ではもちろん、江戸の海では見たことのないような、明るい翡翠色だ。
 おそらくは、この堀沿いで善治だけが見ている色。
 その青緑を透かして、善治は町を歩く美砂を見下ろしていた。その横には、妙に真剣な表情で美砂の説明を聞く賢一がいる。
 知らない街並みだった。髪型も服装も奇異で、なによりも、二人とも同じ人種とは思えない体つきをしていた。それでも、異国ではないことだけはわかった。
 不思議と、目の前で起こっていることになんとか説明を付けようという思いは湧かなかった。理屈などなくとも、心からの安堵を覚えていたからだ。
 左腕に大きな火傷痕のある女性は、淡々とした表情の裏に大きな喜びを育てている。傍から見ればすぐに勘付くのに、となりの若者だけがまるでわかっていない。
 彼女は、一緒に堀跡を歩いてくれる人がいることが、心からうれしいのだ。
 いとの行き場を失った幼い喜びは、天に向かうことなく、堀の上を漂うだけだった。それが、水面の向こうを歩いている彼女たちの手で花開き、空にとけていく。
 ひとりの人生はあっけなく町の塵芥に帰していく。それでも、思い残した強い情は、いつか誰かが拾い上げて空に放してくれる。
 そのことがわかって、善治は深く息を吐いた。




 賢一は、都会の淀んだ空気とは異質な風を頬に感じて、我に返った。
 首都高の下、江東区のありふれた街並みが、彼の周りを取り囲んでいた。
 これまで急速に増してきた映像の解像度は、一気にぼやけていた。単調な散策の最中に訪れる、深い物思いと似ている。そのかわりに、深い余韻が残った。
 賢一にはわかった。
 終わりだ。ずっと続いていたささやきが、今終わった。
 堀跡をただ漂うだけだった、あどけない情念を正しく空に放つために、もどかしい自分と美砂が選ばれたのだ。
 二人が結ばれれば、伝言は途絶える。それはきっと、予定通りのことだ。ただ、今生の二人の役割が終わったわけではない。
 賢一は感情と呼んでいるもののさらに奥に、まだ揺り動かされるものがあるのだと知った。
 自然と、また頭上を仰いだ。空に水路が思い描けるという美砂のまねをしてみたところで、賢一には重厚な首都高の高架しか見えなかった。
 揺れる水面があれば、若者と女の子が、並んでこちらを見下ろしていたかもしれない。
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