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2章:幽霊少女の願い
元気な少女の恩返し4
しおりを挟む手のひらに溜まる水がこの上なく冷たい。
そして、生ぬるい。
まるで血液のようなそれは、どれだけ洗い流しても拭えない。洗おうとしても、生暖かい血液でしか流れてこない。
凍てつく液体につられ、体が冷えていく。瞬く間に冷えきった体は誰にも壊せない氷となって、どんな暖かい血液だとしても、溶けることはなかった。
「水溢れてるよ?」
大丈夫?とでもいうような抜けた顔をしたゆうきに、春の固まっていた手が溶けた。
春は心底驚いて、何にも染っていない自分の手をゆうきの目から隠した。なんの意味もないと分かっているのに、ゆうきに自分の手を見せたくないような気がしたのだ。
気になったゆうきはのぞこうとするが、春は少しずつ後ずさる。
「お風呂、どうだった?」
苦し紛れに出た言葉だった。
「うん! 気持ちよかった!」
それでもゆうきは純粋だ。
落ち込んでいたことなどもう忘れてしまったかのように、その声は真っ白だった。
「うちのお風呂あまり大きくないから、狭かったでしょう?」
ゆうきは首をぶんぶんと左右に振る。
「お風呂貸してくれただけでも感謝だよ! 白猫さんもキレイキレイできたし」
そういって嫌がる白猫さんを不器用になでまわすゆうに、春は思わず笑った。笑って、話が逸れていったことに安堵する。
春は深呼吸を1つ入れて、ゆうきの名前を呼ぶ。
「もし良かったら、うちでご飯食べてかない? 商店街の人達からたくさん食材貰っちゃったから、うち一人じゃ食べきれなくて」
平成を装う春に、ゆうきは顔をパァーッと明るくさせて、春が野菜を洗っていたシンクに身を乗り出す。
頬に手を当てて幸せそうにするゆうきは、「いただきます」と春に微笑んだ。ゆうきはまだ遠慮というものを知らない。
春は自分の得意な料理でテーブルを花で埋めつくした。皿に乗る一つ一つの料理が輝きを放っているほど、フレンチにまとめられていた。故郷の味、というよりは高級店の味によく似ていて、香りから微々たる味までキメ細やかに整えられている。
ゆうきは目を光らせて料理に食いついた。
白猫さんも与えられたお魚の刺身を珍しく頬張った。
気持ちいいほどの食いっぷりに春は喜ぶ反面、自分の首を締めているような気持ちになる。しかし、首を振ってそれを払う。
「気に入ってもらったようで嬉しいわ」
「すごくおいしいよ!」
食器の当たる音はものの数分で鳴り止み、ゆうきはお腹に手を置いて満腹感に浸った。
春も自分の分を食べ終え、風呂の準備を始めようと隣接する別室に入る。
タンスを開け、下着を手に取る手が止まる。
大きく成長した自分の手のひらに目を落とす。
手のひらがだんだん、腐敗していく。血に染っていた手はいつの間にか死んでいて、もう大きくはならない。
時間が有限であって、それは人それぞれであることを春は分かっている。分かってしまうから、その時間の差に違和感を覚えてしまう。
ゆうきの小さな手。
おいしいことをおいしいと言って、好きなことを好きだと言える素直な気持ち。
いつから無くしてしまったのだろう。それはきっと忘れたのではなく、捨ててしまったのだ。大人になるために、変わる自分を認めようとするために。
そして、春の手に残ったものは━━━━
「食器片付けておいたよ」
部屋にあかりがついていないせいか、リビングからゆうきの影が伸びている。
ゆうきがドアの隙間から顔をひょっこりと出すと、春は風呂の準備を迅速に済ませ、リビングに戻った。
「食器ありがとう。場所わかった?」
春の問に、ゆうきは手を後ろの方で絡めながらモジモジとしていた。焦れったく感じた春はゆうきに「どうしたの?」と問いかける。
「お皿、割ってしまったの·····」
「どのお皿を割ったの!?」
春は反射的に『ゆうき』ではなく『割れた皿』の心配をした。自分がその言葉を口にしたことを頭で理解した途端、口に手を当てて自分の口を黙らせた。
「ごめんなさい」
頭を下げるゆうきに、焦っていた自分の心が解けていく感覚に安心しながら、春は再び心配をした。
「大丈夫? ゆうきちゃん怪我してない?」
打って変わってゆうきを心配する春に、ゆうきは「大丈夫」と強く笑んだ。
まさかあの皿では無いだろう。
ゆうきの返事を片耳に適当に収めながら、頭の中を割れた皿のことでいっぱいにする。春は割れた皿が、友達から貰ったものだとは思いたくなかった。
恐る恐る台所に行ってみると、割れた皿が買い物袋に入れられていた。よく見てみると、やはり友達から貰ったものだった。
仕方ない。いつかは壊れてしまうものだ。
ゆうきを攻めることも出来ない春は、腹の底にふつふつと湧き上がる怒号を抑えるのに必死だった。
ふと、皿に手を添えてみると、鋭利に尖った破片が手に刺さって、血が滲んだ。綺麗な赤色をした血が『いつもありがとう』と皿に刻まれた文字に垂れる。
「あの·····それ、多分お姉さんが大切にしていたものだよね·····本当にごめんなさい」
ゆうきが申し訳なさそうに、春の後ろでもう一度頭を下げた。
「べつに、いいわよ·····きっと、こうなってしまう運命なんだわ、このお皿も」
運命という曖昧な言葉で落ち着かせようとする自分に、春は腹を立てる。けれど、それはゆうきには見せない。
「ずっと使っていたから残念だけれど、安城さんに貰ったものなんて、うちにはもう要らないもの」
「え·····?」
『安城さん』と呼ぶ春に、ゆうきは反応せずにはいられなかった。しかし、1番に驚いたのはゆうきではなく、白猫さんだった。
「ただの友達よ。ちょうどこのマンションに安城さんの家族がいてね。安城さんはその娘で、うちと同い年だったの。このマンションに越してきた理由も安城さんがいたからなの」
淡々と吐き出される真実に、ゆうきと白猫さんは唖然とする。
安城家に関わる人がこんなに身近にいて、偶然、別々に公園で話しかけてきた人同士が知り合いなんて、どれくらいの確率だろうと、無い頭を振り絞ってゆうきは考える。もちろん考えても分からないので、思考はパニックに陥っている。
「じゃあ、ゆうきちゃん、うちはシャワー浴びてくるから、その割れたお皿には触らないでね。あとで掃除するから」
ゆうきは固まった体を精一杯動かそうとしたが、ピクリとも動かず、春の言葉に返事を出せないまま、春は行ってしまった。
ゆうきはその場にしりをつく。
「こんな偶然ってあるんだね、白猫さん·····」
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