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It’s only teenage wasteland. —Baba O’Riley(The Who)

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 基本的に、僕は過去を振り返らないようにしている。未来を見据えているからという気障な台詞を吐くつもりは欠片もない。振り返りたくないのである。汗と血と泥に塗れた日々を、「あの頃は馬鹿やってたよなあ」と懐かし気に思い起こす陳腐な歌や小説は沢山あるが、そんな脳内お花畑のやつらは当事者が過ごさざるを得なかった過去の実態を知らない。周りに反抗して、喧嘩して顔に作った傷は勲章である、といういかにもカラリと晴れ渡った不良時代はフィクションの賜物でしかない。やつらはそうした傷ができる原因を知らないからだ。だから僕は意図的に過去の記憶を抑圧してきた。

 とはいえ、不測の事態によって引き起こされるフラッシュバックには抗いようがない。例えば、妹の成人式に顔を出したら、中学時代に色々な意味で衝突していた奴と再会したときとか。
 中学時代など思い出したくもない黒歴史だ、という僕の言葉に賛同してくれる人は多い。でもそれは中二病だとか生意気だったとか、誇大的な自尊心の成長に理性が追い付いていないだけの到って健全な理由によるものである。僕のように、安寧のために戦わざるを得なかった人間が、どれほどいるだろうか。

 そういう経緯もあって、僕に話しかけてきた何人かの集団のうち、ツイストパーマの太った男が高田だということに気が付いた時なんか、僕は半分気を失いそうだった。何しろこいつには何度も気絶させられ、その分僕もこいつを何度も気絶させたからだ。鼻くそみたいに小さな脳みそは陰湿な嫌がらせの実行に特化しており、僕も妹も何度も煮え湯を飲まされてきた。具体的なことはもはや覚えていない。

 何よりあの三年間を地獄にしていたのは、母に苦労をかけまいと必死こいて誤魔化し続けたことだ。週に二度は口論(と言うより一方的に囲まれて罵られていたわけだが)に巻き込まれ、運が悪ければ殴り合いの喧嘩になる。そのうち僕もやり場のない怒りに任せて高田とか他の生徒を殴ったり蹴ったりするようになって、その全てを隠していた――隠さざるを得なかった日の夜は、食事も喉を通らなかった。「遊んで無茶やってケガした」という、中学生が使うにはあまりにも幼稚な嘘を、母はきっと見透かしていただろう。

 高田が筆頭格だったことは覚えているが、その他の奴らは記憶にない。クラスの違う、ましてや敵をわざわざ覚えていられるほど、僕は良い奴じゃない。だから「よう、何してんだ」とネズミを思わせる眼鏡男が話しかけてきたとき、僕は「誰だ?」と素で返してしまった。

「なんだよ、分かんねえの?」とネズミ男と片眉を吊り上げる。
「おいおいずーみん、十年も会ってないんだから仕方ねえって」と、ネズミ男の背後から、五人くらいの集団が現れ、その真ん中にいた太った男が野太い声を上げた。
「でもよォ、かっちゃん。だってあんなに一緒にバカやってたんだぜ、忘れるかよ」

 ずーみんと呼ばれたネズミ男は、不平そうに背後の太った「かっちゃん」に言った。

「忘れてえことだってあるのさ。なあ、JJ」
「そのあだ名……高田か」
「お、思い出してくれたみたいだなあ。卒業以来だろ? 十年ぶりくらいか。お前ひとり、進学校に行っちまったからなあ」

 高田の片方の唇の端が吊り上がる笑い方は健在だった。健在とはいえ、昔ほどの邪悪さは見受けられない。皮肉な話だが、心身がシステム上大人になったためか。「種はすでに老いているのに、人間はいつまでも子供のまま」とヒトの未熟な内面を看破したジャン・ジャック=ルソーは見事だ。

「妹さんいたんだっけ。それで成人式にか。実は俺も弟がいてよ、それで昔の奴ら呼んで集まってるってわけ。俺らもお互い大人になったな」
「そうか。……あんたは変わらねえが」
「よく言われるよ。顔も体もそのまんまだってな。JJ、いまどこに務めてんだっけ?」
「東京の大学。でも仕事じゃない」

「なんだ、働いてるんじゃないのか。大学っていうから教授かと思ったぜ、なあ」
 ホントだよ、と高田と取り巻きは声を上げて笑った。彼らは何を笑っているのだろう。

「僕に何の用だ」
「相変わらずつっけんどんだねえ、JJはよ。友達出来てんの?」

「友人は群れるためじゃない。昔から烏合の衆のあんたらとは違う。それだけならもう切り上げるぞ」
「おい、待てよ」と背を向けた僕の肩を高田がつかんだ。

「その、今更昔の事なんだが……すまなかったと思って」
「なぜ?」
「いや、だってあんだけケガさせたし……妹さんにも悪いことしちまったし……」
「違うね。『なぜ今更か』の『なぜ』だ」
「あの時は……」
「あの時は?」

 僕は視界の端にいる高田を、この場で殴り飛ばしたくてしょうがなかった。この人間もどきは、今更改心したふうな口をきいたところで、一度作られた傷が癒えないことも想像できないらしい。人間もどきなら仕方ないか。

「あの時は、俺のほうが強いって思ってたしさ。それに、JJだって突っかかってくるし、わけわかんねー本読んで俺たちを馬鹿にしてたじゃないか」
「やっぱり僕に転嫁するんだな。『人間不平等起源論』を僕の手から取り上げて、理解できないからと言って背表紙から引き裂いたのはどこのどいつだ。お前たちは自分の理解の範疇外にあるものを容易に排除する。馬鹿にしていたのはどっちだ」
「あんな本、俺たちへのあてつけだったんだろ」

「あてつけ? あれを読んで理解するくらいしか、気を確かに保つ方法がなかったとは……想像できないだろうな」

「そりゃ、俺は馬鹿だし……」

 ズボンのポケットに入れていたスマホがこれ幸いに振動してくれたので、僕はコートの襟を正して言った。

「そんなことは昔からとうに知っている。ここは晴れの場所だ、二度と僕に近寄るな。謝罪などいらない」

 
     *


「……懐かしいな」

 口の中は鉄の味がした。久しぶりに下にまとわりつく生ぬるい血の味だ。
 街灯の光が眩しい。僕のことをスポットライトみたいに照らしているのだろう。
 体のありとあらゆるところがギシギシと軋む。辛うじて右手は動かせた。左手の様子は分からない。首が回らないのだ。とはいえ刺すような痛みが指先からじわじわと体を蝕んできているので、折れているのは間違いない。腕を骨折するなんて、中学以来一度もやっていない。

「大丈夫ですか? ああ……いったいどうしてこんなことに」

 傘を差した男が僕を上から覗き込んでいる。きっと運転手だ。正月早々車にはねられるなんて、僕も大概ついてない。

「警察と救急車は呼びました。でもお正月だし、時間かかるかもって……」
「まあ……しょうがないですよ、この雨だし、僕の服装も見えにくかっただろうし。ところで、車で流してるの、ザ・フーですか」

「え? まあ、そうですが……」
 運転手は目を丸くした。逆光ではっきりとは見えないが、こんな状況で何を言ってるんだとでも言いたげな顔をしている。

「懐かしいなあ。世代じゃないですけどね、聴いてたんですよ。そうだ、救急車が来るまで流しててもらっても良いですか?」
「は、はあ……。リクエストとか」
「やっぱり、ババ・オライリーかなあ。それから、マイ・ジェネレーション……」

 わかりました、と運転手は頷いてカーステレオの設定のために車に戻った。僕の顔に雨がかからないように傘を置いて行くくらいには、余裕ができたらしい。とはいえ、それが僕のおかげであるという気はさらさらない。僕はカーステレオから流れるザ・フーの音楽に耳を傾けているだけだ。今際の際というわけではないとは思うが、こうも全身が痛みに負けそうなこんな中で勇気をくれるのは、彼らの音楽くらいしかない、と思ってしまう。

 ——Don’t cry. Don’t raise your eyes. It’s only teenage wasteland.
 ――泣くなよ。そんな顔するなよ。不毛な十代ってだけだぜ。

 衝突しなければ生きていけない僕に勇気を与えた曲の弾むようなメロディが、雨音の中でもはっきりと聞こえた。確かこの曲に出会えたのは、中学の副担任が教えてくれたからだったと思う。色々と面倒臭い事情を飲み込んで、「毒にも薬にもならないかもしれないが」ってアルバムを差し出してくれたはずだ。

 ――Sally take my hand. We’ll travel south cross land. Put out the fire, and don’t look past my shoulder. 
 ――サリー、僕の手を取って。南へ行こう。灯りを消して、過去は振り返らないようにしようぜ。

 そうだ。あの子に電話しなくっちゃあな。もしかしたら、これが最後かもしれないんだから。

 僕は真っ赤に染まりながらも、辛うじて動く右手でスマートフォンに手を伸ばした。死にかけの芋虫みたいにアスファルトの上を這った僕の右手は、画面がすっかり割れてしまったスマートフォンを捕まえた。血と汗のせいでスワイプするのに苦労したが、僕はなんとかあの子に電話をかけることができた。

 彼女は三回のコールで出た。普段電話なんかしないから、取ってくれたのかもしれない。

「……どうしたの? 雨音しか聞こえないけど」
「いや……わかんないけど。俺さ、今どこ?」
「……それ、アンタしか分かんなくない?」
「それもそうだな。そうかもしれねえ」

「何かあった?」
「はねられちった。朝まで生きてるかわかんね」

「……死んだら、一生殺すから」
「意味わかんねえ電話してんじゃねえっての」
「こっちのセリフ。家の前?」
「ああ。多分」

「生きてなさい」

 彼女は乱暴に電話を切った。ここまで歩いて十五分くらいは掛かるはずだが、本当に来るつもりなのだろうか。こんな暗くて陰鬱な夜に、傘を差して。でも、彼女なら来るかもしれない。
 それを思うと、僕はなんだか涙がこみあげてくるのを感じた。これまで誰にも見向きもされなかった反動、というとすごく陳腐な気がするが、それでも僕の隣にいようとしてくれている人がいるんだ。もう少し、生きても良いかもしれない――生きることができれば。

 曲はいよいよクライマックスに差し掛かって、ケルティックな笛の音が加速度的に音を重ねていく。その渦の中で、僕の意識は途絶えた。


     *


「……っていうことがあったんだよ」
「へえ。てっきり、そのまま死んだのかと思った」
「相変わらず、笑っていいのかわからない冗談が多いね」
「笑っていいよ。だって、こうして現に生きているから」

 彼女はそう言って穏やかに笑った。僕もそれを見て笑い返した。二人並んで見つめる夜明けの交差点に、カラスが二羽遊んでいる。
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