恋してしまった、それだけのこと

雄樹

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最終章【未来17歳/沙織29歳】

第109話 あなたは光。【未来17歳/沙織29歳】

 数日前。

 久々に実家の門の前にたった私は、大きく息を吸った。相変わらず、大きい家だな、と思う。私の家はいわゆる旧家であり、地元の田舎ではそれなりに由緒正しい一族、なのだった。

(息苦しいな…)

 そう思う。
 実家が嫌いなわけではない。両親が嫌いなわけでもない。愛しているし、愛されてきたとも思う。けど、姉さんが亡くなってから、時間が止まってしまったような家の中にいるのは耐えられなかった。
 仕事の為、と理由をつけて実家を出てから、もう3年になる。
 私はこの3年で恋を知り、自由になったと思っていた。けれど両親から用事があると言われて実家の門の前に立つと、自由という翼を手に入れたとは思っていたけど、実は足に鎖が巻き付いていたままだったんだな、と実感する。

「沙織さま、おかえりなさいませ」

 住み込みでお手伝いをしてくれている斎藤さんに声をかけられた。私が生まれた時からずっと家に仕えてくれている斎藤さんは、昔からお爺さんだったけど、今でも変わらずお爺さんのままだった。

「ただいま。お父さんとお母さんは?」
「中でお待ちです」
「そう。有難う」

 家の中に入る。
 一段と、空気が重くなったような気がする。
 廊下を歩きながら、外を見る。庭の手入れは行き届いていて、斎藤さんがずっと駆らず管理してくれているんだろうな、と思った。

(庭の柿の木…)

 私が生まれた日に植えられた柿の木が、今では大きくなっているのが見えた。私は29歳。だからこの柿の木も、29歳なのだ。
 柿の木を見ていたら、姉さんのことを思い出した。
 幼い頃の思い出。姉さんとの思い出。
 柔らかなその思い出が、私の心をほんのりと温かくしてくれる。
 そんな事を考えながら歩いていたら、いつの間にか客間の前に立っていた。

(実家なのに、客間に入るのって、なんか変な感じ)

 くすりと笑いそうになる。家を出た私にとって、この家は実家ではないのかもしれないな、と自虐的に思った。

「ただいま帰りました」

 中に入る。
 客間は和室であり、畳の匂いがする。
 壁に飾られている掛け軸には水墨画がかかれており、作者は知らないけど、それなりに高いものだとは分かる。
 座卓の向こう側には、お父さんとお母さんが座っていた。
 2人とも和服で、私をみると優しく笑ってくれた。

「沙織、おかえり」
「久しぶりね…もっと帰ってきてくれていいのよ。ここは貴女の家なんだから」
「うん、仕事が忙しくて」

 向かい合って、座る。
 久々に見るお父さんは、皺が増えていた。お母さんも白髪が増えている。2人とも動きも少し緩慢になっていて、時間が止まっていたと思えたこの実家が、実は緩やかながらに動いていたんだな、と分かる。

「仕事はつらくないかい?」
「大変なこともあるけど…やりがいもあるよ」

 教師という仕事が私に向いているのかは分からないけど、私がやりたいことなのは間違いなかった。昔の姉さんみたいに、私も人を導ける存在になりたいな、なれるかな、と思う。

(なんか今日、姉さんのことばかり思い出すな)

 久々に実家に帰ったからかもしれない。姉さんと一緒に過ごした時間や思い出が家のいたるところに残っていて、それが私の記憶を呼び覚ましてくるのかもしれない。

「沙織、いくつになったんだったかな?」
「もうお父さん、娘の年齢も忘れちゃったの?」
「この歳になると、だんだんと時間の感覚が無くなってきてね」

 そう言いながら、お父さんは頭をかいた。昔は私と同じように真っ黒な髪だったのに、今はもう白髪が増えている…というより、白髪の方が多くなっている。昔と比べて、お父さん、小さくなったような気がする。

「29歳だよ」
「そうか…もうそんな年か…」

 お父さんは少し、寂しそうな目をした。

「陽子の年に、近づいてきたな」

 陽子…姉さんの名前。かつて私が愛した人で、今はもう亡くなってしまった最愛の姉。8つ年上だった姉さんの時間は30歳で止まってしまっていた。死んでしまった姉さんは年をとらないのに、私は毎年ひとつずつ年をとっていく。来年には追い付いて、再来年には追い越してしまう。あらためて、それを実感させられてしまった。

「紬希が7歳で、未来も17歳か…孫たちも大きくなっていくな…嬉しいけど、そのぶん、私たちも年を重ねてきた、ということか」

 お父さんの口から未来、という単語を聞いて、少し胸が痛んだ。
 未来は私の恋人なんです、とは、お父さんには口が裂けても言えない。
 あなたの娘は…あなたの孫を…とってしまいました、だなんて。

「それで沙織…ああ、なんていうか」

 お父さんは少しだけ口ごもったあと、私を見つめていった。

「お前ももう来年は30歳だ。なにか…いい人でも、いないのかい?」

 胸が締め付けられる。現実を突きつけられる。います。恋人がいます。あなたの孫です。女の子です。あなたの娘は、あなたの孫と付き合っています。家族なのに、女同士なのに、年も離れているのに、駄目なことを、許されないことをしています。

「…いないよ」
「そうか…」

 言えるわけがない。
 目の前のお父さんとお母さんは、とても小さく見える。昔はあんなに大きかったのに、私が大きくなったから、かな。ううん、違う。二人とも年をとったからだ。

「実はお前に、縁談の話が来ているんだ」

 え…
 一瞬、耳が遠くなった気がした。

「お父さんの恩人の息子さんでな。まだ若いのに大学教授をしていてるんだよ」

 お父さんは笑っている。お母さんも笑っている。それは暖かい笑顔で、私のことを考えてくれている笑顔で、心配してくれている笑顔で、そして私の心をからめとっていく笑顔でもあった。

「陽子は…早くに亡くなってしまったが、それでも浩平くんという相手がいて、それに未来や紬希を残して、あれはあれで…幸せだったのだと思う…」

 そう思いたい、と、お父さんは自分に言い聞かせているみたいだった。

「人生って、何が起こるか分からないからね…お母さんたち、あなたのことが心配なのよ」

 お母さんも私を見つめてくる。母の愛、を感じる。感じるからこそ、心が痛い。

「もしもお前にすでにいい人がいるのなら無理にとは言わないのだが、いないのなら、一目会うだけでもいいから、お父さんとお母さんを安心させてくれはしないか?」

 いい人、いるんです。
 心から大事な人、いるんです。
 愛する人、いるんです。

 …それは、あなたの、孫なんです。

 言えない。言えないよ。
 姉さんを…愛する娘を失った両親に、さらにその孫まで奪おうとしているなんて、言えるわけがない。

「会ってみて、それで合わないと思うなら、断ってくれてもいい。けれど、一目会うだけでもいいから、これが最後のお願いだから、どうか会うだけでもあってやってはくれないか、沙織」
「お父さん、いつも心配しているのよ…私だってそう。あなたももう30歳になるんだから、先のことを考えてくれたら、お母さんも安心するわ…沙織」

 お父さんとお母さんが私を見る目は、澄んでいて、本当に私を心配してくれているのが分かって。
 小さく震えていて。
 ふと、想像してしまう。

 姉さんが亡くなって、私が家から出て、部屋で2人、黙ったままで座っているお父さんとお母さんの姿を。
 小さくて、寂しそうで、暗くて。

「…会うだけ、なら」

 答える。
 そう答えるしか、ない。

「よかった!」
「いい人だから、沙織も絶対に気に入るわよ…っ」

 悦び、色づいて明るくなる両親を見て。
 私は力なく笑いながら、

(未来)

 恋人のことを考えていた。
 私が何よりも大切で、誰よりも愛していて、絶対に手放したくない、

 この両親の、孫のことを。




■■■■■


『未来、明日、朝から晩まで、一日中、デートしない?』

 家に帰って電気もつけずに、ずっとスマホに打ち込んだ文章を送れずにいた。
 7月半ばの夜は暗くて暑くて、暑いけどクーラーをつける気にもならない。頭の中がぐらぐらして、割れそうで、でも、未来にはちゃんと、私がお見合いをすることになったと告げなくちゃいけないと思って、でもスマホでそれを伝えるのは嫌で、直接会って言いたくて、でもそのきっかけを作るのも怖くて、ずっとずっとスマホを持って悩んでいて。

(未来…)

 目をつむり、送信する。
 してしまった。
 すぐに返事が来る。

『もちろん!デートしたいです!沙織さんを独り占めしたいです!』

 なんて輝いている文章なんだろう。
 未来が喜んでくれているのが分かる。未来の愛情を感じて、嬉しくて、泣きそうで、それを裏切ってしまっているみたいで、嫌になってしまう。
 大好きなのに。
 大好きだから。
 ちゃんと…伝えないと。

 会うだけだから。
 未来を裏切っているわけじゃないから。
 だから。

 許してほしい。



■■■■■


 デート当日。
 私は待ち合わせ場所に、1時間も前についていた。
 暑い。
 今日は日差しが暑い。
 このまま私を焼いてほしい。恋人に秘密を持ってしまっている私なんか、焼かれてしまった方がいい。

「沙織さん…っ」

 私を呼ぶ声がした。
 未来の声だ。
 心臓が跳ねる。この子の声を聞くだけで、私、駄目だ。駄目な私になってしまう。

「未来…」

 考えるよりも先に、身体が動いていた。
 未来の姿がみえる。白のキャミワンピに、涼しそうな青いシャツ。可愛い。なんて可愛いんだろう、私の彼女は。
 一瞬でも早く触れたくて、足を速めてしまう。

「待たせてしまってごめんなさい」
「ううん。大丈夫よ。私もついさっき来たところだから」

 嘘をつく。
 本当は1時間も前に来ている。会いたくて、でも会いたくなくて。
 今日、私は未来に、お見合いをすることになったという事を伝えなければいけない。でも怖い。だから、少しでもその時間を先延ばしにしたくなる。

 未来が、手を握ってきた。
 私は反射的に、本能的に、手を握りかえす。
 握った未来の指に、硬いものがはめられているのが分かる。指輪だ。私と未来の、おそろいの、記念の指輪。

「未来、指輪してくれてる」
「当り前です…」

 はにかむ未来を見て、私の心が痛む。
 こんなにまっすぐ私を求めてくれる恋人に、私は今、隠し事をしている。
 手は繋がっているのに、心がつながっていないような気がしてしまう。

「沙織さん、今日も素敵です…すっごく綺麗で、大人で、私みたいなのが横を歩いていたら沙織さんはずかしくないかなって思っちゃう…」
「そんなことない…私の方こそ、未来があまりに可愛くて、眩しくて、私なんかが隣にいていいのかな、って思うわ」

 こんな、嘘つきの大人なのに。
 私なんかが隣を歩いていて…いいわけが、ない。

「沙織さんは素敵ですっ」

 そんな私の心を読んだかのように、未来がまっすぐに私を肯定してくれる。嬉しくて、私も言葉を返す。

「未来こそ素敵よ」

 未来の方だけが、素敵よ。

「…」
「…」
「えへへ…私たち、同じようなこと言ってますね」
「ええ…だって、私たち」

 恋人同士、ですもの。

 恋人同士、なのに。
 未来は星で、私は夜だ。
 自分で自分のことが嫌になる。

「今日はどこに行きます?」
「…ちょっと、遠いところまで行きたいな、って」

 遠いところに行きたい。
 逃げたい。
 全てのしがらみから離れて、未来と2人きりになりたい。

 …本当は、逃げられるわけなんてないのだけど。

「それでいい?」
「もちろんですっ」

 私を疑いもしない未来の言葉を聞いて、私は空を見上げた。
 7月の今日の空は高く住み渡っていて、いつか現実に追いつかれるまで、2人で逃げていきたいな、と思った。



■■■■■


「潮風がすごいー!」

 先に電車から降りた未来が走って外に行き、両手をあげてそんな感想を述べている。
 遠くに海が見える。私はその海と一緒に輝いている未来を見ながら、

「綺麗なところね」

 と言った。
 綺麗なのは未来だ。
 この子は、どんな世界の中にいても、世界を美しく変える力を持っている。

 未来は振り向いて私の傍にくると、自然に私の手をとってくる。

「私の住んでいる街も海辺の街なのに、この違いは何なんでしょうかね…」

 どこだって、未来のいない街は私にとって意味なんてない、と思う。
 私の世界は未来で。未来のいない世界なんて私の世界じゃない。

「泳ぎます?沙織さん?」

 ふいに、未来がそんなことを言ってきた。
 可愛らしい目で私を見てくる。
 視線の位置は、私より少し高い。いつの間にか未来は私の身長を超えていて、私より大きく…綺麗に成長していた。

「泳がないわ…未来の前で水着になるのは恥ずかしいもの」
「私、沙織さんの水着姿見たいです」
「そう言われても…」

 水着姿になって並んだら、さすが肌のはりの差があわらになっちゃうし…

 未来は17歳。
 私は29歳。
 いくらとりつくろうが、この12歳という年の差は縮まることはないのだ。

「沙織さん、水着見にいきません?」
「え…」

 突然の未来の提案に、言葉が詰まる。

「来月、またデートしたいです。その時は海で泳ぎましょう!」
「でも…」

 来月。
 来月には…お見合いがある。
 私は、こんな可愛い彼女を裏切ってお見合いに行こうとしている。別に会うだけだから、断るつもりだから、問題なんてない…はずなのに。
 なのにそのことを伝えることができていない私は、もうこの時点で、未来を裏切ってしまっているのかもしれない。
 私なんて…私、なんて。

「私の水着姿、見たくないです?」

 思考が止まった。
 単純な私は、頭の中に未来の水着姿を想像してしまった。
 未来の肌。絹のような滑らかな肌。
 絶対に可愛い。絶対に…えっち。
 駄目。
 こんな恋人を裏切ろうとしている私なんかが、未来の水着姿妄想するなんて、あまつさえ見たいと思うなんて、そんなの許されるわけがない。

「……………………………………………………見たい」

 私は欲望に勝てなかった。
 だめ教師。
 エロ教師。
 12歳も年下の恋人の水着姿想像して興奮してしまうなんて、最低。
 もうちょっと大人になれ、私。
 
「…すっごい水着、買っちゃいません?沙織さんの望んだ姿に、私、なりますから」

 ビキニ着せたい。
 未来の身体…みたい。
 他の誰にも見せたくない。
 腰のライン…見たい。
 
 エロ教師で駄目教師のばーかばーか。

「うん」

 見たい。







 2人で水着のお店に入って、いろいろと見て回る。
 頭の奥底には、早くお見合いするという事を伝えなければならない、でないと、恋人を裏切っていることになる、早く、早く、という思いが残っているのに、水着を見ていくうちにその想いを頭の隅に追いやっていかれるのが分かった。

「未来、これ、どうかな?」
「すっごく素敵です…っ」
「でも、派手じゃない?」
「そんなこと全然ないですっ。私、この水着きた沙織さんっみたいですもん」

 エスニックな柄の水着を手に取り、身体にあててみる。
 もう30手前なのに、いいのかな。
 嫌なことに目をつむり、目の前の享楽にだけ身を浸す。
 嫌な事。
 30手前という年齢。
 両親からすすめられたお見合いを受けることにしたという、背信。
 少しだけ、一瞬だけでも、このしがらみから抜け出したい。

「これどうです?」

 未来が尋ねてきて、私の思考は中断された。
 振り向いてみてみると、未来が大胆な水着を手に取っていた。大事なところがいろいろ見えてしまいそうなデザインで、30手前の私には…

「…ちょっと私には大胆すぎるかな…」
「沙織さんじゃなくって、私にですよー」
「すっごくいいと思う!」

 脊髄反射で答えていた。
 エロ教師。最低。

 楽しいなぁ。
 未来と2人でいるの、楽しいなぁ。
 幸せだなぁ。
 この幸せが、永遠に続けばいいのになぁ。

 レジに行き、未来の選んだ水着を店員さんに渡す。
 それなりのお値段だったので、カードを渡した。

「悪いです、私が払いますっ」

 未来が語り掛けてくる。
 もう、未来は学生なんだから、ここは大人の私にまかせておきなさい。

「ううん…選んだのは私だし…それに…」

 来月のことを思う。
 お見合いをする私。実家に、両親に、しがらみに、がんじがらめにされている私。たぶんそれは世間的には幸せで当たり前のことで、年下で女同士で叔母と姪で付き合っている方が異常な行動なのだろう。
 でも、もしも許されるなら。
 しがらみを捨てて、自由になれる未来があるのなら。
 未来と一緒の未来があるのなら。

「…この水着をきた未来を…私が見たいから」

 許されるなら、つかみ取りたい。



■■■■■


 それから。
 たくさん買い物して、たくさん遊んで、たくさん楽しんで。
 時間がどんどん過ぎていった。
 時間は止まることは無かった。
 最後の時間が近づいてきているのが分かった。

「ちょっと暑いわね」

 太陽が私たちを照らしている。
 私はブラウスを少し広げて、空気を入れる。
 暑い…暑いから、逃げたい。
 逃げる場所なんて、どこにもないのだけど。

「わ、私、冷たいもの買ってきますっ」

 未来はそう言うと、なぜか顔を真っ赤にさせて走り去っていった。
 その背中をみながら、ぼぅっと考える。

(…言わなきゃ)

 未来に、ちゃんと伝えないと。
 私、お見合い、するんだよ、って。
 どんな顔するかな。
 見たくない。未来が傷つく姿なんて見たくない…ううん。違う。私は怖いだけだ。夢のようなこの時間は、実は砂上の楼閣だと知りたくないだけだ。

 お父さんと、お母さんと、世間。
 当たり前の幸せを、当たり前に享受することが、本当は正しいんだろうな。

「はい、沙織さん」
「ありがとう、未来」

 そんな事を考えていたら未来がジュースを手に帰ってきた。
 私はありがたく受け取ると、蓋を開け、中身を飲む。
 冷たい液体が喉を通り、胃の中に入っていく。

 冷たくて甘い味が、私の心を落ち着かせた。

「冷たくて美味しいわね」

 冷静になる。
 暑くて火照った頭を冷ましていく。

「そ、そうですねっ」

 落ち着いていく私とは対照的に、なぜか未来の方はあたふたしていた。

「どうしたの?未来?冷たいもの一気に飲んで、お腹でも痛くなった?」

 心配。
 私はどうでもいいけど、私の大事な未来に何かがあったら大変。
 自分よりも、大切な人がいる。

(…お父さんも、お母さんも)

 そう、なのかな。
 自分よりも、私のことの方が大事なのかな。
 娘だし。
 血をわけた、たった一人残った、娘だし。

(姉さん…)

 姉さんは死んでしまった。
 だから、あの人たちに残された娘は、私しかいない。
 私が幸せになることこそが、あの人達の望みであって、私はできるだけ、それにこたえてあげたい…答えてあげるのが、娘としての両親への愛情、なのだと思う。

「な、なんでもないです…」

 そう言いながら一気にジュースを飲み込んでいく未来を見ながら、私は幸せについて想いを巡らせていた。



■■■■■


 夕方。
 7月の太陽はまだ頑張っているけど、それでも、陽射しは弱くなっている。
 永遠に続く昼はないのだ。
 いつかは終わりが来て、夜になるのだ。

 私と未来に残されている今日という時間も、残り少なくなってきているのだ。

「きゅっきゅって音がする気がします」

 手を握ったまま、未来と砂浜を歩く。
 私たちの足元から、音がなる。

「有名な鳴き砂の海岸じゃないけど…でも、たしかにするわね」

 鳴いている音。
 きゅっきゅって、鳴いている音。
 足跡は残る。
 私たちは、たしかに、いま、ここにいる。

「帰りたくないなー」

 未来が、言う。

「ずっと沙織さんと、こうしてデートしていたなー」

 未来の言葉が心に刺さる。
 私だって…私だって、そう思っている。
 こうして、未来と2人で、いつまでもどこまでも、ずっと一緒にいたい。
 もしもこの世界にいるのが、私と未来の2人だけだったら。
 こんなに悩むことなんて、こんなに縛られることなんてないのに。

「そうね…」

 デートしたい。
 ずっと、ふたりで、歩き続けたい。
 風が頬にあたる。
 少しだけ、冷たさを含んだ風。夜を含んだ風。
 永遠に続く昼なんてないのだと、知らしめさせられる。

「教師であることも、叔母であることも、女同士であることも、年の差も、全部忘れて、こうして未来と幸せに歩いていきたいわ…」

 姉さん。
 お父さん。
 お母さん。
 今まで生きてきた年齢が、今までかかわってきてくれた人たちが。
 みんなの愛が、愛情が。
 鎖となって、まとわりついてきて、私を海の底へと沈みこませていく。

 また、風が吹く。
 私の髪が目の前にたなびく。
 さっきより、冷たい風。
 夜が近い。

「ずっと、一緒に歩きましょう!」

 未来はそう言うと、私の手を離して、前に走っていった。
 未来が走ると、きゅっきゅっきゅっと、砂のなる音がする。

 未来は…私の手を離した。
 残された手が、未来の暖かみをたしかに覚えていて…寒い。

 未来は振り返ると、少し照れくさそうに頬を染めながら、私を見ていった。

「私は沙織さんの恋人で…私は、沙織さんのものですから、私をずっと好きにしてもらっていいですからねっ」

 どうしてこの子は…こんなにまっすぐなのだろう。
 嘘もなく、偽りもなく。
 ただ純粋に、私に向き合ってくれている。

 波の音がする。
 足元の傍にまで、波が来ている。

「私、幸せです。大好きな人と、こうして一緒にいられるんですもの。沙織さんと一緒にいたら、ずっと胸の奥がじんじんと熱くなってきて、なんか身体中が痒くなってきて、じわじわーってなって、なんていうか…」

 未来は自分でも何を言っているのか分からなくなったみたいに、頭をわしゃわしゃってしながら、それでも立ち止まり、私をみて、まっすぐに一直線に最短距離で、私に言葉と気持ちを伝えてきた。

「沙織さん、愛しています」

 それは単純な言葉で。
 それは素敵な言葉で。
 それは純粋な言葉で。

 私の恋人は、私にはもったいないくらい、最高の人だった。

「…私も、愛してるわ」

 嘘偽りのない、私の言葉。
 そう言って、ほほ笑む。
 私、ちゃんと笑えているかな。
 私、ちゃんと、嘘つけてるかな。

「愛してます」
「愛してるわ」
「好きです」
「私も、大好き」
「…」
「…」

 一歩、また一歩。
 未来が私に近づいてくる。

 一度私の手を離した未来が、また、私の手を掴もうと、私の心を掴もうと近づいてくる。

 手が寒い。
 私はそっと、自分の右手の指輪の存在を感じていた。
 未来への愛情はここに残っている。
 未来以外の人を愛することなんて、私にはできない。

 私は未来を幸せにしたい。
 私は私を幸せにしたい。

 我儘かもしれないけど、我儘を言いたい。

 お父さん。
 お母さん。
 姉さん。

 小さくなった、あの背中。

「あのね…」

 一瞬だけ、口ごもる。
 伝えなきゃ。伝えないと。
 お見合いなんてしたくない。
 未来以外の人に触れたくない。

 私の心は未来のもの。

 未来にとっては、私は沙織さん。
 ただの、沙織。
 何もついていない、私だけ。
 未来は全てのしがらみから離れて、私だけを見つめてくれている。

 けど、私の身体は。
 水瀬沙織。

 苗字が、血が、親が、世間が、想いが、愛が。
 育ててくれた結果、ここに立てている。

「私…今度…お見合い、するの」

 波が、私たちの足跡を消していった。
 世界は綺麗になり、まっさらになり。

 壊れた世界を、また、作りたいと思った。
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