うちのニンゲン観察記録

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ピュリラスカ編

氷解

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 保護から一週間。
 「ニコ」
名前を教えてから、彼はたびたびニコラをそう呼んだ。ニコラ、と発音することはできるので、おそらく愛称として口にしているのだろう。ニコラはというと、彼の名前をうまく発音できなかった。仕方なく、ピューリと呼んでいる。彼はニコラに名前を呼ばれるのが心底嬉しそうだった。
 退屈なので辞書を読んで、字の書き取りをした。ピューリが何か機械を見せてくれて、それでインターネットのようなものが使えることがわかった。何としても文字が読めるようになってやる、とそこでようやくやる気が起きた。
 ピューリは必要以上に干渉してこようとはしなかった。生活に必要なことだけ手助けしてくれて、あとは少し離れたところから、優しい目でニコラを眺めていた。

 保護から二週間。
「ピュリラスカ」
ついにフルネームを発音できるようになった。ピュリラスカは小躍りして喜んで、なにやら陽気な音楽をかけて本当に踊りだした。ニコラはつい声を上げて笑い、それを見たピュリラスカは少ない表情筋をいっぱいに動かして、心底嬉しそうな顔をした。

 保護から一ヶ月。
 ニコラはピュリラスカを信頼しはじめていた。ピュリラスカはニコラに指一本、触手一本も触れようとせず、微笑み、見つめることでニコラを慈しんだ。
 ピュリラスカはニコラに寝室を譲り、ほとんど入っては来なかった。一度だけ、ニコラが寝室にいない時に荷物を運び出していた。
 ピュリラスカはフリーのエンジニアらしい。日中はひたすら機械や端末をいじり、誰かと通信で会話をして、帳簿をつけ、たまに工房らしき仕事部屋にこもる。ニコラはそれを隣で眺めたり、クァラリブス語の勉強をしたり、端末を使って音楽を聴いたりした。

 保護から二ヶ月。
 初めてピュリラスカが寝ている横で昼寝をした。起きたらピュリラスカが感動で大泣きしていて、ニコラは笑った。
 愛というものを、ニコラは初めて家族以外から受けた。家族と呼べるものも祖母以外にはおらず、その祖母も最近亡くなってしまった。ニコラは、自分が愛に飢えた可哀想な子どもだったとは思わなかった。ただ、ピュリラスカの愛を感じてから、これが自分が求めていたものだったのだと初めて気づいた。
 ピュリラスカはニコラのために料理に火を使い始め、風呂の適温を覚え、こまめに掃除と洗濯をした。ピュリラスカの生活区域や仕事場はいつも物が散らばっているから、本来まめな性格でないのは見て取れた。ピュリラスカは外に出かけるといつも土産物を買ってくる。美しい細工や美味しい菓子にニコラが喜ぶのを、ピュリラスカはいつも嬉しそうに見ている。ニコラはピュリラスカの愛を受け入れはじめていた。


 ニコラがかわいすぎてしんどい。生きるのって素晴らしい。そんな矛盾した感情を抱えながら、ピュリラスカは日々を生きていた。元々仕事は嫌いじゃなかったが、ニコラを養うためにさらに力が入った。ピュリラスカは機械弄りの何でも屋だった。開発も修理もやるし、プログラミングもする。今まで自分が食える程度に注文を絞っていたのを、稼ぐ方向にシフトした。もっと注文を受けてくれと常々言ってきていたクライアントたちは、ありがたいことに喜んで発注を増やしてくれて、仕事はやってもやっても減らない。ピュリラスカが忙しくしている横でニコラは言葉の勉強をしたり音楽を聴いたり、ニンゲンの曲を歌ってくれたりして、ピュリラスカを和ませた。
 ニンゲンはただの愛玩動物ではない。ピュリラスカはニコラと暮らし始めてようやくそれを実感した。ニコラは一生懸命に言葉を覚え、日常生活に必要なコミュニケーションを身につけた。彼には知性があり、自尊心があり、感情があった。そのことを感じるたびに、初対面の彼を傷つけたこと、自尊心を貶めたことへの自責の念が尽きなかった。彼が笑い、ピュリラスカの愛情表現に喜ぶたびに、ピュリラスカは涙が出そうになる。ニコラは強いニンゲンだった。こんなに弱い身体で、環境に適応して生きようとしている。暴力とも言えるピュリラスカの行為にも、ニコラの気高い精神は屈さなかった。ピュリラスカは彼を愛さずにはいられなかった。

 保護から三ヶ月。
 ニコラに求愛したいという気持ちが抑えられなくなってきていた。ピュリラスカはいくつもの贈り物をし、溢れんばかりの愛を財力で発散しようとした。最初のほうは上手くいった。しかしだんだんと、物を贈るだけでは満足できなくなり、彼に触れたい気持ちが強まっていった。
 これではいけないと、ピュリラスカはますます仕事に打ち込んだ。ニコラのために金を使いたいという欲求が高まりすぎて、ニンゲンが求婚する時に使う指輪まで注文した。もちろん最高級の職人が揃うグーラ族の店でだ。
 そうやって忙しくして煩悩を少しでも頭から追いやろうとしていると、ある日ニコラが辞書を片手に仕事部屋にやって来て聞いた。
「しごと、いそがしい、の」
ピュリラスカはあらゆる触手で工具と部品を掴んだ状態で、口ごもりながら答えた。
「あー、うん、そうだね。忙しいかな」
ニコラは顔を曇らせた。
「ぼくの、ために、いそがしい、の?」
ピュリラスカは答えられずに黙り込んだ。間違ってはいなかったからだ。ニコラは眉を寄せて言う。
「ぼくの、お菓子、いらない。おもちゃ、いらない。あたらしい服、いらない」
ピュリラスカは衝撃で固まった。それは求愛の拒否にも等しかった。触手で掴んでいた工具たちが音を立てて床に落ちた。ニコラは驚いて床を見ている。
「そんなこと言わないでくれ」
涙が溢れてくる。ピュリラスカは思わず嗚咽を漏らして泣いた。ニコラはびっくりした顔でピュリラスカを見つめた。
「君のために金を使うことでしか俺は愛情を示せないんだ……」
ピュリラスカが涙ながらに言うと、ニコラは眉を寄せて少し考えて、こう言った。
「むずかしい」
そうだよね!! 何も言えないでいるピュリラスカに、ニコラは考え考え、伝えた。
「おくりもの、うれしい。ピュリラスカがいそがしい、うれしくない」
ピュリラスカはハッとした。ニコラは一生懸命喋った。
「いそがしい、よくない。お金たくさんつかう、よくない。おくりもの、よくない」
 つまり、ピュリラスカが無理して仕事をしているなら自分に使う金を減らせと言っているのだった。初めてニコラから気遣われて、ピュリラスカは胸がじんとした。でもごめん、お金をたくさん使うのは君が好きだからだし、たくさん働くのは君のことが好きすぎるからなんだ。ピュリラスカは泣きながら言った。
「君を愛してるよ」
 ニコラは最初、意味がわからなかったらしかった。聞き取れてはいたようで、辞書を捲り始める。やめてくれ、恥ずかしいから……。ピュリラスカは羞恥に耐えながら、ニコラが辞書で調べ終えるのを待った。
「あい、し、て……、……。……愛してる!?」
ニコラが繰り返した。ピュリラスカは猛烈に恥ずかしくなって、唸りながら顔を覆った。
「うん……」
「これ? 合ってる? ただしい?」
ニコラはしつこく辞書を見せて確認してくる。もう勘弁して。
「正しいよ……」
ピュリラスカは項垂れながら答える。いっそ殺してくれ。ニコラは黙って考えていた。そして言った。
「うん」
うん?  ピュリラスカが顔を上げると、ニコラは何やら決意に満ちた顔でピュリラスカを見つめていた。真剣な声色でニコラは言った。
「わかった」
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