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ゆうべには白骨となる
【一】忙中有閑
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宮田誠人が血相を変えて事務所に飛び込んできたのは、暖かい春の陽射しが眠気を誘う昼下がりの午後のことであった。
事務所内には紺色のカーディガンを肩で羽織った女性社員がひとり。
彼女はデスクの椅子で長い黒髪をだらりと垂れ下げ、背もたれに身体を深く預けるようにして物憂げに視線を泳がせている。
開口一番に「大変です!」と告げる誠人の声は、直後にかかってきた電話の着信音にかき消される形になってしまった。
一つ目のコール音が鳴り止まぬ内に素早く受話器を取り上げた女性社員は、誠人の異様に焦った様子を察しながらも、彼に向けて突き出した左手と目線で(「ちょっと待て」)の合図を送る。
「――お電話ありがとうございます。瀬古葬祭店でございます」
背もたれからガバっと身体を起こした彼女は、居住まいを正すと同時に穏やかな透き通る声で話し始めた。
かしこまった態度に反して、ゆるゆるのリボンタイがブラウスの胸元でだらしなく揺れている様は何ともちぐはぐで滑稽だ。
「はい。はい。本日お通夜の田中家様へのご供花でございますね。ご注文ありがとうございます。お花の種類は洋花で統一させて頂いておりますが、よろしいでしょうか。では、こちらからご注文用紙を――」
ドアを背にして所在なさげに立つ誠人を尻目に、彼女は淀みなく電話口での応対を済ませた。
通話相手が切るのを無言で数拍待ち、受話器をコトリと置いたのを見計らって堰を切ったように誠人が声を上げる。
「音喜多さん、大変です!」
緊急事態が発生しました――眉間にしわを寄せ、神妙な面持ちで彼はそう切り出した。
しかし女性社員、もとい音喜多佐和子はというと、電話を切るなりグッと伸びをして――
「――なによ。霊安室に幽霊でも出たの?」などと、先ほどまでの電話口とは別人のように気怠そうな声で応えた。
そして、ぷつんと糸が切れたかのように椅子に再び沈み込む。
佐和子は訝し気に細めた目で、値踏みをするように上から下へと誠人を眺めた。
実際、本当にこの世ならざるモノでも見てきたかと思えるほどに彼の顔色は悪く、額には玉のような汗が浮かんでいる。肩を大きく上下させ、腰のあたりで固く結ばれた両の拳はカタカタと震えていた。
「何があったか知らないけど、幽霊の一人や二人でいちいち驚いてたら保たないわよ。いいかげん慣れなさい」
彼女はぶっきらぼうにそれだけ言うと、椅子をきぃっと回して背を向けた。
「幽霊どころの騒ぎじゃないですよ!」
声を荒らげる誠人の心中は穏やかなものでなかった。どうしようもないほど不安でザワザワとさざめき立っている。自分たちがとんでもない異常事態に巻き込まれつつあると確信していたからだ。
その迸るまでの焦燥感を一刻も早く理解してもらいたくて、やきもきしながら身振り手振りを交えつつ、焦る気持ちを彼女の背中に投げかけつづけた。
が、必死の訴えも虚しく――
「……あのねぇ。ご遺体が『しゃべったー!』だとか、『ヒゲが伸びてるー!』とか、普段からしょうもないことで騒ぎ過ぎなのよ。あんたは」
「だから、そんなんじゃないんですって!」
――と、このような具合に彼女の反応は「けんもほろろ」であった。
このとき誠人は、自分の心臓が早鐘を打ち鳴らしているのを強く感じていた。電話応対を待つ間にいくらか平常心を取り戻しはしたものの、今しがた発覚した「衝撃の事実」があまりに強烈すぎて心が押しつぶされてしまいそうだった。
そんな彼の慌てふためく様子をさして気に留めることもなく、彼女の視線は壁に並んだ二台のテレビモニターの間をゆらゆらと泳いでいる。
片方の画面は監視カメラの映像だ。館内の至るところで撮影されたものが数秒おきに次々と切り替わっていた。
もう一台のモニターはというと、どうやら地上波のテレビで旧作映画を上映しているようだ。古めかしい画質で、銃を抱えた女性が下水道を歩いている場面が映っていた。
リモコンでさりげなく上げられた音量から察するに、彼女が注視しているのは監視映像の方ではないらしい。
その証拠に、ぽつりと一言――
「――『エイリアン2』。今いいとこなの」
とのことだ。(「邪魔してくれるな」)という意味らしい。
同年代の間柄とはいえ、佐和子はこの葬儀会館の館長であり、誠人にとっては直属の上司のひとりである。
ゆえに――部下がこんなにも必死で呼びかけてるのに!――と、誠人の憤る気持ちも至極、ご尤もではある。
ただ――実際のところ、すっかり気を動転させた彼の説明は「……あの! ご遺体が……移してその……、じゃなくて、田中さんが!」といった調子で、まるで針の飛んだレコードの如く要領を得ないものだったので、佐和子がまともに取り合わないのも無理からぬ事ではあった。
「……だから、田中さんがどうしたって? ご遺体はもう式場に移したんでしょ? それとも、まさかとは思うけど――」
軋んだ音を立てながら、椅子が半回転した。
業を煮やした佐和子が一転して詰め寄る。
「――あんた。『棺をひっくり返して遺体を損傷させちゃいました』……なんて言わないでしょうね」
「あ、いえ! ご遺体の状態が悪くなってるってことでは無いんです。ただ――」
そこまで言って誠人は口ごもってしまった。
佐和子が切れ長の眼であまりに鋭く自分を射竦めるものだから、その眼力につい気圧されてしまったというのもある。
しかし、それ以上に霊安室で目にした光景があまりに常軌を逸するものだったので、それをいったいどう伝えたら良いものか迷っていたのだ。
「ただ……その、つまり……」
しばらく逡巡を重ねていた誠人であったが、この張り詰めた空気にいいかげん耐え難いものを感じて、結局は事実を見たままに伝える他なかった。
「……音喜多さん。信じられないかもしれませんが、聞いてください。実は、田中さんが……」
――ええい、もうそのまま言ってしまえ!
「……田中さんが――――――――!」
言った。言ってしまった。
その瞬間、背筋を冷たいものがゾゾッと走る。
火照った顔から、みるみる熱が引けていくのをはっきりと感じた。
言霊とでもいうべきか。それを口にしたことがきっかけとなって、まるで悪夢が実体を手に入れてこの場を支配していくような感覚に囚われた。
不覚にも自分で吐いた言葉が、自分自身を誰よりも打ちのめしてしまったらしい。
それによって誠人は、自分の置かれたこの状況が極めて最悪なものであると改めて自覚しはじめていた。
そして――その告白を境に、二人きりの事務所は長い長い静寂に包まれた。
あまりに突拍子も無いことを言われたので、佐和子はただただ茫然として二の句も継げない様子であった。糸のように細く絞られていた眼も、いまは零れ落ちそうなほどに見開かれている。
言葉にこそ出さないものの、あんぐりと開いた口からは(こいつ、頭でもおかしくなったのか?)という思考が漏れ出ているように感じられた。
硬直して見つめ合った二人を置き去りにして、時計は着々と針を進める。
時刻は午後の一時二十分に差し掛かるころ。
テレビの中では、水中から姿を現したバケモノが、いたいけな少女をさらっていくのであった――
(つづく)
事務所内には紺色のカーディガンを肩で羽織った女性社員がひとり。
彼女はデスクの椅子で長い黒髪をだらりと垂れ下げ、背もたれに身体を深く預けるようにして物憂げに視線を泳がせている。
開口一番に「大変です!」と告げる誠人の声は、直後にかかってきた電話の着信音にかき消される形になってしまった。
一つ目のコール音が鳴り止まぬ内に素早く受話器を取り上げた女性社員は、誠人の異様に焦った様子を察しながらも、彼に向けて突き出した左手と目線で(「ちょっと待て」)の合図を送る。
「――お電話ありがとうございます。瀬古葬祭店でございます」
背もたれからガバっと身体を起こした彼女は、居住まいを正すと同時に穏やかな透き通る声で話し始めた。
かしこまった態度に反して、ゆるゆるのリボンタイがブラウスの胸元でだらしなく揺れている様は何ともちぐはぐで滑稽だ。
「はい。はい。本日お通夜の田中家様へのご供花でございますね。ご注文ありがとうございます。お花の種類は洋花で統一させて頂いておりますが、よろしいでしょうか。では、こちらからご注文用紙を――」
ドアを背にして所在なさげに立つ誠人を尻目に、彼女は淀みなく電話口での応対を済ませた。
通話相手が切るのを無言で数拍待ち、受話器をコトリと置いたのを見計らって堰を切ったように誠人が声を上げる。
「音喜多さん、大変です!」
緊急事態が発生しました――眉間にしわを寄せ、神妙な面持ちで彼はそう切り出した。
しかし女性社員、もとい音喜多佐和子はというと、電話を切るなりグッと伸びをして――
「――なによ。霊安室に幽霊でも出たの?」などと、先ほどまでの電話口とは別人のように気怠そうな声で応えた。
そして、ぷつんと糸が切れたかのように椅子に再び沈み込む。
佐和子は訝し気に細めた目で、値踏みをするように上から下へと誠人を眺めた。
実際、本当にこの世ならざるモノでも見てきたかと思えるほどに彼の顔色は悪く、額には玉のような汗が浮かんでいる。肩を大きく上下させ、腰のあたりで固く結ばれた両の拳はカタカタと震えていた。
「何があったか知らないけど、幽霊の一人や二人でいちいち驚いてたら保たないわよ。いいかげん慣れなさい」
彼女はぶっきらぼうにそれだけ言うと、椅子をきぃっと回して背を向けた。
「幽霊どころの騒ぎじゃないですよ!」
声を荒らげる誠人の心中は穏やかなものでなかった。どうしようもないほど不安でザワザワとさざめき立っている。自分たちがとんでもない異常事態に巻き込まれつつあると確信していたからだ。
その迸るまでの焦燥感を一刻も早く理解してもらいたくて、やきもきしながら身振り手振りを交えつつ、焦る気持ちを彼女の背中に投げかけつづけた。
が、必死の訴えも虚しく――
「……あのねぇ。ご遺体が『しゃべったー!』だとか、『ヒゲが伸びてるー!』とか、普段からしょうもないことで騒ぎ過ぎなのよ。あんたは」
「だから、そんなんじゃないんですって!」
――と、このような具合に彼女の反応は「けんもほろろ」であった。
このとき誠人は、自分の心臓が早鐘を打ち鳴らしているのを強く感じていた。電話応対を待つ間にいくらか平常心を取り戻しはしたものの、今しがた発覚した「衝撃の事実」があまりに強烈すぎて心が押しつぶされてしまいそうだった。
そんな彼の慌てふためく様子をさして気に留めることもなく、彼女の視線は壁に並んだ二台のテレビモニターの間をゆらゆらと泳いでいる。
片方の画面は監視カメラの映像だ。館内の至るところで撮影されたものが数秒おきに次々と切り替わっていた。
もう一台のモニターはというと、どうやら地上波のテレビで旧作映画を上映しているようだ。古めかしい画質で、銃を抱えた女性が下水道を歩いている場面が映っていた。
リモコンでさりげなく上げられた音量から察するに、彼女が注視しているのは監視映像の方ではないらしい。
その証拠に、ぽつりと一言――
「――『エイリアン2』。今いいとこなの」
とのことだ。(「邪魔してくれるな」)という意味らしい。
同年代の間柄とはいえ、佐和子はこの葬儀会館の館長であり、誠人にとっては直属の上司のひとりである。
ゆえに――部下がこんなにも必死で呼びかけてるのに!――と、誠人の憤る気持ちも至極、ご尤もではある。
ただ――実際のところ、すっかり気を動転させた彼の説明は「……あの! ご遺体が……移してその……、じゃなくて、田中さんが!」といった調子で、まるで針の飛んだレコードの如く要領を得ないものだったので、佐和子がまともに取り合わないのも無理からぬ事ではあった。
「……だから、田中さんがどうしたって? ご遺体はもう式場に移したんでしょ? それとも、まさかとは思うけど――」
軋んだ音を立てながら、椅子が半回転した。
業を煮やした佐和子が一転して詰め寄る。
「――あんた。『棺をひっくり返して遺体を損傷させちゃいました』……なんて言わないでしょうね」
「あ、いえ! ご遺体の状態が悪くなってるってことでは無いんです。ただ――」
そこまで言って誠人は口ごもってしまった。
佐和子が切れ長の眼であまりに鋭く自分を射竦めるものだから、その眼力につい気圧されてしまったというのもある。
しかし、それ以上に霊安室で目にした光景があまりに常軌を逸するものだったので、それをいったいどう伝えたら良いものか迷っていたのだ。
「ただ……その、つまり……」
しばらく逡巡を重ねていた誠人であったが、この張り詰めた空気にいいかげん耐え難いものを感じて、結局は事実を見たままに伝える他なかった。
「……音喜多さん。信じられないかもしれませんが、聞いてください。実は、田中さんが……」
――ええい、もうそのまま言ってしまえ!
「……田中さんが――――――――!」
言った。言ってしまった。
その瞬間、背筋を冷たいものがゾゾッと走る。
火照った顔から、みるみる熱が引けていくのをはっきりと感じた。
言霊とでもいうべきか。それを口にしたことがきっかけとなって、まるで悪夢が実体を手に入れてこの場を支配していくような感覚に囚われた。
不覚にも自分で吐いた言葉が、自分自身を誰よりも打ちのめしてしまったらしい。
それによって誠人は、自分の置かれたこの状況が極めて最悪なものであると改めて自覚しはじめていた。
そして――その告白を境に、二人きりの事務所は長い長い静寂に包まれた。
あまりに突拍子も無いことを言われたので、佐和子はただただ茫然として二の句も継げない様子であった。糸のように細く絞られていた眼も、いまは零れ落ちそうなほどに見開かれている。
言葉にこそ出さないものの、あんぐりと開いた口からは(こいつ、頭でもおかしくなったのか?)という思考が漏れ出ているように感じられた。
硬直して見つめ合った二人を置き去りにして、時計は着々と針を進める。
時刻は午後の一時二十分に差し掛かるころ。
テレビの中では、水中から姿を現したバケモノが、いたいけな少女をさらっていくのであった――
(つづく)
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