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ゆうべには白骨となる
【二】欠けた山頂
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――遡ること数時間。
♦
四月七日(月)『友引』 午前十一時三十分
都内某所――幹線道路に面して建つ葬儀会館。
その駐車場に、一台の白い軽自動車が慌ただしく乗り付けられた。
他にとまっている車はほとんど無いため、駐車スペースは充分に空いていた。
にもかかわらず、運転手はふらふらと不慣れな手つきで時間をかけて何度か切り返しを試みる。
そして、最終的には先客であるトラックの隣にぴったりと横付けして駐車した。
運転席から降り立った宮田誠人が最初に気付いたのは、隣のトラックから漂ってくる草花の甘い匂いだった。
前向き駐車でとめられたそのトラックには、荷台の部分をすっぽりと覆い隠すように幌が被せてある。
車両後部のわずかに空いた隙間から中をのぞいてみると、そこには菊やスプレーマムといった仏花の他に、カーネーションやバラなどの色とりどりの洋花が、水をたっぷり吸ったスポンジに挿さった状態で並んでいるのが見えた。
顔をつっこんだ瞬間、むせるような青臭さが入り混じった独特な芳香がむわっと匂い立つ。車を降りた時に誠人の気を惹いた甘い香りは、カトレアから発されたもののようだった。
ぷはっ――と、息継ぎをするように顔を離す。
トラックの車体に視線を這わせると、ドアの部分に『花実生花店』の文字。
――花実さんがいるってことは……式場は今、飾りの真っ最中かな。
誠人は手に持っていた黒のバインダーを脇に挟んで、軽自動車のスライドドアを開けた。そして、後部座席から取り出したいくつかの荷物を両手に抱えて正面の入口へと向かう。
歩道に出て少しばかり歩くと、建物の入口横に高さニメートルほどの大きな布張りの看板が見えた。
『 故 田中 薫 儀 葬儀式場 』
看板の中央には大きく故人の名前が。
名前を挟んだ両側には葬儀の日程が書かれていた。
『(通夜)七日 十八時~』
『(葬儀・告別式)八日 十時 ~ 十一時』
――故人名、日付ともに間違いなし、と。
よし――と、ひとつ頷いて正面玄関から中へ。
入口の自動ドアを通ると、すぐ目の前に受付のための記帳所が見える。
壁に沿ってL字に伸びたカウンターには、ボールペンや記帳用のカードが整然として並べられていた。葬儀の参列者は受付に香典を出す前に、最初にここで名前や住所をカードに記入することになっている。
ロビーを見渡してみるも、人影は見当たらない。
事務所のある三階に一声かけておこうかと、カウンターの端に備え付けられた内線電話に目をやる。
しかしその前を遮るように立てられた案内板には
『ただいま外出中。御用の方は――』
――と、転送用の電話番号が案内されていた。
どうやら、館の主は留守にしているらしい。
どうしたものかと様子を伺っていると、式場へとつづく通路の奥から何かが聞こえてきた。バタン、バタン、と何やら騒がしい音が響いている。
――わざわざ電話するまでもないか。先に式場の様子を見ておこう。
そう思い立ち、気を取り直して通路の奥へと足を運ぶ。
待合用のロビーを抜けて進んだ先の、一階の大部分にあたる場所は広々とした式場になっている。
ざっと四十人くらいは余裕をもって座れるくらいの大きさだ。白を基調とした両の壁には、端のほうから埋め込まれた温白色の照明が光の線を描いている。
宗教的な仰々しい趣には程遠く、華美な装飾の類いはほとんど無い。厳かというよりは静謐で品が良い、といった印象だ。
式場内では、黒いTシャツに腰元でエプロンを巻いた五十代くらいの男性が、似たような装いの女性と二人がかりで折り畳み式のテーブルを何台も立てては並べている。受付まで聞こえてきた騒がしい音は、式場で祭壇を組んでいる花実生花店のスタッフによるものだった。
二人いるうちの男性のほうは、花実生花店の社長である花実さん。
もう一人はその従業員で、誠人と同年代くらいの小柄な女性だ。彼女とは以前に簡単な挨拶を交わした記憶はあるのだが、いまは名前がすんなり出てこなかった。自社の人間だけならまだしも、協力会社まで含めた全社員の名前と顔が一致するまでには、まだまだ時間がかかりそうだ。
「おはようございます」
「おう、誰かと思ったら宮田くんか。おはよう」
こちらに気付いた花実さんが、手を挙げて挨拶を返してくれた。
バリトンのよく通る声が式場内に響く。
女性社員は誠人と目が合うと、ぺこりと小さく首を下げた。
「おトキさんなら、ついさっき出かけてったよ」
「みたいですね。ぼくも本社でいろいろと用事を言いつけられちゃって、こっちに到着するのが遅くなりました」
本社というのは、この葬儀会館から車を三十分ほど走らせたところにある社員の詰め所だ。建物内には事務所と来客用の応接室、あとは備品倉庫があるくらいのもので、式場は備えられていない。
「おトキさん」こと、音喜多佐和子を常駐社員として葬儀会館が建てられたのは、まだほんの数年前のことで、創業当初は葬儀のたびに誰でも利用できる予約制の「貸し式場」を使っていたらしい。
本社と会館に距離があるのは、会葬者(葬儀に参列するお客様のこと)の利便性を優先して場所を決めたからだそうだ。
(おっと……!)
「宮田くん、転ばないように気を付けてね」
床に張られたビニールの養生シートに一瞬、つんのめりそうになった。
誠人は足をとられないよう、慎重な足取りで式場内へと進む。
「今日の『田中家』は宮田くんが担当かい? もう独り立ちしたの?」
作業の手を休めることなく、顔だけこちらに向けながら花実さんが話をつづけた。
「いえ、まだ全然ですよ」
言って、自嘲気味に笑う。
「今日の担当者は音喜多さんで、ぼくは助手みたいなもんです」
「そうかい。でも、まあ。おトキさんが面倒みてくれるなら心配はなさそうだね」
「えぇ、まぁ。そうですね」――と言いつつ、誠人はあたりを見回した。
――当の本人は、早々に指導を放り出しているように見えるけど……。
ざっと見たところ、式場周りで準備するべきものは佐和子があらかた終わらせてしまっているようだ。
なんだよ。急いで来て損した――と、思わずため息が漏れる。
「ところで、もう仕事には慣れたかい?」
「え? ああ、いやぁ、まだ何が何やらで……。恥ずかしながら、目の前の雑用をこなしていくだけでもう手一杯ですよ」
「ははは。最初の内はみんな、そういうもんだよ。頑張れ頑張れ――それじゃあ、祭壇ができたら声をかけるから、あとで確認に来てくれるかい」
わかりました。ありがとうございます――と、挨拶もそこそこに式場を後にした。
両手に抱えた荷物を手近なところで下ろせないものかとロビーをうろつく。
できれば事務所に置きたいところだけれど、佐和子が不在の今はおそらく施錠されているだろう。
ふと振り返ると、花実さんたちが業者用の搬入口を通じて、式場とトラックをせわしなく往復しながら大量の道具やら花やらを運び込んでいるのが見えた。
女性の従業員は頭の後ろで束ねた髪を、文字通り馬の尾の如く躍動させながら駆け回っている。この時間帯は、みんな準備で大忙しだ。
行く手のない誠人は、仕方なく一時しのぎの荷物置き場としてクロークを選んだ。ロビーの一角にある、テーブルやコート掛けが並んだエリアがそれだ。
――ここに一旦、荷物をお邪魔させてもらおう。
この一帯は荷物を預けるクロークでもあり、返礼品の引換所も兼ねている。
葬儀に参列する際には、まず会葬者は来館時にここでコートなどの羽織物を預ける。そして帰りにそれを引き取る際に、返礼品も合わせて一緒に引き換えるというのがおおまかな動線だ。
返礼品というのは、会葬者から頂いたお香典に対し、喪主がお返しとして用意する粗品のこと。いわゆる「香典返し」と呼ばれるもので、結婚式でいう引出物にあたる。
誠人が端のほうに荷物を下ろした横長のテーブルには、すでに返礼品を入れた藍色の紙袋がずらっと軒を連ねるように並んでいた。手提げ紐の付いた袋の開口部からは、有名な海苔メーカーの包装紙がのぞいて見える。
田中家の返礼品は三千円の「海苔の詰め合わせ」。よし、間違いないな――黒いバインダーを開き、受注書と照らし合わせて確認を取った。
――えっと……礼状はどこにしまったっけ?
返礼品と抱合せで入れる「会葬礼状」は、本社から持参した荷物の中にあった。
いまのうちに準備を済ませてしまおうと思い立った誠人は、いそいそと会葬礼状の束を取り出すと覚束ない手つきで一枚ずつ丁寧に二つ折りにしては手提げ袋に滑り込ませていった。
ベテラン社員の中には、これを何十枚と重ねたまま一気に『く』の字に曲げて、まるで手品師が高速でトランプをシャッフルするかのように一瞬で仕上げてしまう人もいる。ちょっとした職人技だと、初めて見た時は誠人も感嘆してしまった。
会葬礼状をすべて入れ終わると、誠人はサンプルとして用意した予備の一枚を取り出し、中を開いて文面に目を通した。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「お世話になった皆様へ心より感謝申し上げます」
――主人と過ごした日々は、私にとっては『手』の思い出でもありました。
あれは私がまだ駆け出しの社会人だった頃、社の催しで訪れた山登りでのことです。隊の一団からはぐれてしまった私が、迂闊にも崖から滑り落ちそうになってしまった際に、とっさに差し出された手が寸前のところで私を引き戻してくれました。
涙ながらに顔をあげると、そこにいたのはカメラを片手にした男性がひとり。珍しい草花に惹かれてふらふらと歩く危なっかしい女性をレンズ越しに見つけて、たまらず近付いたのだそうです。
それが、わたしたち二人の出会いでした。
自然や草花を心から愛する、お陽さまのように暖かい人で、緑豊かな山や公園などがお決まりのデートコースになりました。
どこへ行くにもカメラを持って、日が暮れるまでシャッターを切ってまわる姿には少々呆れつつも、その楽しそうな横顔を眺めていた時間もかけがえのない思い出です。
写真を撮るのは好きなくせに、ひとにカメラを向けられると「恥ずかしいから」とそっぽを向いてしまうほどシャイな一面もありました。主人の姿を収めた写真を、ほとんど残すことが出来なかったのは心残りのひとつでもあります。
今もこうして思い返されるのは、主人の手の温かさ――あの時、私を助けてくれた手。嬉しそうにシャッターを切る手。草花を愛でる時と同じ優しさで、家族に触れる手。病床で見守る私に「大丈夫だよ」と力強く握りかえしてくれたのも、その手でした。
主人が私たちに与えてくれた安心と温もりの数々を、忘れることはありません。
夫、田中 薫は、平成二十五年四月五日、六十五歳にて生涯をとじました。最期まで、支えてくださった方々を想いながら幸せそうに微笑んでいました。お世話になった皆様へ謹んで御礼申し上げます。
本日はお集まりいただき、誠にありがとうございました。略儀ながら書状にてご挨拶申し上げます。
喪主 田中浩美
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
結びの一文の上に、ぽたりと水滴が落ちて滲む。
――しまった!
確認のつもりが、つい読み耽ってしまった。
とっさに袖で擦ってみたが、滲んだ跡は取れそうになかった。
サンプル品だったのがせめてもの救いだ。これがうっかりお客様の手に渡ってしまったら、それだけでクレームになりかねない。
一般的に、この手の会葬礼状は紋切り型の挨拶分を使い回すのが基本だが、追加の校正料を支払うことで専門業者がこういったオリジナルの文章を作ってくれることもある。文章をしたためたライターは遺族からすれば顔も知らない赤の他人ではあるが、校正にあたって遺族へのインタビューを基に書き起こしているので、その内容はきちんと血の通ったものに感じられる。現に、素朴にも愛情豊かに家族の思い出を綴った田中家の礼状は、誠人の琴線におおいに触れるものがあった。
「あの……」
しんみりしている時に、いきなり後ろから声をかけられた。
「――は、ハイ!」
思わず裏返ってしまった誠人の声に、ひっと息を飲む音が重なる。
咄嗟に後ろを振り返ると、その声の主と視線が衝突した。式場で花実さんと一緒に設営作業をしていた女性だった。
彼女はびっくりしたように胸の前で両手を結んで、こちらの様子を伺いながら身を竦めて立っていた。
「あの……社長がお呼びです。その……祭壇、できたんで」
「そ……そうですか。ず、随分、早いですね」
ははは――と乾いた笑いが漏れた。
その場を取り繕うように不自然に振る舞う誠人を、彼女は不思議そうに見ていた。
どことなく遠慮がちな上目遣いで、ちらちらと視線を合わせてくるので、誠人は潤んだ瞳をわざとらしく逸らしつづける。
「えっと……確認、来てほしいそうです……大丈夫ですか?」
「……わ、わかりました。今、伺いますんで、先、行ってて、ください」
それだけ告げると彼女は、かしこまりました――と、悪戯っぽく微笑んで身を翻す。
――ば、バレてない……よな。
慌てて目元を拭った誠人は、そっと胸をなでおろすと、ぴょこぴょこ揺れる後ろ髪を追って式場へと向かった。
「悪いね宮田くん。おまたせ」
式場に戻ると、花実さんは仕上げとばかりに白いチュールレースを床に敷き詰めているところだった。
おまたせ、とは言われても実際は三十分もかかっていないだろう。
「全然、待ってなんかないですよ。綺麗に仕上げて頂いてありがとうございます」
つい先ほどまでテーブルやら三脚ポールやらで雑然としていた式場内は、誠人が離れている少しの間に生花によって絢爛に彩られていた。
入り口に立った瞬間、思わず感嘆の息をもらす。
――やっぱり花実さんの作る祭壇は、何度見ても感動しちゃうな。
式場入り口から見て正面奥。その中央に設営された、上下二段組の大きな雛壇。そこには菊のラインで縁取りされた、大きなアーチがいくつも描かれていた。
全体のシルエットは、雄大な山の稜線をイメージした意匠のようだ。
中心部を流れ落ちるように走るラインは、山間を一陣の風が優しく吹きおろしているようにも見える。
その緩やかな曲線美をこれでもかと埋め尽くすほどの鮮やかなブルーと、それをさらに際立たせるように配置されたライムグリーンの色彩は、この式場全体になんとも爽やかな印象を与えていた。
辺り一面の床が、白いチュールでもこもこと埋め尽くされていることもあって、まるで雲海を抜けてそびえる霊峰のようだ。
誠人は目でじっくりと味わうように、祭壇を隅から隅へと丹念に視線でなぞる。
しかし――
やがてその視線は、ある一点で吸い込まれるようにぴたりと止まってしまった。
どういうわけか山頂にあたる部分だけが、火口のようにぽっかりと空いてしまっていることに気づいたのだ。
――――あれ……?
一目見て違和感を覚えた。何かが決定的に足りない気がする。なんだろう。祭壇の中央、最上部にぽっかりと空いた不自然な空間――
――そうか。故人の写真が飾られてないんだ。
「あの……遺影写真は、まだ来てないんですか?」
言って、祭壇の頂上を指さす誠人に
「ああ。葬家さんから原本の写真を預かれたのが昨日の夕方らしくてね。納品がまだらしいんだ」と、花実さんが答えた。
遺影写真は、ご遺族から故人の写っている写真や免許証などをお預かりして、それを元に加工や修正を入れて作成するものだ。
亡くなったその日にすぐ預かれることもあるが、家族写真が手元に残っていなかったり、あるいは候補が多すぎて迷ってしまったりした場合、なかなか決まらなかったりもする。
それについて、誠人には思い当たる節があった。
――そういえば、会葬礼状にも「主人を映した写真がほとんど残ってない」みたいなことが書かれてたっけ。……アルバムを引っ掻きまわして、ギリギリまで写真を探してたのかな。
などと口元に拳をあて、しばし考え込む。
その仕草が不安を感じているように見えたらしく、彼女がすかさず横からフォローを入れた。
「あの……『昼過ぎに届く』って言ってたので、もう間もなくだと思いますよ、お写真。――わたしたちが帰ったあとになっちゃいますけど」
「いったん、戻られるんですか?」
花実さんは、いやぁ――と、ばつが悪そうに頭を掻いた。
「このあと、配達が何件かあってね。ここを中抜けさせてもらって、そっちにまわらなきゃいけないんだ。おトキさんにも了承は得てるよ」
「お忙しいんですね」
「いやいや。『貧乏、暇なし』ってやつかな。まぁ、田中家が来る夕方までには、我々もこっちに戻るから心配いらないよ。札順もまだ決まってないからね」
「札順」――と聞いて、誠人は祭壇の両脇に並んだ供花に目を向けた。
親戚や友人、会社関係の人たちから贈られた供花が、祭壇を挟んだ左右に、合わせて十基ほど並んでいる。贈り主の名札はまだ挿さっていない。
名札の順番は、血縁の濃さや付き合いの長さなどを理由に前後するので、こういったものは葬家が来館されてから立ち合いのもとで決められる。花実さんたちは、そのタイミングに合わせて戻ってくるそうだ。
「わかりました。じゃあ、戻られた時に遺影写真の設置もお願いしますね」
「了解。瀬古さんとこには、いつも融通を利かせてもらえて助かるよ。おトキさんにもよろしくね」
それじゃあ――と、花実さんたちが帰っていくのを式場で見送った。
去り際に、彼女がこれ見よがしに自分の目の下を指して、ちょんちょんと人差し指で突いてみせる。つられて誠人も目元に手をやりそうになったが、その意図するところに気付くや、はたと手を止め、やり場に困ったその指でぽりぽりと頬を掻いた。
その様子を見た彼女は、綻んだ口元を手で隠しながら、小さくお辞儀をして帰っていった。彼女の名前は聞きそびれてしまったが、またの機会にあらためて挨拶させていただくことにしよう。
――それにしても……。
誠人はあらためて祭壇に向き合った。
その最上部を見つめて、わずかに眉をひそめる。
――なんだろう……ちょっと嫌な感じがするな。
素人目にもわかるほどに素晴らしい出来の祭壇、ではある。ラインの乱れも一切なく、完成度としては非の打ち所がない。この場に立って正面に見据えた者は誰しも皆、その美しさに息を呑むことだろう。
しかし、細部に至るまで完璧に仕上がっているだけに、祭壇の「顔」とも言える遺影写真が欠け落ちてしまっているその姿は「玉に瑕」と言っても過言ではない。見ようによっては、かえって不気味なものにも思えてきてしまった。
『そこにあるはずのものが、ない』
そんな言葉が、ふと脳裏に浮かんで、消えた。
――考えすぎかな。何事もなく終わるといいけど……。
気を取り直して式場を後にした誠人であったが、その胸中には今もなお、言いしれない不安が募っていた。
(つづく)
♦
四月七日(月)『友引』 午前十一時三十分
都内某所――幹線道路に面して建つ葬儀会館。
その駐車場に、一台の白い軽自動車が慌ただしく乗り付けられた。
他にとまっている車はほとんど無いため、駐車スペースは充分に空いていた。
にもかかわらず、運転手はふらふらと不慣れな手つきで時間をかけて何度か切り返しを試みる。
そして、最終的には先客であるトラックの隣にぴったりと横付けして駐車した。
運転席から降り立った宮田誠人が最初に気付いたのは、隣のトラックから漂ってくる草花の甘い匂いだった。
前向き駐車でとめられたそのトラックには、荷台の部分をすっぽりと覆い隠すように幌が被せてある。
車両後部のわずかに空いた隙間から中をのぞいてみると、そこには菊やスプレーマムといった仏花の他に、カーネーションやバラなどの色とりどりの洋花が、水をたっぷり吸ったスポンジに挿さった状態で並んでいるのが見えた。
顔をつっこんだ瞬間、むせるような青臭さが入り混じった独特な芳香がむわっと匂い立つ。車を降りた時に誠人の気を惹いた甘い香りは、カトレアから発されたもののようだった。
ぷはっ――と、息継ぎをするように顔を離す。
トラックの車体に視線を這わせると、ドアの部分に『花実生花店』の文字。
――花実さんがいるってことは……式場は今、飾りの真っ最中かな。
誠人は手に持っていた黒のバインダーを脇に挟んで、軽自動車のスライドドアを開けた。そして、後部座席から取り出したいくつかの荷物を両手に抱えて正面の入口へと向かう。
歩道に出て少しばかり歩くと、建物の入口横に高さニメートルほどの大きな布張りの看板が見えた。
『 故 田中 薫 儀 葬儀式場 』
看板の中央には大きく故人の名前が。
名前を挟んだ両側には葬儀の日程が書かれていた。
『(通夜)七日 十八時~』
『(葬儀・告別式)八日 十時 ~ 十一時』
――故人名、日付ともに間違いなし、と。
よし――と、ひとつ頷いて正面玄関から中へ。
入口の自動ドアを通ると、すぐ目の前に受付のための記帳所が見える。
壁に沿ってL字に伸びたカウンターには、ボールペンや記帳用のカードが整然として並べられていた。葬儀の参列者は受付に香典を出す前に、最初にここで名前や住所をカードに記入することになっている。
ロビーを見渡してみるも、人影は見当たらない。
事務所のある三階に一声かけておこうかと、カウンターの端に備え付けられた内線電話に目をやる。
しかしその前を遮るように立てられた案内板には
『ただいま外出中。御用の方は――』
――と、転送用の電話番号が案内されていた。
どうやら、館の主は留守にしているらしい。
どうしたものかと様子を伺っていると、式場へとつづく通路の奥から何かが聞こえてきた。バタン、バタン、と何やら騒がしい音が響いている。
――わざわざ電話するまでもないか。先に式場の様子を見ておこう。
そう思い立ち、気を取り直して通路の奥へと足を運ぶ。
待合用のロビーを抜けて進んだ先の、一階の大部分にあたる場所は広々とした式場になっている。
ざっと四十人くらいは余裕をもって座れるくらいの大きさだ。白を基調とした両の壁には、端のほうから埋め込まれた温白色の照明が光の線を描いている。
宗教的な仰々しい趣には程遠く、華美な装飾の類いはほとんど無い。厳かというよりは静謐で品が良い、といった印象だ。
式場内では、黒いTシャツに腰元でエプロンを巻いた五十代くらいの男性が、似たような装いの女性と二人がかりで折り畳み式のテーブルを何台も立てては並べている。受付まで聞こえてきた騒がしい音は、式場で祭壇を組んでいる花実生花店のスタッフによるものだった。
二人いるうちの男性のほうは、花実生花店の社長である花実さん。
もう一人はその従業員で、誠人と同年代くらいの小柄な女性だ。彼女とは以前に簡単な挨拶を交わした記憶はあるのだが、いまは名前がすんなり出てこなかった。自社の人間だけならまだしも、協力会社まで含めた全社員の名前と顔が一致するまでには、まだまだ時間がかかりそうだ。
「おはようございます」
「おう、誰かと思ったら宮田くんか。おはよう」
こちらに気付いた花実さんが、手を挙げて挨拶を返してくれた。
バリトンのよく通る声が式場内に響く。
女性社員は誠人と目が合うと、ぺこりと小さく首を下げた。
「おトキさんなら、ついさっき出かけてったよ」
「みたいですね。ぼくも本社でいろいろと用事を言いつけられちゃって、こっちに到着するのが遅くなりました」
本社というのは、この葬儀会館から車を三十分ほど走らせたところにある社員の詰め所だ。建物内には事務所と来客用の応接室、あとは備品倉庫があるくらいのもので、式場は備えられていない。
「おトキさん」こと、音喜多佐和子を常駐社員として葬儀会館が建てられたのは、まだほんの数年前のことで、創業当初は葬儀のたびに誰でも利用できる予約制の「貸し式場」を使っていたらしい。
本社と会館に距離があるのは、会葬者(葬儀に参列するお客様のこと)の利便性を優先して場所を決めたからだそうだ。
(おっと……!)
「宮田くん、転ばないように気を付けてね」
床に張られたビニールの養生シートに一瞬、つんのめりそうになった。
誠人は足をとられないよう、慎重な足取りで式場内へと進む。
「今日の『田中家』は宮田くんが担当かい? もう独り立ちしたの?」
作業の手を休めることなく、顔だけこちらに向けながら花実さんが話をつづけた。
「いえ、まだ全然ですよ」
言って、自嘲気味に笑う。
「今日の担当者は音喜多さんで、ぼくは助手みたいなもんです」
「そうかい。でも、まあ。おトキさんが面倒みてくれるなら心配はなさそうだね」
「えぇ、まぁ。そうですね」――と言いつつ、誠人はあたりを見回した。
――当の本人は、早々に指導を放り出しているように見えるけど……。
ざっと見たところ、式場周りで準備するべきものは佐和子があらかた終わらせてしまっているようだ。
なんだよ。急いで来て損した――と、思わずため息が漏れる。
「ところで、もう仕事には慣れたかい?」
「え? ああ、いやぁ、まだ何が何やらで……。恥ずかしながら、目の前の雑用をこなしていくだけでもう手一杯ですよ」
「ははは。最初の内はみんな、そういうもんだよ。頑張れ頑張れ――それじゃあ、祭壇ができたら声をかけるから、あとで確認に来てくれるかい」
わかりました。ありがとうございます――と、挨拶もそこそこに式場を後にした。
両手に抱えた荷物を手近なところで下ろせないものかとロビーをうろつく。
できれば事務所に置きたいところだけれど、佐和子が不在の今はおそらく施錠されているだろう。
ふと振り返ると、花実さんたちが業者用の搬入口を通じて、式場とトラックをせわしなく往復しながら大量の道具やら花やらを運び込んでいるのが見えた。
女性の従業員は頭の後ろで束ねた髪を、文字通り馬の尾の如く躍動させながら駆け回っている。この時間帯は、みんな準備で大忙しだ。
行く手のない誠人は、仕方なく一時しのぎの荷物置き場としてクロークを選んだ。ロビーの一角にある、テーブルやコート掛けが並んだエリアがそれだ。
――ここに一旦、荷物をお邪魔させてもらおう。
この一帯は荷物を預けるクロークでもあり、返礼品の引換所も兼ねている。
葬儀に参列する際には、まず会葬者は来館時にここでコートなどの羽織物を預ける。そして帰りにそれを引き取る際に、返礼品も合わせて一緒に引き換えるというのがおおまかな動線だ。
返礼品というのは、会葬者から頂いたお香典に対し、喪主がお返しとして用意する粗品のこと。いわゆる「香典返し」と呼ばれるもので、結婚式でいう引出物にあたる。
誠人が端のほうに荷物を下ろした横長のテーブルには、すでに返礼品を入れた藍色の紙袋がずらっと軒を連ねるように並んでいた。手提げ紐の付いた袋の開口部からは、有名な海苔メーカーの包装紙がのぞいて見える。
田中家の返礼品は三千円の「海苔の詰め合わせ」。よし、間違いないな――黒いバインダーを開き、受注書と照らし合わせて確認を取った。
――えっと……礼状はどこにしまったっけ?
返礼品と抱合せで入れる「会葬礼状」は、本社から持参した荷物の中にあった。
いまのうちに準備を済ませてしまおうと思い立った誠人は、いそいそと会葬礼状の束を取り出すと覚束ない手つきで一枚ずつ丁寧に二つ折りにしては手提げ袋に滑り込ませていった。
ベテラン社員の中には、これを何十枚と重ねたまま一気に『く』の字に曲げて、まるで手品師が高速でトランプをシャッフルするかのように一瞬で仕上げてしまう人もいる。ちょっとした職人技だと、初めて見た時は誠人も感嘆してしまった。
会葬礼状をすべて入れ終わると、誠人はサンプルとして用意した予備の一枚を取り出し、中を開いて文面に目を通した。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「お世話になった皆様へ心より感謝申し上げます」
――主人と過ごした日々は、私にとっては『手』の思い出でもありました。
あれは私がまだ駆け出しの社会人だった頃、社の催しで訪れた山登りでのことです。隊の一団からはぐれてしまった私が、迂闊にも崖から滑り落ちそうになってしまった際に、とっさに差し出された手が寸前のところで私を引き戻してくれました。
涙ながらに顔をあげると、そこにいたのはカメラを片手にした男性がひとり。珍しい草花に惹かれてふらふらと歩く危なっかしい女性をレンズ越しに見つけて、たまらず近付いたのだそうです。
それが、わたしたち二人の出会いでした。
自然や草花を心から愛する、お陽さまのように暖かい人で、緑豊かな山や公園などがお決まりのデートコースになりました。
どこへ行くにもカメラを持って、日が暮れるまでシャッターを切ってまわる姿には少々呆れつつも、その楽しそうな横顔を眺めていた時間もかけがえのない思い出です。
写真を撮るのは好きなくせに、ひとにカメラを向けられると「恥ずかしいから」とそっぽを向いてしまうほどシャイな一面もありました。主人の姿を収めた写真を、ほとんど残すことが出来なかったのは心残りのひとつでもあります。
今もこうして思い返されるのは、主人の手の温かさ――あの時、私を助けてくれた手。嬉しそうにシャッターを切る手。草花を愛でる時と同じ優しさで、家族に触れる手。病床で見守る私に「大丈夫だよ」と力強く握りかえしてくれたのも、その手でした。
主人が私たちに与えてくれた安心と温もりの数々を、忘れることはありません。
夫、田中 薫は、平成二十五年四月五日、六十五歳にて生涯をとじました。最期まで、支えてくださった方々を想いながら幸せそうに微笑んでいました。お世話になった皆様へ謹んで御礼申し上げます。
本日はお集まりいただき、誠にありがとうございました。略儀ながら書状にてご挨拶申し上げます。
喪主 田中浩美
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結びの一文の上に、ぽたりと水滴が落ちて滲む。
――しまった!
確認のつもりが、つい読み耽ってしまった。
とっさに袖で擦ってみたが、滲んだ跡は取れそうになかった。
サンプル品だったのがせめてもの救いだ。これがうっかりお客様の手に渡ってしまったら、それだけでクレームになりかねない。
一般的に、この手の会葬礼状は紋切り型の挨拶分を使い回すのが基本だが、追加の校正料を支払うことで専門業者がこういったオリジナルの文章を作ってくれることもある。文章をしたためたライターは遺族からすれば顔も知らない赤の他人ではあるが、校正にあたって遺族へのインタビューを基に書き起こしているので、その内容はきちんと血の通ったものに感じられる。現に、素朴にも愛情豊かに家族の思い出を綴った田中家の礼状は、誠人の琴線におおいに触れるものがあった。
「あの……」
しんみりしている時に、いきなり後ろから声をかけられた。
「――は、ハイ!」
思わず裏返ってしまった誠人の声に、ひっと息を飲む音が重なる。
咄嗟に後ろを振り返ると、その声の主と視線が衝突した。式場で花実さんと一緒に設営作業をしていた女性だった。
彼女はびっくりしたように胸の前で両手を結んで、こちらの様子を伺いながら身を竦めて立っていた。
「あの……社長がお呼びです。その……祭壇、できたんで」
「そ……そうですか。ず、随分、早いですね」
ははは――と乾いた笑いが漏れた。
その場を取り繕うように不自然に振る舞う誠人を、彼女は不思議そうに見ていた。
どことなく遠慮がちな上目遣いで、ちらちらと視線を合わせてくるので、誠人は潤んだ瞳をわざとらしく逸らしつづける。
「えっと……確認、来てほしいそうです……大丈夫ですか?」
「……わ、わかりました。今、伺いますんで、先、行ってて、ください」
それだけ告げると彼女は、かしこまりました――と、悪戯っぽく微笑んで身を翻す。
――ば、バレてない……よな。
慌てて目元を拭った誠人は、そっと胸をなでおろすと、ぴょこぴょこ揺れる後ろ髪を追って式場へと向かった。
「悪いね宮田くん。おまたせ」
式場に戻ると、花実さんは仕上げとばかりに白いチュールレースを床に敷き詰めているところだった。
おまたせ、とは言われても実際は三十分もかかっていないだろう。
「全然、待ってなんかないですよ。綺麗に仕上げて頂いてありがとうございます」
つい先ほどまでテーブルやら三脚ポールやらで雑然としていた式場内は、誠人が離れている少しの間に生花によって絢爛に彩られていた。
入り口に立った瞬間、思わず感嘆の息をもらす。
――やっぱり花実さんの作る祭壇は、何度見ても感動しちゃうな。
式場入り口から見て正面奥。その中央に設営された、上下二段組の大きな雛壇。そこには菊のラインで縁取りされた、大きなアーチがいくつも描かれていた。
全体のシルエットは、雄大な山の稜線をイメージした意匠のようだ。
中心部を流れ落ちるように走るラインは、山間を一陣の風が優しく吹きおろしているようにも見える。
その緩やかな曲線美をこれでもかと埋め尽くすほどの鮮やかなブルーと、それをさらに際立たせるように配置されたライムグリーンの色彩は、この式場全体になんとも爽やかな印象を与えていた。
辺り一面の床が、白いチュールでもこもこと埋め尽くされていることもあって、まるで雲海を抜けてそびえる霊峰のようだ。
誠人は目でじっくりと味わうように、祭壇を隅から隅へと丹念に視線でなぞる。
しかし――
やがてその視線は、ある一点で吸い込まれるようにぴたりと止まってしまった。
どういうわけか山頂にあたる部分だけが、火口のようにぽっかりと空いてしまっていることに気づいたのだ。
――――あれ……?
一目見て違和感を覚えた。何かが決定的に足りない気がする。なんだろう。祭壇の中央、最上部にぽっかりと空いた不自然な空間――
――そうか。故人の写真が飾られてないんだ。
「あの……遺影写真は、まだ来てないんですか?」
言って、祭壇の頂上を指さす誠人に
「ああ。葬家さんから原本の写真を預かれたのが昨日の夕方らしくてね。納品がまだらしいんだ」と、花実さんが答えた。
遺影写真は、ご遺族から故人の写っている写真や免許証などをお預かりして、それを元に加工や修正を入れて作成するものだ。
亡くなったその日にすぐ預かれることもあるが、家族写真が手元に残っていなかったり、あるいは候補が多すぎて迷ってしまったりした場合、なかなか決まらなかったりもする。
それについて、誠人には思い当たる節があった。
――そういえば、会葬礼状にも「主人を映した写真がほとんど残ってない」みたいなことが書かれてたっけ。……アルバムを引っ掻きまわして、ギリギリまで写真を探してたのかな。
などと口元に拳をあて、しばし考え込む。
その仕草が不安を感じているように見えたらしく、彼女がすかさず横からフォローを入れた。
「あの……『昼過ぎに届く』って言ってたので、もう間もなくだと思いますよ、お写真。――わたしたちが帰ったあとになっちゃいますけど」
「いったん、戻られるんですか?」
花実さんは、いやぁ――と、ばつが悪そうに頭を掻いた。
「このあと、配達が何件かあってね。ここを中抜けさせてもらって、そっちにまわらなきゃいけないんだ。おトキさんにも了承は得てるよ」
「お忙しいんですね」
「いやいや。『貧乏、暇なし』ってやつかな。まぁ、田中家が来る夕方までには、我々もこっちに戻るから心配いらないよ。札順もまだ決まってないからね」
「札順」――と聞いて、誠人は祭壇の両脇に並んだ供花に目を向けた。
親戚や友人、会社関係の人たちから贈られた供花が、祭壇を挟んだ左右に、合わせて十基ほど並んでいる。贈り主の名札はまだ挿さっていない。
名札の順番は、血縁の濃さや付き合いの長さなどを理由に前後するので、こういったものは葬家が来館されてから立ち合いのもとで決められる。花実さんたちは、そのタイミングに合わせて戻ってくるそうだ。
「わかりました。じゃあ、戻られた時に遺影写真の設置もお願いしますね」
「了解。瀬古さんとこには、いつも融通を利かせてもらえて助かるよ。おトキさんにもよろしくね」
それじゃあ――と、花実さんたちが帰っていくのを式場で見送った。
去り際に、彼女がこれ見よがしに自分の目の下を指して、ちょんちょんと人差し指で突いてみせる。つられて誠人も目元に手をやりそうになったが、その意図するところに気付くや、はたと手を止め、やり場に困ったその指でぽりぽりと頬を掻いた。
その様子を見た彼女は、綻んだ口元を手で隠しながら、小さくお辞儀をして帰っていった。彼女の名前は聞きそびれてしまったが、またの機会にあらためて挨拶させていただくことにしよう。
――それにしても……。
誠人はあらためて祭壇に向き合った。
その最上部を見つめて、わずかに眉をひそめる。
――なんだろう……ちょっと嫌な感じがするな。
素人目にもわかるほどに素晴らしい出来の祭壇、ではある。ラインの乱れも一切なく、完成度としては非の打ち所がない。この場に立って正面に見据えた者は誰しも皆、その美しさに息を呑むことだろう。
しかし、細部に至るまで完璧に仕上がっているだけに、祭壇の「顔」とも言える遺影写真が欠け落ちてしまっているその姿は「玉に瑕」と言っても過言ではない。見ようによっては、かえって不気味なものにも思えてきてしまった。
『そこにあるはずのものが、ない』
そんな言葉が、ふと脳裏に浮かんで、消えた。
――考えすぎかな。何事もなく終わるといいけど……。
気を取り直して式場を後にした誠人であったが、その胸中には今もなお、言いしれない不安が募っていた。
(つづく)
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