ゆうべには白骨となる

戸村井 美夜

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ゆうべには白骨となる

【八】対峙

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「あれ。なにか聞き間違えたかな……いま、あたし――」

 寒の戻りを思わせる移ろいの早さで佐和子の語調がしんしんと冷え込んでいく。

「――された気がしたんだけど?」

 言うや彼女は、行く手を立ち塞ぐように堂々たる仁王立ちで誠人と相対した。
 その場凌ぎの思いつきか。あるいは一時いっときの気の迷いに流されて心にもないことを口走ってしまっただけか。そのようなことを勘繰りつつ、腹の底まであまねく探りを入れんとして視線を彼に絡みつかせる。
 しかし、まっすぐに自分を見つめるその瞳に揺るがない意思を感じ取ると、彼女は感心したように目をわずかに見開いてから「あたしとやりあう気?」と言わんばかりに腕組みをしたまま首を傾げてみせた。

 ――まずい。虎の尾を踏んだか。

 佐和子はつとめて冷静な態度を崩さなかったが、その威圧感には思わず二の足を踏みそうになる。
 それでもなお、決死の告発に対して、彼女が普段のようにかわすでもなく、即座に好戦的な構えを見せたことが、かえって彼に確信を抱かせることとなった。

「言うに事欠いて、そんな言い草はないんじゃないかな……ここまで、散々あんたに協力してあげたってのにさぁ――」

 佐和子が一歩、また一歩とじりじり距離をつめてくる。

「――ヒトをいきなり犯人扱いしてくれるだなんて、あんまりなんじゃない?」

 獲物を前にして鎌首をもたげる蛇のような、冷たく地を這う声に空気が一瞬にして張り詰めたものに変わっていく。

「は、犯人とは一言も……」

 誠人が一歩、下がるごとに――

「いまさら言葉を濁したところで、あたしに嫌疑をかけていることに変わりはないでしょ?」

 ――佐和子が一歩、詰め寄る。

「だったら、聞かせてもらえるかな?」

 臆して後ろへ下げたかかとが、背後の壁にがつんと当たった。そのまま半ば腰が砕けたように体幹が崩れ、不格好な姿勢で壁際まで追い込まれる。
 四肢を射抜くような鋭い視線に、標本よろしく身じろぎすらもままならない状況だ。

 汗ばんだ背中に、ひやりとした壁の感触。

「いったいどんな了見であたしを疑っているのか……当然、それなりの根拠はあるんでしょうね? ――」

 佐和子の肩越しに、自動ドアがゆっくりと閉まっていくのが見える。行く手を塞がれたまま、エレベーター内に閉じ込められてしまった。

 すぐ目の前では佐和子の胸元にぶら下がったリボンタイが挑発的に揺れている。
 こちらを見下ろす彼女の眼光は、いまにも自分を頭から丸呑みにしてくるのではないかと思えるほどに冷ややかだった。

 誠人は両手をぴったりと後ろの壁につけたまま、おどおどと口をひらく。

「ぼ、ぼくは……音喜多さんと事務所で話しているときから、ずっと違和感のようなものを抱えていたんです。それがなんなのかは、全然わからなかったんですけど……。でも、たったいま気付いたんです。ぼくの頭に引っかかっていた違和感の正体は、音喜多さんに対して感じていたものだったんだって」

 佐和子はただ黙ってこちらを見据えている。いきなり名指しで犯人扱いされたことがよほど気に障ったのか、その表情からは一切の感情が消え失せて見える。鉄面皮の下に流れているのは静かな怒りか。あるいは子どもが宝物をそそくさと隠すように、感情を腹の奥底に呑みこんでしまったのか。

 誠人はもう相手の顔色を窺うまいとして、かまわず舌を回しつづけた。言葉が途切れたら、そこで真実は霧消するのだと自分に言い聞かせながら。

「音喜多さん。ひとつ、聞かせてください。田中さんのご遺体が熊男と入れ替わっていることを……音喜多さんは、いつ知ったんですか?」

「事務所に飛び込んできたあんたから聞いた」

 辞書で引いてきたように彼女は答えた。

「外から帰ってきた矢先に、ぼくが『田中さんが別人だ』と騒ぎ立てて、そこではじめて発覚した――と」

「そうよ」


「それは――?」

 ウソ、という言葉に反応して眉がぴくりと動いて見えた。

「音喜多さんは……本当はもっと前から知ってたんじゃないですか? 具体的には、ぼくが事務所に飛び込んでくる、そのときまでに……」

「なるほど。犯人扱いの次はってわけね。それはつまり――あたしは異変が起こっていることを知っていながら……故意にその事実を隠していた、と言いたいの?」

「ぼ……ぼくは、そう確信してます。この異常事態のさなか、音喜多さんが普段どおり飄々ひょうひょうとしていられたのは、虚勢を張ってるわけでも、人並み外れて肝が据わっていたわけでもなく……すべて、最初からわかっていたからではないですか?」

「なぜ? なんのために? あんたから報告を受けたとき、あたし心臓が飛び出るかと思うほど驚いたのよ? あれがすべて演技だったとでも?」

「それは……」

 たしかに、あのときの佐和子の面食らった顔は、なかなか真に迫って見えた。あれが狙ってできたのだとしたら、葬儀屋なんかより演技の道に進むほうがよっぽど食っていけそうだ。

 しかし、一度は伏せかけた目線を、ぐっと堪えるように持ち上げる。

「――でも! そう確信できるだけの根拠が、ぼくにはあります」

 言うと、彼女は口を引き結んだまま、傾げた首の角度だけでつづきを促した。

「――順を追って説明します。まず……大前提としてですが、田中さんの遺体が熊男と入れ替わっているという異変に気付くためには『熊男の遺体』と『田中さんの遺影写真』の両方を目にしている必要があります。ぼくたち葬儀の担当者は故人とプライベートで面識がない限り、遺体と写真を直接見比べないことには、その人物を識別する手段がありません。――ぼくは、松影さんから受け取った遺影写真を見たすぐあとに霊安室で熊男と対面したので、二人が『入れ替わっている』という事実に思いが至りました」

 ここまではいいですね、と視線で語りかける。
 彼女は依然として黙したままだ。

「音喜多さんは、ぼくから報告を受ける形で、はじめて状況を把握したと仰いました。それが本当だとしたら、音喜多さんはその時点で『遺体』か『遺影写真』のどちらか、あるいは両方をということになります」

 それがどちらなのかを考えてみましょう、と、誠人は佐和子の発言を引き合いに出しながら滔々と述べ始めた。

「――まずは遺影写真のほうです。さっき、事務所でのやり取りを思い返しているときに気付いたんですが……ぼくが事務所に駆け込んで報告をしたそのときから、音喜多さんは、ぼくの目の前では?」


 <わかった……>

 <誠人の報告に佐和子は、事の詳細を聞き取るや否や、両手をついてゆらりと立ち上がった。>

 <……ちょっと外すわ。あんたはここで待ってて>


「写真自体は外箱に入れられたまま、事務所に保管されてました。箱を開けないことには中の写真を確認することはできませんが、ぼくがいる前であなたがそれに手を触れることはありませんでした。――にも関わらず、音喜多さんは話し合いの最中、原本となる写真の内容を正確に言い表してましたね」


 <あの遺影写真の原本――――は、田中家の喪主さまが昨日わざわざここへ届けにきてくれたの。>


「――原本も当然、遺影写真と同じ箱の中です。ぼくが見ている限りでは、報告後に確認した素振りは見せませんでした。だとしたら……音喜多さんは、ぼくが来る前にそれをすでに確認されていたはずです。あの箱は、ぼくが松影さんから受け取り、帰社した音喜多さんの手によってロビーから事務所に運ばれています。中身を確認できたのは、そのタイミングしかありません」

 沈黙を肯定と受け取り、誠人は先をつづける。

「遺影写真を見た事実が確かである以上、必然的に音喜多さんが見ていないのは『遺体』のほうだった、ということになります。――でも、それは考えられません。なぜなら……音喜多さんは今朝、ドライ交換のときになんですから。そしてついさきほど、ご自身の口でこう仰ったんです」


 <――あたしがドライを当てた田中薫さんの遺体は、あんたの言うの。それが朝の九時のことよ>

「…………」

「――おわかりですか? 音喜多さんは、『遺体』も『遺影写真』も両方、とっくにその目で確認されてたんですよ。――遺体は、朝の九時に。遺影写真は、音喜多さんが帰社された午後の一時過ぎに」

 ――そう。ぼくが事務所で報告するよりも前に、だ。

「……つまり、報告を受けた時点で音喜多さんが異変に気付いていないということは。――そうじゃありませんか?」

 吐き出すように一息にまくし立てても、佐和子は微動だにしなかった。
 まるでお寺様の説法を退屈そうに聞き流しているかのように、この場で自分が責め立てられていることは露ほども気にしていない様子だ。

 彼女は何を考えている。図星をつかれて動揺を必死に抑えているのか。この場をどう切り抜けるか冷静に思案しているのだろうか。

 不気味な沈黙が場を支配する。

「……な、なんとか言ったらどうですか」

 根負けして口を切ったのは誠人だった。

「音喜多さんが、ぼくより先にこの会館で起こった異変に気付いていたのは明白です。そして……報告を受けてなお、その事実をひた隠しにして、素知らぬ顔で部下が右往左往する様を見ていた。――なぜなんです? ぼくがいちいち顔を赤くしたり青ざめたりするのが、そんなに面白かったですか?」

 スー……と、声もなく佐和子が息をつく。

「――すっかり、やり込めた気でいるようだけど……」

 すると、彼女は鷹揚おうようにしてふてぶてしくも笑みを零した。

「甘いわね」

 言うと、肩から胸へと流れ落ちる黒髪を片手で撫でるように梳かしはじめる。

「――怪気炎もお盛んで結構なことだけど……あたしは、べつに面白がってなんかいないわ。あんたが勝手に火の無いところに煙を焚き上げては独りで騒ぎまわっていただけじゃないの」

「否定しないんですね。――認めるんですか? 先んじて異変に気付いていたことを」

「認める? ――それはどうかしら?」

 彼女の声色に棘がたつ。

「あたしはね――たしかに『遺体』も『遺影写真』もこの目で見ていた。あんたの言ったとおりの時間にね。その事実だけは認めるわ。でもね……もしそうだとしても、あたしが

「どういうことですか?」

「どうもこうもないわ。単純な話よ。あたしは遺体と写真の両方を見ていた。それでも、ってだけのことよ」

「そんな! 誰の目にも明らかじゃないですか!? あの二人は似ても似つかない完全な別人ですよ! 遺体と遺影を見比べておいて異変に気付かないなんて、そんなことがありえますか!?」

「我ながら参っちゃうわよね。でも、実際そうなんだから仕方ないじゃない。あたしは自分で思うより、だいぶと抜けてたってことね」

「そ、そんな言い訳が通るわけないでしょう!」

「無理が通れば道理も引っ込むものよ。あんた、遺影写真を見てから熊男と対面するまで、どれくらい時間が空いてた?」

「え? えっと……写真を受け取って、松影さんと少し世間話をしてから霊安室に向かったから……だいたい二十分くらいでしょうか?」

「そうよね? 二十分くらいの時間差だったら写真と遺体の違いにもすぐ気付くでしょうね。――でも、あたしはそうじゃなかった」

「音喜多さんは朝の九時に遺体を見て、写真を目にしたのが午後の一時。――ざっくり、四時間の開きがありますけど……」

「そうよ。だから、わかるでしょ? あたしにはそれだけの時間差があって、なおかつその間は式場の準備やら買い出しやらで、ずっと雑事に追われてたの。多忙が過ぎて午後の時点ではもう記憶もおぼろげだったのよ。だから午後イチで写真を見たときにも、今朝に見た熊男とはすんなり結びつかなかったってわけ。そのすぐ後で飛び込んできたあんたから『遺体が別人だ!』って聞いて、そこではじめてご遺体のことを思い出したの」

 佐和子の主張に、誠人は泡を食ったように口をぱくぱくとさせるばかりだった。
 仮に相手が理論武装してくるのであれば、その間隙を縫って太刀打ちの仕様もあるというもの。しかし、いま彼女が後ろ盾としているのは人間の記憶の「不確かさ」だ。こんなものを持ち出されては、どんなに整然とした理屈を以てしても「覚えていたはず」「いや、覚えてない」の水掛け論より先に発展しそうもない。

「いやぁ正直言って、自分の不甲斐なさには辟易したわ。入社ひと月のド新人に言われるまで、ご遺体が入れ替わってるなんてことにも気付けないんだからね。あんたから報告を聞いてるあいだ、それはもう恥ずかしくて恥ずかしくて、とてもじゃないけどその場で言い出せなかったのよ。『この目は節穴でござい』なんてね」

 言葉とは裏腹に、彼女の顔色には一切の悪びれた様子がない。

「く、苦し紛れもいいとこですね。……本気でそんな主張を押し通す気ですか?」

「人間の記憶力なんて、所詮そんなもんじゃない。――あんた、朝ごはんに何を食べたか覚えてる?」

「……ぼくは朝、食べない派です」

「だめじゃない。朝食はきちんと摂らなきゃ。葬儀屋は体力勝負なんだから体は資本よ? ――って。あ! そうだ! あたしも朝はバタバタしてて食べれない人なんだった! いっけね。すっかり忘れてたわ」

 反省、反省――と、どこ吹く風で踵を返して「開」ボタンを押す。どうやら彼女は、これで店じまいを決め込む腹積もりのようだ。
 開いていくドアの向こうへと踏み出しながら、佐和子は見向きもせずに言った。

「――と、まあ。こんな感じよ。これでつまらない疑いも晴れたでしょう? あんたが思うような不審な点なんて、あたしには無いの。まったく、当て擦りも大概にしてちょうだい。……まぁ、推理が行き詰って苛立つ気持ちはわかるから、いまのことは水に流してあげてもいいわ。諦めずにまだ捜査をつづける気なら、あとは事務所で――」


 ――思うより先に、身体が動いた。

 背後の壁を押し退けるようにして前に出た誠人は、もがくように伸ばした右手でボタンから指を離した彼女の手首を捕らえた。

 佐和子の肩がびくりと震える。
 振り向いた彼女の目には、はじめて動揺の色が浮き出て見えた。

「……いたいわ。離してちょうだい」

「いやです」


 閃光のような視線が激しくぶつかる――


「ぜったいに逃がしません!」


 ばっ、と力任せに佐和子が手を振りほどいた。彼女は空を切った手の勢いに引っ張られるまま、細身の身体でを踏む。
 危うく転げる寸前から立ち昇る煙のように体勢を立て直すと、掴まれたほうの手首をさすりながら誠人をぎろりと睨み返した。

「思い通りにコトが運ばないからって、暴力に出るのはサイテーね」

 敵愾心も露わに佐和子が吐き捨てる。ここまで売り言葉に買い言葉が少々過ぎたせいもあってか過剰なまでに険悪化していた二人ではあったが、それに加えて本意でないにしろ誠人が手をあげてしまったことで益々ますます拍車がかかったようだ。気付けばお互い、引くに引けない精神状態にまで追い込まれつつあった。

「……すみません。咄嗟のことで……そんなつもりはありませんでした。――ですが! ぼくはまだ、あなたに負けを認めたわけではありませんよ!」

「なんて諦めの悪い……。何度も言うけど、あたしは今朝のことが頭からすっぽり抜けてたの。そこに担当者として落ち度があるというのなら、申し開きも立たない状況であることは認めるわ。でもね――『異変を察知していながら、あまつさえそれを隠蔽していた』だなんて、そんなことまで疑われるのははっきり言って心外よ。あんたがどう言おうと、、こっちだって容易く負けを認めることはできないわ」

「理屈で証明……。音喜多さんが午後の時点で、熊男を覚えていたという証拠……ですか」

「そうよ。でも、そんなの不可能だって、あんたもわかるでしょ? だからもう、いい加減に――」

 その言葉のつづきを、誠人は許さなかった。



 ずいと前に進み出て、佐和子と目線の高さを同じくして言う。

「――証明、できます。音喜多さんの過去の発言が、その証拠としてぼくの頭の中にあります」

 へえ。そう。面白いじゃない。できるものなら、やってごらんなさい――翻弄するようにくるくると遊ばせた毛先に、そう言わせているように見えた。

「もう一度、確認させてください。音喜多さんの主張では、遺体と遺影写真との確認に四時間という時間差を要した。だから、遺影写真を見てもすぐに遺体の顔と照らし合わせることができなかった――と、そういうことですよね」

 佐和子が苦々しく眉根を寄せる。くどい、何度言わせれば気が済むんだ。言葉にこそ出さないものの、彼女はそういった些細な苛立ちをもはや態度に隠そうともしなかった。

「百歩譲って、ですが……その言い分は良しとしましょう。――というより、四時間前の記憶が定かであるかどうかについては、どう理屈を転がしても証明のしようがありません」

 ですが――と、一文字ずつ強調するように誠人はつづけた。

「――その時間差が四時間、ではなく。

「にじゅ、……ぷん?」

 不意打ちで膝を折られたかのように佐和子が呆けた。その頭上には巨大な「?」を浮かばせ、何度も目をしばたかせている。

「そうです。二十分です。これが何の時間かわかりますか? ――そうですか。では、説明します。音喜多さんはお昼頃に一度、ぼくに電話をかけて寄越しましたよね? それは覚えてますか?」

「覚えてるけど、それがなに?」

「電話で話した内容は、覚えていらっしゃいますか?」

 渾身の皮肉に、佐和子が頬を膨らませる。

「……あんたに『昼飯買ってこい』って言われた」

「事実とは若干、齟齬が生じてますが……まあ概ねそんなところです。それから先はどうですか? ぼくがその後の指示を仰いで、音喜多さんは何と仰いました?」


 <――りょーかい。写真はもう届くと思うから、受け取っておいてね>
 <わかりました。あとは他にやっておくことはありますか?>


「たしか……霊安室から遺体を出して、田中さんを式場に安置するようにお願いしたはずだけど」

「そうです。そのときに音喜多さんは、あるを、その発言の中に残しているんですよ。――あなたは、電話口でご遺体を指してこう言ったんです」


 <じゃあ、ご遺体ももう移していいから、暇だったら霊安室から出して式場に安置しておいてくれる?

 


「ぼくは――」

 誠人が視線を遠くにおいて淡々と呟く。

「まだ入社して日も浅いですが、日々先輩方に付き添ってご遺体の搬送に従事している中で、若輩者ながら気付いたことがあります。葬儀社の人たちは遺体を運ぶとき――その棺を持つ手に力を込めるときに、決まってぼくに言うんです。『ご遺体を丁重に扱うように』って。くれぐれも細心の注意を払うようにと、それはもう耳にタコが出来るほど言って聞かされています」

「そりゃあ、まあ。そうでしょうね……うっかり手を滑らせて落っことしたりでもしたらクレームどころの騒ぎで済まなくなるから」

「ええ。しかし――日々、ご遺体を扱う際に聞かされる数々の心得において、その中でも。ご遺体がそれなりの重さであることは百も承知です。ヒト一人の体重は最低でも四、五十キロはありますからね。そのうえ、十キロ分のドライアイスまで当てられているのだからなおさらです。葬儀社の人間はそういったご遺体を習慣的に扱っていますから、標準的な体格のご遺体を指して『重いから気を付けてね』なんて周知の事実を、わざわざ言葉で以て報せることはまずありません。ですから――意識的にその注意喚起が成されるのは、これから運ぶご遺体がなんです」

 息もつかせぬ怒涛の勢いで誠人が捲し立てる。その声色にも次第に熱が入りはじめた。

「それが何を意味するかわかりますか? ――音喜多さんはあのとき、これから熊男の棺を移動しようとするぼくに『すっごく重いから気を付けてね』と前もって報せてくれたんですよ。そしてその発言は、あの時点で音喜多さんの脳内に『』というイメージが明確に残っていた、なによりの証拠ではありませんか。――音喜多さんから電話を受けたとき、画面に表示された時刻はだったと記憶しています。そして、地下に下りたときに帰社したあなたから内線電話をもらったのがでした。それは同時に、音喜多さんが遺影写真を確認したと思われる時刻でもあります。

「そう――」佐和子が目を深く閉じて零した。
「――そっか。そういうこと、ね」

 憑き物が落ちていくように、彼女の顔が険のある表情から次第に穏やかなものに変わっていく。

「音喜多さんはついさっき、ご自身でこう仰いました。『二十分くらいの時間差だったら写真と遺体の違いにもすぐ気付くでしょうね。――でも、』と。しかしあなたは、実際はぼくと変わらない時間差で両方の確認を済ませていたんです。これでもまだ、言い逃れができますか? それとも――あなたの記憶力は、

 さあ、どうだ。次はどうくる。――誠人は大上段に構えて佐和子の出方を伺いながら、視線を遠くに投げ出して佇む彼女の横顔を黙って見つめつづけた。

 彼女が次に口を開いた瞬間、この会館を取り巻く異常な事態は、いくつかに枝分かれした結末のひとつへと向け収束していくことだろう。それは即ち事件解決を意味するものか。あるいは――


(つづく)
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