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23.【解決編】ミス・アンソンの冒険②
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ウィリアムは銀盆に載せた手紙を持って、図書室に向かっていた。
今日の午後、アルバート卿は図書室にこもって何かの雑誌に寄稿する記事を執筆しているはずだった。
そのため、誰も入室させないようにと、侯爵家の執事ミスター・ショーウェルから指示を受けていたので、正直手紙を届けるのは気が引けた。
しかも、他家の使用人からの手紙だ。
ただ、ウィリアムは出過ぎたことだとは思いつつ、この手紙の送り主である女男爵の侍女が言った通り、本当にメラヴェル女男爵のことが書かれているのであれば、アルバート卿は必ず知りたいはずだと確信していた。
「失礼します、ご子息様」
ウィリアムがノックと同時に図書室に入室すると、アルバート卿は書き物机に本と紙を広げて何かの記事を執筆していた。
「……全く。誰も入れるなと言っておいたのに」
アルバート卿は書き進めている途中の原稿から目を離さずに呟いた。
しかし、入ってきたのがウィリアムだと気が付くと、顔を上げてわずかに眉を寄せた。
ウェクスフォード侯爵家では、家長である老侯爵と跡継ぎで既婚のロスマー子爵には専属の従者が付いているが、その他の未婚の次三男の世話はフットマンが交代で行っていた。
第二フットマンのウィリアムは、中でも三男のアルバート卿を担当することが多く、アルバート卿の人となりをよく知っていた。
そして、それは逆もまた然りだった。
アルバート卿は、真面目で控えめなウィリアムが執事の指示を忘れたり、まして、意味もなく指示に反したりすることはあり得ないと思っていた。
「何かあったのか、ウィリアム?」
アルバート卿に尋ねられたウィリアムは銀盆の上の手紙を差し出した。
「メラヴェル女男爵様の……侍女からのお手紙です、ご子息様」
それを聞いたアルバート卿はペンを置いてわずかに首をひねった。
彼のような貴族の若い独身男性がそれなりの交際関係にあるわけでもない未婚のレディから個人的な手紙を受け取ることはまずないが、その侍女からとなるともっとあり得なかった。
しかし、それでも、ウィリアムの予想通り、アルバート卿は銀盆から手紙をとった。
彼はそれをゆっくりと広げ、内容に目を走らせた。
どうやらそれほど長くはない手紙のようだ。
程なくして手紙を読み終えたアルバート卿は、先ほどまで使用していたインク壺に躊躇いなく蓋をした。
そして、手紙をゆっくりと元通りに折りたたみ、机の上に置いた。
やや伏せられた視線は揺らいではおらず、暫く沈黙があった。
そして――。
「ウィリアム……出かけることになった。準備してくれ。できるだけ早く」
彼は言い終わるのと同時にいつも通りの優雅な動作で立ち上がった。
その表情からは何の感情もうかがい知れなかった。
「かしこまりました、ご子息様」
指示に応えたウィリアムは先回りして帽子や手袋を用意するために、ドアの方へ向かった。
その背中にアルバート卿が呼びかける。
「忘れない内に言っておくが――私が出かけてから一時間以上音沙汰がなければ内々にヘイスティングス警部に連絡するようミスター・ショーウェルに伝えておいてくれ。行き先は後で知らせよう」
ウィリアムは立ち止まって振り返ると礼儀正しい頷きを返して図書室を出ていった。
***
すぐに外出の準備を整えて屋敷を発ったアルバート卿は、通りへ出て辻馬車を拾った。
今日は侯爵家の面々がそれぞれ別々に出かけていて、あいにく空いている自動車や馬車がなかった。
辻馬車の御者に急ぎであることを伝えると、彼は買い物客で混雑した午後のリージェントストリートを避けて裏道を行ってくれた。
優秀な御者が操るその辻馬車は、セント・ジェームズの侯爵家の屋敷からメアリルボーンのミスター・レジナルド・シルヴァリーの屋敷までをほんの15分で走った。
そのメアリルボーンの屋敷こそミス・アンソンからの手紙でレディ・メラヴェルが行方知れずになった場所として名指しされていた場所だ。
そうだとすると、当然ミスター・レジナルドがメラヴェル女男爵の失踪について事情を知っていると見るのが最も合理的だとアルバート卿は考えていた。
そして、もし、ミスター・レジナルドがレディ・メラヴェル失踪の事情を知っているのであれば、彼が先代シルヴァリー伯爵を殺害した犯人でもある可能性が高いということにもなる。
アルバート卿は外出用の杖を持つ右手に少し力を込めた。
辻馬車を降りたアルバート卿は、まず、門の外から屋敷を伺った。
今日は木曜日なので、先日シルヴァリー伯爵未亡人から聞いた通りであれば、ミスター・レジナルドは今日は終日クリケットに出かけているはずだ。
屋敷は閑散としていたが、中に人がいるのかどうかははっきりとはわからなかった。
彼が他に何か手掛かりはないかとさり気なく辺りを見回すと、近くで肩掛け紐のついた花いっぱいの箱を抱えている花売りの娘と目が合った。
せいぜい10歳くらいのその娘は、礼儀正しく「こんにちは、旦那様。お花はいかが?」と言うので、彼はその娘の方にゆっくりと歩み寄った。
花を買っている場合ではないのは百も承知だが、今日は何故かそうすべきだと感じていた。
「こんにちは。一つもらえるかな?」
「1ペニーだよ。旦那様」
アルバート卿は財布を探ったが、先ほどの辻馬車でお釣りを受け取らなかったので、今は紙幣の他はシリング銀貨3枚しか持ち合わせがなかった。
彼は少し顔を顰めてシリング銀貨を差し出した。
「シリングしかなくて悪いね」
「さっきのレディもそうだったんだ。おつりが足りないかもしれないな」
娘は売り上げが入った袋をひっくり返してペニー銅貨を数え始めた。
「あるだけで構わないよ」
アルバート卿は優しく言ったが、娘は子どもらしい頑なさで反論した。
「でもさ、旦那様。死んだ母さんが言ってたんだ。神様は正直な子供を好いてくださるって」
彼女があまりに真っ直ぐなので、アルバート卿は一度瞬きをして口元だけで笑った。
そんな彼を他所に娘は「あ!」と嬉しそうな声を上げる。
「ここに1枚隠れていたんだ。これで11ペンスあったよ」
彼女は肩から提げている花が詰まった箱の底に落ちていた1ペニーを取り出すと、無邪気に笑ってアルバート卿に11ペンスのお釣りを返した。
「1ペニーはとっておきなさい。また近々シリングで支払うお客が現れるかもしれないからね」
アルバート卿は1ペニーだけは余計に彼女に渡すと、10枚のペニー銅貨ですっかり膨らんでしまった財布にため息をついた。
しかし、結局はその財布を小さなブーケと一緒にそっと上着のポケットにしまった。
***
アルバート卿が屋敷のベルを捻って鳴らすと、ややあってミスター・レジナルド・シルヴァリー本人がドアを開けた。
「どうもこんにちは、アルバート卿。どうしたんです?」
「こんにちは、ミスター・シルヴァリー。急にすみませんね。この前ちょっと聞き忘れたことがあって立ち寄ったのです」
アルバート卿は無難に挨拶をしながら、当てが外れたと思った。
もし彼がレディ・メラヴェルの失踪に関係しているのなら、わざわざ自分の訪問に応対することはないはずだ。
合理的に考えてそんな状況で余計な客人をもてなしている暇はないだろう。
「今、使用人が用事で出払っていまして申し訳ない。とりあえず、中にどうぞ」
アルバート卿はとりあえずミスター・レジナルドに言われるままに玄関を入った。
そして、手慣れた動作でボウラーハットのつばに手をかけて脱ごうとしたとき――玄関ドアを閉めているミスター・レジナルドが後ろ手にクリケットのバットを握っているのが目に入った。
その手は震えている。
アルバート卿はミスター・レジナルドに向き直ると、彼から遠ざかるように玄関ホールの奥へと後向きに数歩進んだ。
家の奥から犬が吠える声が聞こえてくる。
「……レディ・シルヴァリーがあなたは毎週木曜日にご友人とクリケットをなさっていると言っていましたが」
「あなたもレディ・メラヴェルと同じことを言いますね」
ミスター・レジナルドの声は上擦っていた。
そして、やはりクリケットバットを持つ手は震えていた。
アルバート卿は退路を探りながらも眉を寄せた。
彼にはミスター・レジナルドが何故敢えてレディ・メラヴェルに言及したのかがまるでわからなかった。
彼がレディ・メラヴェルの失踪に関わっているとしたら――現在までの言動を考えれば彼が関わっているのは確実だろう――普通は彼女のことには一切触れないのでは?
しかし、アルバート卿が十分に合理的な答えに至る前に、ミスター・レジナルド・シルヴァリーはクリケットプレイヤーらしく素早く距離を詰め、彼の頭をめがけてバットを振り下ろした。
その一撃目をアルバート卿は辛くも避け、クリケットバットは玄関ホールのサイドテーブルにぶつかった。
サイドテーブルから落ちた時計が割れたが、ミスター・レジナルドは全く気にする様子もない。
そして、体勢を立て直しきれないアルバート卿のボウラーハットを被ったままの頭に二打撃目のクリケットバットが振り下ろされた。
***
気が付くとアルバート卿はその意に反して、ミスター・レジナルド・シルヴァリーの屋敷の半地下へと続く階段を下りていた。
片手にクリケットバットを持ったままのミスター・レジナルドがもう片方の手で彼の腕を無理に引っ張るので、アルバート卿は引きずられるように彼について歩いていくしかなかった。
幸い彼は意識までは失っていなかった。
被ったままだった帽子がいくらか衝撃を和らげてくれたのかもしれない。
しかし、頭はズキズキと痛み――とにかく全てが遠かった。
脳震盪を起こしているに違いない。
逃げようにも手足が思うように動かず、声を上げようにも口が開かなかった。
ミスター・レジナルドは彼を半地下のキッチンまで連れてくると、そこで打ち捨てるように彼の腕を放した。
そして、何故かキッチンの奥の食器棚を動かそうとしている。
アルバート卿はキッチンの壁に寄りかかって座っていた。
そこで初めて視界が赤いのに気がついた。
どうやら額の右目の上の辺りの皮膚が切れて、目に血が流れてきているらしい。
それにしても、ミスター・レジナルドは一打撃目を外し、二打撃目を頭に見舞った後、続けて殴ることはしなかった。
彼は混乱の中で衝動的に行動しているだけで、自分を殺すつもりはないのかもしれないと、アルバート卿は朧気に考えた。
しかし、「今はまだ」というだけの話かもしれない。
ミスター・レジナルドが食器棚を動かし終わると、その後ろに隠されていた赤い扉が現れた。
彼は再びアルバート卿の腕を掴んで彼をその扉の前まで連れて行き、扉を開けて彼をその中に放り込むとすぐにまた扉を閉めた。
アルバート卿はそのままうつ伏せに床に倒れ込んだ。
その向こう側でミスター・レジナルドがまた食器棚を動かして扉を塞ぐ音がする。
どうやらこの部屋はキッチンに付帯している洗い場らしい。
辛うじて顔を少し横に向けたアルバート卿は頬に冷たい床の感触を感じた。
床に転がるなど、子供のとき以来かもしれない。
そんなどうでも良いことを考えたとき――。
「アルバート卿!」
部屋の奥から聞こえた声にアルバート卿は目を見開いた。
彼はその声をよく知っていた。
だが、その声がこんなに揺れていることはなかったはずだ。
彼女の声は、いつも温かく落ち着いていて耳に心地よく響いた。
額からの流血のせいでほとんど赤かった彼の視界にブルーグレーのスカートの裾が映った。
彼女は彼の近くにしゃがむと、彼を助け起こして苦労して仰向けの体勢に変えてくれた。
彼は彼女の顔を見上げた。
最後に見たとき――昨夜ダンスパーティーでワルツを踊ったとき――と変わらないヘーゼルの瞳と赤みのある唇。
一方、やや暗い栗色の髪は帽子が取れてしまったらしく少し乱れていて、色白の頬には擦り傷ができていた。
いずれにしても、彼女は彼が今最も会いたかった人だった。
“Χαίρω ὅτι σὺ ἀσφαλής εἶ... ἀγαπῶ σε.”
アルバート卿は自分の口から何か言葉が出たのを感じた。
しかし、何を言ったのか自分でもわからなかった。
それを聞いた彼女も首を傾げていた。
「ギリシャ語……?いえ、あなたはオックスフォードで古典学を修めたのだからきっと古代ギリシャ語ね。脳震盪のせいで英語が出ないんだわ」
彼女は慌てたように言って、上着の左袖から白いハンカチを取り出して、彼の額から流れる血を拭ってくれた。
そして、それを傷に優しく押し当てて止血を試みているらしい。
彼はそのハンカチに見覚えがある気がした。
去年彼らが侯爵家で起きたダイヤモンドの盗難事件を解決した記念に彼から彼女に贈ったハンカチだ。
ちらと見ただけで根拠があるわけではないが、ぐらぐらと揺れる意識の中できっとそうなんだろうと思った。
「大丈夫。あなたも私もまだ生きていますから」
彼女――レディ・メラヴェル――はそう言って無理やり微笑んだ。
「また会えて良かったですよ……探偵女男爵」
アルバート卿はその言葉だけをなんとか絞り出すと、一度目を閉じた。
今日の午後、アルバート卿は図書室にこもって何かの雑誌に寄稿する記事を執筆しているはずだった。
そのため、誰も入室させないようにと、侯爵家の執事ミスター・ショーウェルから指示を受けていたので、正直手紙を届けるのは気が引けた。
しかも、他家の使用人からの手紙だ。
ただ、ウィリアムは出過ぎたことだとは思いつつ、この手紙の送り主である女男爵の侍女が言った通り、本当にメラヴェル女男爵のことが書かれているのであれば、アルバート卿は必ず知りたいはずだと確信していた。
「失礼します、ご子息様」
ウィリアムがノックと同時に図書室に入室すると、アルバート卿は書き物机に本と紙を広げて何かの記事を執筆していた。
「……全く。誰も入れるなと言っておいたのに」
アルバート卿は書き進めている途中の原稿から目を離さずに呟いた。
しかし、入ってきたのがウィリアムだと気が付くと、顔を上げてわずかに眉を寄せた。
ウェクスフォード侯爵家では、家長である老侯爵と跡継ぎで既婚のロスマー子爵には専属の従者が付いているが、その他の未婚の次三男の世話はフットマンが交代で行っていた。
第二フットマンのウィリアムは、中でも三男のアルバート卿を担当することが多く、アルバート卿の人となりをよく知っていた。
そして、それは逆もまた然りだった。
アルバート卿は、真面目で控えめなウィリアムが執事の指示を忘れたり、まして、意味もなく指示に反したりすることはあり得ないと思っていた。
「何かあったのか、ウィリアム?」
アルバート卿に尋ねられたウィリアムは銀盆の上の手紙を差し出した。
「メラヴェル女男爵様の……侍女からのお手紙です、ご子息様」
それを聞いたアルバート卿はペンを置いてわずかに首をひねった。
彼のような貴族の若い独身男性がそれなりの交際関係にあるわけでもない未婚のレディから個人的な手紙を受け取ることはまずないが、その侍女からとなるともっとあり得なかった。
しかし、それでも、ウィリアムの予想通り、アルバート卿は銀盆から手紙をとった。
彼はそれをゆっくりと広げ、内容に目を走らせた。
どうやらそれほど長くはない手紙のようだ。
程なくして手紙を読み終えたアルバート卿は、先ほどまで使用していたインク壺に躊躇いなく蓋をした。
そして、手紙をゆっくりと元通りに折りたたみ、机の上に置いた。
やや伏せられた視線は揺らいではおらず、暫く沈黙があった。
そして――。
「ウィリアム……出かけることになった。準備してくれ。できるだけ早く」
彼は言い終わるのと同時にいつも通りの優雅な動作で立ち上がった。
その表情からは何の感情もうかがい知れなかった。
「かしこまりました、ご子息様」
指示に応えたウィリアムは先回りして帽子や手袋を用意するために、ドアの方へ向かった。
その背中にアルバート卿が呼びかける。
「忘れない内に言っておくが――私が出かけてから一時間以上音沙汰がなければ内々にヘイスティングス警部に連絡するようミスター・ショーウェルに伝えておいてくれ。行き先は後で知らせよう」
ウィリアムは立ち止まって振り返ると礼儀正しい頷きを返して図書室を出ていった。
***
すぐに外出の準備を整えて屋敷を発ったアルバート卿は、通りへ出て辻馬車を拾った。
今日は侯爵家の面々がそれぞれ別々に出かけていて、あいにく空いている自動車や馬車がなかった。
辻馬車の御者に急ぎであることを伝えると、彼は買い物客で混雑した午後のリージェントストリートを避けて裏道を行ってくれた。
優秀な御者が操るその辻馬車は、セント・ジェームズの侯爵家の屋敷からメアリルボーンのミスター・レジナルド・シルヴァリーの屋敷までをほんの15分で走った。
そのメアリルボーンの屋敷こそミス・アンソンからの手紙でレディ・メラヴェルが行方知れずになった場所として名指しされていた場所だ。
そうだとすると、当然ミスター・レジナルドがメラヴェル女男爵の失踪について事情を知っていると見るのが最も合理的だとアルバート卿は考えていた。
そして、もし、ミスター・レジナルドがレディ・メラヴェル失踪の事情を知っているのであれば、彼が先代シルヴァリー伯爵を殺害した犯人でもある可能性が高いということにもなる。
アルバート卿は外出用の杖を持つ右手に少し力を込めた。
辻馬車を降りたアルバート卿は、まず、門の外から屋敷を伺った。
今日は木曜日なので、先日シルヴァリー伯爵未亡人から聞いた通りであれば、ミスター・レジナルドは今日は終日クリケットに出かけているはずだ。
屋敷は閑散としていたが、中に人がいるのかどうかははっきりとはわからなかった。
彼が他に何か手掛かりはないかとさり気なく辺りを見回すと、近くで肩掛け紐のついた花いっぱいの箱を抱えている花売りの娘と目が合った。
せいぜい10歳くらいのその娘は、礼儀正しく「こんにちは、旦那様。お花はいかが?」と言うので、彼はその娘の方にゆっくりと歩み寄った。
花を買っている場合ではないのは百も承知だが、今日は何故かそうすべきだと感じていた。
「こんにちは。一つもらえるかな?」
「1ペニーだよ。旦那様」
アルバート卿は財布を探ったが、先ほどの辻馬車でお釣りを受け取らなかったので、今は紙幣の他はシリング銀貨3枚しか持ち合わせがなかった。
彼は少し顔を顰めてシリング銀貨を差し出した。
「シリングしかなくて悪いね」
「さっきのレディもそうだったんだ。おつりが足りないかもしれないな」
娘は売り上げが入った袋をひっくり返してペニー銅貨を数え始めた。
「あるだけで構わないよ」
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彼女があまりに真っ直ぐなので、アルバート卿は一度瞬きをして口元だけで笑った。
そんな彼を他所に娘は「あ!」と嬉しそうな声を上げる。
「ここに1枚隠れていたんだ。これで11ペンスあったよ」
彼女は肩から提げている花が詰まった箱の底に落ちていた1ペニーを取り出すと、無邪気に笑ってアルバート卿に11ペンスのお釣りを返した。
「1ペニーはとっておきなさい。また近々シリングで支払うお客が現れるかもしれないからね」
アルバート卿は1ペニーだけは余計に彼女に渡すと、10枚のペニー銅貨ですっかり膨らんでしまった財布にため息をついた。
しかし、結局はその財布を小さなブーケと一緒にそっと上着のポケットにしまった。
***
アルバート卿が屋敷のベルを捻って鳴らすと、ややあってミスター・レジナルド・シルヴァリー本人がドアを開けた。
「どうもこんにちは、アルバート卿。どうしたんです?」
「こんにちは、ミスター・シルヴァリー。急にすみませんね。この前ちょっと聞き忘れたことがあって立ち寄ったのです」
アルバート卿は無難に挨拶をしながら、当てが外れたと思った。
もし彼がレディ・メラヴェルの失踪に関係しているのなら、わざわざ自分の訪問に応対することはないはずだ。
合理的に考えてそんな状況で余計な客人をもてなしている暇はないだろう。
「今、使用人が用事で出払っていまして申し訳ない。とりあえず、中にどうぞ」
アルバート卿はとりあえずミスター・レジナルドに言われるままに玄関を入った。
そして、手慣れた動作でボウラーハットのつばに手をかけて脱ごうとしたとき――玄関ドアを閉めているミスター・レジナルドが後ろ手にクリケットのバットを握っているのが目に入った。
その手は震えている。
アルバート卿はミスター・レジナルドに向き直ると、彼から遠ざかるように玄関ホールの奥へと後向きに数歩進んだ。
家の奥から犬が吠える声が聞こえてくる。
「……レディ・シルヴァリーがあなたは毎週木曜日にご友人とクリケットをなさっていると言っていましたが」
「あなたもレディ・メラヴェルと同じことを言いますね」
ミスター・レジナルドの声は上擦っていた。
そして、やはりクリケットバットを持つ手は震えていた。
アルバート卿は退路を探りながらも眉を寄せた。
彼にはミスター・レジナルドが何故敢えてレディ・メラヴェルに言及したのかがまるでわからなかった。
彼がレディ・メラヴェルの失踪に関わっているとしたら――現在までの言動を考えれば彼が関わっているのは確実だろう――普通は彼女のことには一切触れないのでは?
しかし、アルバート卿が十分に合理的な答えに至る前に、ミスター・レジナルド・シルヴァリーはクリケットプレイヤーらしく素早く距離を詰め、彼の頭をめがけてバットを振り下ろした。
その一撃目をアルバート卿は辛くも避け、クリケットバットは玄関ホールのサイドテーブルにぶつかった。
サイドテーブルから落ちた時計が割れたが、ミスター・レジナルドは全く気にする様子もない。
そして、体勢を立て直しきれないアルバート卿のボウラーハットを被ったままの頭に二打撃目のクリケットバットが振り下ろされた。
***
気が付くとアルバート卿はその意に反して、ミスター・レジナルド・シルヴァリーの屋敷の半地下へと続く階段を下りていた。
片手にクリケットバットを持ったままのミスター・レジナルドがもう片方の手で彼の腕を無理に引っ張るので、アルバート卿は引きずられるように彼について歩いていくしかなかった。
幸い彼は意識までは失っていなかった。
被ったままだった帽子がいくらか衝撃を和らげてくれたのかもしれない。
しかし、頭はズキズキと痛み――とにかく全てが遠かった。
脳震盪を起こしているに違いない。
逃げようにも手足が思うように動かず、声を上げようにも口が開かなかった。
ミスター・レジナルドは彼を半地下のキッチンまで連れてくると、そこで打ち捨てるように彼の腕を放した。
そして、何故かキッチンの奥の食器棚を動かそうとしている。
アルバート卿はキッチンの壁に寄りかかって座っていた。
そこで初めて視界が赤いのに気がついた。
どうやら額の右目の上の辺りの皮膚が切れて、目に血が流れてきているらしい。
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彼は混乱の中で衝動的に行動しているだけで、自分を殺すつもりはないのかもしれないと、アルバート卿は朧気に考えた。
しかし、「今はまだ」というだけの話かもしれない。
ミスター・レジナルドが食器棚を動かし終わると、その後ろに隠されていた赤い扉が現れた。
彼は再びアルバート卿の腕を掴んで彼をその扉の前まで連れて行き、扉を開けて彼をその中に放り込むとすぐにまた扉を閉めた。
アルバート卿はそのままうつ伏せに床に倒れ込んだ。
その向こう側でミスター・レジナルドがまた食器棚を動かして扉を塞ぐ音がする。
どうやらこの部屋はキッチンに付帯している洗い場らしい。
辛うじて顔を少し横に向けたアルバート卿は頬に冷たい床の感触を感じた。
床に転がるなど、子供のとき以来かもしれない。
そんなどうでも良いことを考えたとき――。
「アルバート卿!」
部屋の奥から聞こえた声にアルバート卿は目を見開いた。
彼はその声をよく知っていた。
だが、その声がこんなに揺れていることはなかったはずだ。
彼女の声は、いつも温かく落ち着いていて耳に心地よく響いた。
額からの流血のせいでほとんど赤かった彼の視界にブルーグレーのスカートの裾が映った。
彼女は彼の近くにしゃがむと、彼を助け起こして苦労して仰向けの体勢に変えてくれた。
彼は彼女の顔を見上げた。
最後に見たとき――昨夜ダンスパーティーでワルツを踊ったとき――と変わらないヘーゼルの瞳と赤みのある唇。
一方、やや暗い栗色の髪は帽子が取れてしまったらしく少し乱れていて、色白の頬には擦り傷ができていた。
いずれにしても、彼女は彼が今最も会いたかった人だった。
“Χαίρω ὅτι σὺ ἀσφαλής εἶ... ἀγαπῶ σε.”
アルバート卿は自分の口から何か言葉が出たのを感じた。
しかし、何を言ったのか自分でもわからなかった。
それを聞いた彼女も首を傾げていた。
「ギリシャ語……?いえ、あなたはオックスフォードで古典学を修めたのだからきっと古代ギリシャ語ね。脳震盪のせいで英語が出ないんだわ」
彼女は慌てたように言って、上着の左袖から白いハンカチを取り出して、彼の額から流れる血を拭ってくれた。
そして、それを傷に優しく押し当てて止血を試みているらしい。
彼はそのハンカチに見覚えがある気がした。
去年彼らが侯爵家で起きたダイヤモンドの盗難事件を解決した記念に彼から彼女に贈ったハンカチだ。
ちらと見ただけで根拠があるわけではないが、ぐらぐらと揺れる意識の中できっとそうなんだろうと思った。
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