一ノ瀬亮太郎

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【二】

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 女の店はすぐに判った。見慣れた店ばかりの中に一件だけ新しい店があったからだ。

「いらっしゃい! ああ! 来てくれたんですね」
「ちいとばかし、ここが膨らんだんでな」

 茂次は法被はっぴの懐を押さえた。

「こちらへどうぞ」

 茂次は店の奥の床几しょうぎに案内された。

「ちろりと……あとは適当に見繕ってくれ」
「かれいが入ってますけど」
「じゃあ、それをくれ」
「お待ちを」

 おかみはパタパタと小走りで板場に走り、ちろりと猪口を持って戻ってきた。

「飲んで待っていてください」

 おかみは最初の一口だけ酌をしてすぐにまた、板場に戻っていった。

「かれいと、昆布も持ってきましたよ。お代わりのお酒も。ご一緒していいですか?」

 おかみは両手にそれぞれ持った皿とちろりを床几の上に置き、それらを挟んで茂次と反対の端に腰を降ろした。

「客はいいのか?」
「今日はもう来ないと思います」
「何故?」
「おかみの勘です」

 彼女はいたずらっぽく笑った。

「だったら、おかみも飲めよ」
「よろしいのですか?」
「ああ。素面しらふ相手に飲んでも気詰まりだ」
「それでは」

 おかみは立ち上がり、板場から自分の猪口を持って戻ってきた。茂次はそれを待っていたようにちろりを差し出した。

「いただきます」

 おかみが猪口を飲み干した。襟すじにぽっと紅が差し、急につやめいた。

「お嬢さんはお留守番?」
「もう寝てる」
「かわいいね。でも……」
「ああ。苛められてると思う。親の因果が子に報い、ってやつかもしれん」
「なんなの、それ?」
「あれは俺がまだほんの子供のときの話だ……」

 茂次の故郷は二十戸ほどの家からなる村だった。正確には分村であって、名主は一里ほど離れた本村にいるのだが、大抵のことは分村の中だけで対処していた。田植えも稲刈りも、入会地いりあいちの手入れも、全て村の者が協力する。農村は完全に共同体であり、そこから追い出されては生きていけない。皆、周りの目を気にしてハミ出さないよう汲々としていた。長年の慣行のうちには首を傾げざるを得ないものも少なくなかったが、それを言い出す者はいない。誤ったしきたりに敢えて従うことすら、仲間であることを確認しあい、抜け駆けを許さないという意味を持っていたのだ。

 ところが、それを良しとしない男が一人だけいた。名前を弥助と言った。分村の中でも弥助の家と茂次の家だけまた少し外れにあり、両家は特に親しかった。あるとき分村の会合で弥助が、村の特定の家だけが得をするような慣行について改めるべきだと意見を言ったらしい。子供だった茂次にそんなこと分かるはずもないし、後々になっても皆そのことは話したがらないので、今でも茂次はそれ以上のことは知らない。ただ「これからはあの家の者と付き合ってはいけない」と言われたことは憶えている。
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