2 / 6
日本橋の狂風
おはる、浪人に助けられる
しおりを挟む
「江戸じゃとんでもない辻斬りが出たそうじゃないか」
「日本橋で百人がとこ殺られたって」
「おっかないねえ」
「なんでも、誰も下手人の姿を見てないそうで、超疾風だろうってさ」
「御旗本ってことかい?」
「おいおい、そんな事おいそれと言うもんじゃないぜ」
「そうよ。どこで御公儀に聞かれるか分からないんだから。はい、お茶」
結綿の髪、黄八丈に似せた小袖に赤い帯。いかにも茶屋娘という格好のおはるは、縁台に並んで座る二人の客の間に湯呑みを二つ載せた盆を置いた。
かつて日本の中心だったこともあるここ鎌倉だが、源氏・北条政権崩壊の後は寂れた漁村になっていた。しかし頼朝公の血筋を自称する家康公が天下を取ってから、その庇護のもと鶴岡八幡宮の復興がなされ、それと共に観光地として賑わうようになった。
鎌倉の象徴である八幡宮の参道・若宮大路の東側を並行して走る小町大路は、茶店や土産物屋が並ぶ商業地だ。長谷から名越切通へと東西に走る大町大路と、南北に通る小町大路の交わるところが米町。その辻にある米辻茶屋がおはるの職場だ。大山詣りの旅人や八幡宮への参拝客で繁盛している。今も店を開けたばかりの早い時間にもかかわらず、既に何人かの客が入っている。 盆を置いたおはるが店の奥の釜場へ戻ろうとしたとき、道に面した縁台から怒鳴り声が聞こえた。おはるが驚いて声のほうを見ると、真っ赤になって怒りを表している侍が立っている。太めの髷に安手の羽織袴で御家人のようだ。侍が見下ろす先では、最近ここで働き始めたおみつが這いつくばって額を地べたに擦り付けている。おはるは急いで駆けていき、侍に声を掛けた。
「お武家様、うちの者に粗相が御座いましたでしょうか?」
「これを見よ! 殿から拝領の羽織に茶を掛けられた」
「これはとんだご無礼を。おみっちゃん、いったいどうしたの?」
「お茶をお持ちしたときに鼻緒が切れて、つまずいてしまったの」
額を地面に着けたままおみつが答えた。
「お武家様、お聞きの通り悪気では御座いませんので、どうかご勘弁くださいますよう」
おはるは頭を深く下げて言った。
「ならん! 不届きな娘、手打ちにせねば気がすまん!」
侍はそう言うと物凄い速さで刀を抜き、頭上に振り上げた。おはるは固く目を閉じて顔を背けた。
「おみっちゃん、ごめん。成仏して」
おはるは何もできないことを心の中でおみつに詫びた。おみつの血飛沫を想像して身体が強張る。
何も起きなかった。おはるは恐る恐る目を開けてみる。侍は刀を振り上げたまま静止していた。背後に侍よりも頭一つ分以上大きな浪人が立ち、侍の手首を握っている。侍が浪人の手を振りほどこうとしているが、びくともしない。しばらく二人は無言でせめぎ合っていたが、そのうち浪人が口を開いた。
「この娘もこんなに謝っているじゃないですか。お茶を掛けられたくらいで無礼討ちなんかしたら、貴方だって無事ではすみませんよ。今のお目付・永山様はお身内に厳しい方だと聞いています」
「ええい、分かっておる。粗忽者に灸をすえようとしただけだ。この手を離さんか」
「それは失礼いたしました」
浪人が急に手を離したので、振りほどこうと力を入れていた侍が勢い余って尻もちをついた。ばつが悪そうに立ち上がった侍が店を出ていこうとするのを、浪人が呼び止めた。
「洗濯代くらいは店に求めてもよいのでは?」
「ああ、もうよい。殿から拝領の品など嘘だ。もう勘弁してくれ」
侍は振り返らずに答えると、軽く手を振り去っていった。
「おみっちゃん、もう立っていいよ」
浪人と並んで侍を見送ったおはるは、突然気づいたようにおみつに言った。それから浪人に向き直って深々と頭を下げた。
「お武家様、ありがとうございます。おみっちゃんもお礼しなきゃ」
「あ……あ……あ……ありがとうございます」
まだ震えているおみつがぎこちなく頭を下げた。
「そんな気にしないでください」
浪人は大きな身体を丸めて照れている。月代を剃ってこそいないが綺麗にまとめた前髪、小さめの髷、落ち着いた色合いを着流して帯には打刀を一本、落し差しにしている。
「茶をいただけるかな?」
「あっ、気が利かず申し訳ありません」
おはるは慌てて店の奥に戻り、店の主人・善蔵に注文を通した。振り返って浪人のほうを見ると、浪人は縁台におみつと並んで座り、彼女に何か話しかけている。まだ恐怖から醒めていないおみつを浪人がなだめていると分かっていても、おはるはなんだか面白くない気分だ。
「おはる、できたよ」
善蔵に声をかけられて振り向くと、善蔵が差し出した盆には湯呑みと一緒に団子が載っている。
「これ……」
おはるが団子を指さして訊く。
「俺からの礼だ」
おはるは大きくうなずいて盆を受け取った。
「日本橋で百人がとこ殺られたって」
「おっかないねえ」
「なんでも、誰も下手人の姿を見てないそうで、超疾風だろうってさ」
「御旗本ってことかい?」
「おいおい、そんな事おいそれと言うもんじゃないぜ」
「そうよ。どこで御公儀に聞かれるか分からないんだから。はい、お茶」
結綿の髪、黄八丈に似せた小袖に赤い帯。いかにも茶屋娘という格好のおはるは、縁台に並んで座る二人の客の間に湯呑みを二つ載せた盆を置いた。
かつて日本の中心だったこともあるここ鎌倉だが、源氏・北条政権崩壊の後は寂れた漁村になっていた。しかし頼朝公の血筋を自称する家康公が天下を取ってから、その庇護のもと鶴岡八幡宮の復興がなされ、それと共に観光地として賑わうようになった。
鎌倉の象徴である八幡宮の参道・若宮大路の東側を並行して走る小町大路は、茶店や土産物屋が並ぶ商業地だ。長谷から名越切通へと東西に走る大町大路と、南北に通る小町大路の交わるところが米町。その辻にある米辻茶屋がおはるの職場だ。大山詣りの旅人や八幡宮への参拝客で繁盛している。今も店を開けたばかりの早い時間にもかかわらず、既に何人かの客が入っている。 盆を置いたおはるが店の奥の釜場へ戻ろうとしたとき、道に面した縁台から怒鳴り声が聞こえた。おはるが驚いて声のほうを見ると、真っ赤になって怒りを表している侍が立っている。太めの髷に安手の羽織袴で御家人のようだ。侍が見下ろす先では、最近ここで働き始めたおみつが這いつくばって額を地べたに擦り付けている。おはるは急いで駆けていき、侍に声を掛けた。
「お武家様、うちの者に粗相が御座いましたでしょうか?」
「これを見よ! 殿から拝領の羽織に茶を掛けられた」
「これはとんだご無礼を。おみっちゃん、いったいどうしたの?」
「お茶をお持ちしたときに鼻緒が切れて、つまずいてしまったの」
額を地面に着けたままおみつが答えた。
「お武家様、お聞きの通り悪気では御座いませんので、どうかご勘弁くださいますよう」
おはるは頭を深く下げて言った。
「ならん! 不届きな娘、手打ちにせねば気がすまん!」
侍はそう言うと物凄い速さで刀を抜き、頭上に振り上げた。おはるは固く目を閉じて顔を背けた。
「おみっちゃん、ごめん。成仏して」
おはるは何もできないことを心の中でおみつに詫びた。おみつの血飛沫を想像して身体が強張る。
何も起きなかった。おはるは恐る恐る目を開けてみる。侍は刀を振り上げたまま静止していた。背後に侍よりも頭一つ分以上大きな浪人が立ち、侍の手首を握っている。侍が浪人の手を振りほどこうとしているが、びくともしない。しばらく二人は無言でせめぎ合っていたが、そのうち浪人が口を開いた。
「この娘もこんなに謝っているじゃないですか。お茶を掛けられたくらいで無礼討ちなんかしたら、貴方だって無事ではすみませんよ。今のお目付・永山様はお身内に厳しい方だと聞いています」
「ええい、分かっておる。粗忽者に灸をすえようとしただけだ。この手を離さんか」
「それは失礼いたしました」
浪人が急に手を離したので、振りほどこうと力を入れていた侍が勢い余って尻もちをついた。ばつが悪そうに立ち上がった侍が店を出ていこうとするのを、浪人が呼び止めた。
「洗濯代くらいは店に求めてもよいのでは?」
「ああ、もうよい。殿から拝領の品など嘘だ。もう勘弁してくれ」
侍は振り返らずに答えると、軽く手を振り去っていった。
「おみっちゃん、もう立っていいよ」
浪人と並んで侍を見送ったおはるは、突然気づいたようにおみつに言った。それから浪人に向き直って深々と頭を下げた。
「お武家様、ありがとうございます。おみっちゃんもお礼しなきゃ」
「あ……あ……あ……ありがとうございます」
まだ震えているおみつがぎこちなく頭を下げた。
「そんな気にしないでください」
浪人は大きな身体を丸めて照れている。月代を剃ってこそいないが綺麗にまとめた前髪、小さめの髷、落ち着いた色合いを着流して帯には打刀を一本、落し差しにしている。
「茶をいただけるかな?」
「あっ、気が利かず申し訳ありません」
おはるは慌てて店の奥に戻り、店の主人・善蔵に注文を通した。振り返って浪人のほうを見ると、浪人は縁台におみつと並んで座り、彼女に何か話しかけている。まだ恐怖から醒めていないおみつを浪人がなだめていると分かっていても、おはるはなんだか面白くない気分だ。
「おはる、できたよ」
善蔵に声をかけられて振り向くと、善蔵が差し出した盆には湯呑みと一緒に団子が載っている。
「これ……」
おはるが団子を指さして訊く。
「俺からの礼だ」
おはるは大きくうなずいて盆を受け取った。
0
あなたにおすすめの小説
花嫁
一ノ瀬亮太郎
歴史・時代
征之進は小さい頃から市松人形が欲しかった。しかし大身旗本の嫡男が女の子のように人形遊びをするなど許されるはずもない。他人からも自分からもそんな気持を隠すように征之進は武芸に励み、今では道場の師範代を務めるまでになっていた。そんな征之進に結婚話が持ち込まれる。
剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末
松風勇水(松 勇)
歴史・時代
旧題:剣客居酒屋 草間の陰
第9回歴史・時代小説大賞「読めばお腹がすく江戸グルメ賞」受賞作。
本作は『剣客居酒屋 草間の陰』から『剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末』と改題いたしました。
2025年11月28書籍刊行。
なお、レンタル部分は修正した書籍と同様のものとなっておりますが、一部の描写が割愛されたため、後続の話とは繋がりが悪くなっております。ご了承ください。
酒と肴と剣と闇
江戸情緒を添えて
江戸は本所にある居酒屋『草間』。
美味い肴が食えるということで有名なこの店の主人は、絶世の色男にして、無双の剣客でもある。
自分のことをほとんど話さないこの男、冬吉には実は隠された壮絶な過去があった。
多くの江戸の人々と関わり、その舌を満足させながら、剣の腕でも人々を救う。
その慌し日々の中で、己の過去と江戸の闇に巣食う者たちとの浅からぬ因縁に気付いていく。
店の奉公人や常連客と共に江戸を救う、包丁人にして剣客、冬吉の物語。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
還暦の性 若い彼との恋愛模様
MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。
そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。
その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。
全7話
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
