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1. 晩冬の坂道、午後5時半
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春の薄桜色があけぼのに染まった頬たちの上を踊っては空に消えていく。それに気づいた者たちが足を止め上を見上げると、まだ微かに冷たい白花色がふうっと吹いて瞳の潤いを吸い上げる。その黒紅の瞳たちに映るのは、大きく膨らんだ蜜柑色の光たち。その中央に位置する空の王様は、いまにも弾けだしそうである。肌に感じる暖かさで、胸を包む優しさで、いまにも泣き出しそうである。その姿を、モナリザの様な妖艶な目でじいっと見つめた。背後から聞こえるのは人々のおしゃべりに小銭の音、猫のあくびに誰かの走る音歩く音。そして低い音が囁く。今日も終わりかあ。ええ、また明日。耳の裏で聞こえた会話は心臓をちくりと刺した。先ほどまで空を見上げていた者も今は道のずっと先を歩いている。周りの騒がしさに取り残され、独り彩のしじまに身を任せる。万恵はそんな子であった。
万なんて、そんなに多くの恵みなど持っていないよ。
万恵は日頃から考えに耽り周りから取り残される事がよくある。しかし最近は、自分の名前からからも取り残しを食らっているのではないかと真剣に考えていた。そして、考えれば考えるほど、小さな事は昆布やワカメよりもかさを増す。
いっそ頭の中をバッキンガム宮殿ほどの広さに作り変えたいものだ。
万恵の考えることはいつもくだらないことである。くだらない事を見つけてはくだらないほど考えてくだらない程度の答えを出す。
少し待てよ、バッキンガム宮殿は皇居よりも小さかったかもしれない。
またひとつ、くだらない小さなことを見つけてしまった。
しかし、万恵のくだらない事たちに意味がないわけではない。誰かにとってつまらないこの世界を万恵は日々自分にとって小気味良い世界に変えているのである。実は、くだらない事たちは万恵の宝石なのである。のかも知れない。しかし少なくとも、万恵は、彩りの世界をゆったりと歩んでいる。
首にしびれを感じ、上を見上げることをやめ前を向いた頃にはもう春の薄桜色は頰に残っていなかった。その代わりに濃藍の静けさがピリリと頰をこわばらせる。今聞こえるのは誰かの足音と猫の囁きだけ。先ほどの静けさとは違い、誰かに世界を奪われたような静けさが耳に大きく響いた。手ぶらでいるのはなにか寂しいので、腕をぎゅっと組み少し下を見つめて万恵はそっと歩きだした。もう万恵には自分の足音と呼吸しか聞こえない。すっはっすっはっと心臓の鼓動に合わせて出される息は段々と白に姿を変えてきていた。心臓が速く鳴るのを感じる。足取りもいつの間にか駆け足になっている。心臓が先に速く打つようになったのか、足が先に駆け出したのか、万恵は鶏が先か卵が先かというようなことを考えていた。少しでもこの静けさと寂しさを紛らわすため、そんなことを考えるしかなかった。心の何処かでそんなことは分かっていたが、それでも誤魔化すために真剣に考えた。ああそうだ、万恵は昔から寂しい夜が苦手だった。色を無くすこの世界が怖いのかもしれない。頰から伝わる冷たさが少しずつ万恵の暖かさを奪っていく。それと対照的に、万恵の右手は心臓の鼓動を感じながら汗ばんでいた。
足、心臓、足、心臓、足、心臓、足、心臓、足、心臓、足、心臓、
もうこの時には、万恵は思考を停止し、心臓の鼓動に合わせて単語をただ頭の中で繰り返していた。ただ本能的に、まるでライオンから必死に逃げるダチョウの様に、己の生ける場所に向かい一直線。足と心臓。この二つの単語が万恵を完全なダチョウにさせない唯一の繋ぎであった。一体何から逃げているのか、一体何を恐れているのか、一体何を奪われるのか。その答えは万恵にはさっぱり分からなかった。ただ一つ体が知っているのは、もしここで立ち止ってしまったら足が凍り心臓が収縮し続け濃藍の静けさが全てを包み自分を忘れてしまう。それがどんなに悲しいことか万恵は知っていた。知っている、というよりは体に染み込んでいた。
すすすっははっ、すすすっははっ、すすすっははっ、すすっははっ、
鼻の裏から喉の奥にかけて真紅の血の味がする。唾を飲みたい。けれど体が走ること以外を許さない。唾を飲みたい。濃藍の静けさが喉の奥を掴んだ。唾を飲みたい。もう胸も苦しくなってくる。
足、心臓、足、心臓、足、心臓、足、心臓、足、心臓、足、心臓、
一瞬の切望も掻き消され、万恵は再び本能に身を任せた。烏羽色の瞳孔をこれでもかと見開き、濃藍の静けさの中を切り裂くように進んでいった。狭い肩幅に少しかかる栗色のポニーテールをブランコの様に揺らしながら、万恵は星ひとつない曇天の下に消えていった。
そういえば、あの日も月が見えなかった。
万なんて、そんなに多くの恵みなど持っていないよ。
万恵は日頃から考えに耽り周りから取り残される事がよくある。しかし最近は、自分の名前からからも取り残しを食らっているのではないかと真剣に考えていた。そして、考えれば考えるほど、小さな事は昆布やワカメよりもかさを増す。
いっそ頭の中をバッキンガム宮殿ほどの広さに作り変えたいものだ。
万恵の考えることはいつもくだらないことである。くだらない事を見つけてはくだらないほど考えてくだらない程度の答えを出す。
少し待てよ、バッキンガム宮殿は皇居よりも小さかったかもしれない。
またひとつ、くだらない小さなことを見つけてしまった。
しかし、万恵のくだらない事たちに意味がないわけではない。誰かにとってつまらないこの世界を万恵は日々自分にとって小気味良い世界に変えているのである。実は、くだらない事たちは万恵の宝石なのである。のかも知れない。しかし少なくとも、万恵は、彩りの世界をゆったりと歩んでいる。
首にしびれを感じ、上を見上げることをやめ前を向いた頃にはもう春の薄桜色は頰に残っていなかった。その代わりに濃藍の静けさがピリリと頰をこわばらせる。今聞こえるのは誰かの足音と猫の囁きだけ。先ほどの静けさとは違い、誰かに世界を奪われたような静けさが耳に大きく響いた。手ぶらでいるのはなにか寂しいので、腕をぎゅっと組み少し下を見つめて万恵はそっと歩きだした。もう万恵には自分の足音と呼吸しか聞こえない。すっはっすっはっと心臓の鼓動に合わせて出される息は段々と白に姿を変えてきていた。心臓が速く鳴るのを感じる。足取りもいつの間にか駆け足になっている。心臓が先に速く打つようになったのか、足が先に駆け出したのか、万恵は鶏が先か卵が先かというようなことを考えていた。少しでもこの静けさと寂しさを紛らわすため、そんなことを考えるしかなかった。心の何処かでそんなことは分かっていたが、それでも誤魔化すために真剣に考えた。ああそうだ、万恵は昔から寂しい夜が苦手だった。色を無くすこの世界が怖いのかもしれない。頰から伝わる冷たさが少しずつ万恵の暖かさを奪っていく。それと対照的に、万恵の右手は心臓の鼓動を感じながら汗ばんでいた。
足、心臓、足、心臓、足、心臓、足、心臓、足、心臓、足、心臓、
もうこの時には、万恵は思考を停止し、心臓の鼓動に合わせて単語をただ頭の中で繰り返していた。ただ本能的に、まるでライオンから必死に逃げるダチョウの様に、己の生ける場所に向かい一直線。足と心臓。この二つの単語が万恵を完全なダチョウにさせない唯一の繋ぎであった。一体何から逃げているのか、一体何を恐れているのか、一体何を奪われるのか。その答えは万恵にはさっぱり分からなかった。ただ一つ体が知っているのは、もしここで立ち止ってしまったら足が凍り心臓が収縮し続け濃藍の静けさが全てを包み自分を忘れてしまう。それがどんなに悲しいことか万恵は知っていた。知っている、というよりは体に染み込んでいた。
すすすっははっ、すすすっははっ、すすすっははっ、すすっははっ、
鼻の裏から喉の奥にかけて真紅の血の味がする。唾を飲みたい。けれど体が走ること以外を許さない。唾を飲みたい。濃藍の静けさが喉の奥を掴んだ。唾を飲みたい。もう胸も苦しくなってくる。
足、心臓、足、心臓、足、心臓、足、心臓、足、心臓、足、心臓、
一瞬の切望も掻き消され、万恵は再び本能に身を任せた。烏羽色の瞳孔をこれでもかと見開き、濃藍の静けさの中を切り裂くように進んでいった。狭い肩幅に少しかかる栗色のポニーテールをブランコの様に揺らしながら、万恵は星ひとつない曇天の下に消えていった。
そういえば、あの日も月が見えなかった。
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