【完結】婚約を解消されたら、自由と笑い声と隣国王子がついてきました

ふじの

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番外編

ハンカチを返せない令嬢(レティシア視点)

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 秋の風が、窓辺の帳をやわらかく揺らしていた。
 書類の山の向こう、机の引き出しの隅に――それはあった。

 白い布。
 端には丁寧な刺繍のイニシャル、「K」。
 あの日、王城の婚約式で涙を拭ったまま、返せずにいるハンカチ。

 レティシア・ドミナードはため息をひとつ落とした。

「……また見つめているわね、私」

 誰に聞かせるでもなく呟きながら、彼女はハンカチを手に取った。
 柔らかな布地の感触が、あのときの混乱と涙を思い出させる。

 ――泣いてしまったのだ、リシェルの婚約式で。
 罪悪感と安堵と、少しの羨望と。
 そしてその涙を拭ってくれたのが、隣にいた青年――カイル・ハロルド。
 我が国の第二王子アレクの側近であり、穏やかな微笑を絶やさない人。

 (あのときは、ハンカチをお借りしてすぐ返すつもりだったのに……)

 だが現実は、返しそびれたまま季節が過ぎた。
 辺境の領地に戻った彼女は、爵位を失った父に代わって、行政の仕事に追われている。
 父は王命により蟄居。義母と妹は実家へ戻された。
 ひとり残ったレティシアは、父の罪の後始末を続けながら、領民に頭を下げる日々を過ごしていた。

「……謝るばかりの毎日ね。せめてこのハンカチくらい、ちゃんと返さなきゃ」

 そう呟いた矢先だった。
 扉をノックする音がして、執事が顔を出した。

「レティシア様、客人がお見えです」
「今? どなたかしら」
「――ハロルド・エバンスと申される方が…」

 その名を聞いた瞬間、心臓が跳ねた。

「……ど、どうしてここに?」
「王子からの命にて、視察のために辺境へ。すでに玄関にてお待ちです」

 レティシアは、ハンカチを慌てて握りしめた。
 ――神様、なぜ今。

***

 石畳の庭に、秋の陽射しが柔らかく降り注いでいた。
 カイル・エバンスは以前と変わらぬ穏やかな微笑で、彼女に一礼した。

「ご無沙汰しております、レティシア様」
「……お久しぶりです。まさか辺境まで来られるなんて」
「任務です。ですが、再会を喜んでおります」

 ――どうしてそんな目で言うの。
 レティシアは内心の動揺を押し隠し、背筋を正した。

「あの……実は、以前お借りしたものを……」

 そう言って、懐からそっと白いハンカチを取り出す。
 だが差し出した瞬間、目に入ってしまった。

 ――うっすらと残る、涙と化粧の跡。

「……っ!」

 慌てて引っ込めようとしたが、遅かった。
 カイルは一瞬目を瞬かせ、次いで小さく笑った。

「……気にしません。むしろ、使っていただいている証ですから」
「そ、そんな言い方をされると、返しづらいですわね!」
「では、預かりましょうか。次に泣いた時にまた貸します」
「泣きません!」

 自分でも驚くほど大きな声が出た。
 執務室の扉の外で、使用人たちがひそひそと笑う声がする。
 顔が真っ赤になり、レティシアは椅子を引いた。

「すみません、失礼します!」
「逃げ足の速さはお変わりない」
「……っ!」

 カイルの小さなからかいが、妙に胸に残った。

***

 その日の夕刻、カイルが帰る前に、二人で領館の庭を歩くことになった。
 風が冷たく、木々の葉が赤く染まり始めている。
 沈みゆく陽が、ふたりの影を長く伸ばした。

「……辺境は静かですね」
「静かすぎて、考えたくないことまで考えてしまいます」
「たとえば?」
「自分のしたこと、ですわ」

 レティシアの声は風に溶けるように小さかった。

「父の罪を止められなかった。リシェル様の恋を邪魔した。あの時、私は“父の駒”であり“誇り高い辺境伯令嬢”であることに必死で、何も見えていなかったんです」

 俯いた横顔を、カイルは静かに見つめた。

「……あなたは罪を償おうとしている。それならもう、十分ではありませんか」

「そう簡単に、心は軽くならないものですわ」
「でしょうね」

 さらりと肯定する声に、レティシアは目を瞬いた。
 慰めでも否定でもない。ただ事実として受け止める声。
 それが、不思議と心に沁みた。

「けれど、あなたはもう“誰かの影”ではありません」
「……え?」
「以前のあなたは、父や他人の評価の中で生きていた。けれど今のあなたは、領民に頭を下げ、自分で歩いている」

 カイルの言葉に、胸が熱くなった。

「……そんなふうに言われたのは、初めてです」
「なら、今日が初めての日ですね」

 秋風が吹き抜け、彼の黒髪を揺らす。
 光が差し込み、瞳の奥がやさしく光った。

 ――この人は、いつだって誠実なのだ。
 嘘も飾りもなく、まっすぐに人を見てくれる。

 レティシアは震える唇で、小さく笑った。

「……そうなりたいですわ。“誰かの影”ではなく、私として」
「なれます。きっと」

 その言葉に、胸の奥の氷が静かに溶けていった。

***

 夕陽が沈みきるころ、門の前でふたりは立ち止まった。

「それでは、失礼いたします」

 カイルが軽く頭を下げる。
 その仕草に、彼の真面目さが滲んでいて、レティシアは思わず口を開いた。

「……あの、今日はありがとうございました」
「こちらこそ。――ああ、そうだ」
「?」
「次に会うときまで、そのハンカチを預かっていてもらえませんか」

 一瞬、意味が掴めず目を瞬かせる。
 すぐに思い当たって、顔が熱くなった。

「……それでは困りますわ」
「なぜです?」
「お会いする理由ができてしまいますもの」

 カイルが一瞬驚き、それから静かに笑った。

「あなたのその誠実なところは変わりませんね」
「……もう、そういうところがずるいのですわ」

 ふたりの間に、柔らかな沈黙が落ちた。
 風が木々を揺らし、遠くで鳥が鳴く。

 ――たぶん、これが“対等な関係”というものなのだろう。
 誰かに許されるでも、贖うでもなく。
 ただ、同じ場所で息をするということ。

 カイルが去ったあと、レティシアはそっと懐からハンカチを取り出した。
 さっき、無意識に握りしめていた。

「……結局は返しそびれてしまいましたわね」

 けれどその声は、もう泣き声ではなかった。
 風がやさしく頬を撫で、赤く染まる空の下、彼女は小さく笑った。

 ――不器用な恋の始まりは、いつだってこんな風に静かに訪れるのだ。

 白いハンカチが、秋の夕暮れに揺れていた。
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