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第二章
自由と笑い声とあなたの隣で
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婚約式の朝。
空は雲ひとつなく晴れ渡り、王都の鐘が静かに鳴り響いていた。
窓辺に立つ私の前には、一通の封筒が置かれている。王城に届いたばかりの――父からの手紙だった。
『リシェル。おまえが穏やかに過ごしていることは聞き及んでいる。
こちらは相変わらず、静かな嵐の中にある。けれど皆、それぞれの道を歩み出そうとしている。
どうか、おまえは幸せに。無理をするな。
父より』
滲むような筆跡。その一行一行に、言葉にできぬ思いが染みていた。
義母やエリナの名は出ていない。けれど、その沈黙の中に、父の覚悟と祈りがあった。
――心配するな。もうこちらのことは気にかけるな。
そんな声が、紙の向こうから聞こえた気がした。
私はそっと微笑み、封を閉じた。もう涙は出なかった。過去を抱きしめながらも、確かに前を向けるのだと感じた。
封筒を胸に抱くと、外からノックの音がした。
「どうぞ」と言うと、扉の向こうから朝の光が流れ込んだ。
純白の礼装に身を包んだアレク様が立っていた。陽光に縁取られた姿は、まるで物語の中の王子のようだった。
王族の威厳をまといながらも、瞳にはいつもの柔らかさが宿っている。
「リシェル、すげー綺麗だ。準備はいいか?」
「はい。緊張していますけれど……」
「大丈夫だ。おまえが笑っていれば、それで式は完成する」
「……もう、そんなことを言って」
思わず笑うと、アレク様も肩の力を抜いたように微笑んだ。
背後で控えていたカイルさんが、手帳を閉じながらため息をつく。
「殿下、式前に見惚れるのはお控えください。進行が遅れます」
「ちょっとくらい許せよ。今日くらいは」
「……今日“も”、ですね」
吹き出した私に、アレク様が照れたように咳払いをした。
こうして笑い合える日が、こんなにも愛しい。あの暗闇の日々を思えば、今この光が奇跡のように感じられた。
扉の向こうから音楽が流れ出す。
王城の大広間。
祭壇には王と王妃、そして高官たちが並び、列席者の衣擦れの音が静かに響く。
光の中、アレク様がゆっくりと歩み寄ってくる。その瞳はまっすぐに、私だけを映していた。
「皆も証人になってほしい。……改めて言わせてくれ。俺は、おまえと共に生きたい」
その声を聞くだけで、胸が熱くなる。
どれだけの苦難を越えて、今この瞬間に立っているのだろう。
母国での婚約破棄の日――もう遠い昔に感じる冷たい石畳の上に落ちた涙を思い出す。
あの日の私に、この光景を見せてあげたい。
「……はい。アレク様。私も、あなたと共に歩みます」
言葉を交わした瞬間、大広間に柔らかな拍手が広がった。
花弁が風に舞い、光が降り注ぐ。
アレク様の唇が柔らかく笑み、取られた指先が微かに震えているのを感じた。
「……リシェル。おまえの自由を奪うつもりはない。ただ――」
彼は一瞬言葉を切り、微笑んだ。
「隣で笑う権利だけは、俺にくれ」
「もう、ずるい方ですね……そんな言い方をされたら」
頬が熱くなる。けれど、心は静かだった。
この人となら、笑っていける。そう確信できた。
列席者の中に、レティシア様の姿が見えた。
涙をこぼしながらも、どこか安堵の笑みを浮かべている。
その姿に、慌てたようにカイル様がハンカチを差し出した。
彼女が小さく会釈を返す。その一瞬、カイル様がわずかに微笑んだ。
――それだけで、きっと彼女も救われるのだと感じた。
誰もが、それぞれの痛みを越えて、新しい道を歩いている。
そう思うと、自然と涙があふれた。
やがて式が終わり、夜風が庭を撫でるころ。
披露の宴を抜け出し、バルコニーに出る。
アレク様が隣に立ち、少しだけ肩を寄せてくる。
「……あの日、おまえを失うかと思った。だから今日を迎えられたことが、まだ信じられない」
「私もです。けれど、あの日があったからこそ、今日があるのだと思います」
「リシェル」
名前を呼ばれて、胸がどくりと鳴る。
アレク様がゆっくりと私の頬に触れた。
その指先はあたたかく、目を閉じた瞬間、すべての音が遠のいていった。
唇が重なり、時間が静かに止まる。
互いの鼓動だけが、世界の中心になった。
やがて唇が離れると、アレク様が小さく笑った。
「これで、ようやく“婚約解消された公爵令嬢”じゃなくなるな」
「ええ。でも、あの時の“解消”があったから、私は自由になれたのですわ」
「自由?」
「ええ。心を縛りつけたものから解き放たれて、笑うことを覚えて、あなたの隣に居場所ができました」
アレク様が一瞬きょとんとした後、照れたように頭をかいた。
「リシェル。おまえが婚約を解消された日、俺は心の中で決めたんだ。誰にもおまえを傷つけさせないって。誘拐されたときも、助けに行けてよかった。」
「ふふ……まるで王子様みたいですわね」
「一応、王子なんだが?」
むっとした顔が可笑しくて、思わず笑ってしまう。
その笑い声が夜空に溶け、星が瞬く。
「婚約を解消されたら、自由と笑い声と……そして隣国の王子がついてきました。人生とは、不思議なものですわね」
「それ、俺のことか?」
「他に誰が?」
「なら、もう少し格好いい言い方にしてくれ」
「ふふ、十分格好いいですわよ。……私にとっては」
アレク様が照れくさそうに息をつき、空を見上げた。
その横顔に、灯りが優しく揺れる。
「この国を、おまえの笑顔で満たしてほしい。……それが俺の願いだ」
私はゆっくりとうなずき、彼の肩に頭を預けた。
花の香りが夜風に混ざり、遠くで音楽が響いている。もう恐れるものはなにもなかった。
あの日、すべてを失ったと思った少女は、こうして新しい国で、愛と笑い声に包まれながら、もう一度生まれ変わったのだ。
「――アレク様」
「ん?」
「これからも、一緒に笑ってくださいね」
「約束だ。……俺の自由で笑う姫君」
彼が静かに私を抱き寄せ、唇が触れ合った。
柔らかな夜風と星の光の中で、世界が静かに溶けていく。
夜空に、ふたりの笑い声が溶けていった。
星々が祝福するように光を瞬かせる中、私はそっと呟いた。
――ありがとう、すべての出会いに。
――ありがとう、過去の私に。
これが、私の物語の終わり。
そして、自由と笑い声と隣国の王子と共に歩む、新しい物語の始まりだった。
【完】
ここまで読んでくださった皆さま、本当にありがとうございました。
初めは三万字くらいの予定が、気づけばリシェルやアレクたちが勝手に動き出し、こんなに長い物語になっていました。
初めて書いた長編でしたので、途中、書くことに挫けそうになることもありましたが、お気に入りやいいねが本当に励みになりました。
ここまで支えてくださった皆さまに、改めて心から感謝を。
ありがとうございました。
またどこかの物語で、お会いできますように。
空は雲ひとつなく晴れ渡り、王都の鐘が静かに鳴り響いていた。
窓辺に立つ私の前には、一通の封筒が置かれている。王城に届いたばかりの――父からの手紙だった。
『リシェル。おまえが穏やかに過ごしていることは聞き及んでいる。
こちらは相変わらず、静かな嵐の中にある。けれど皆、それぞれの道を歩み出そうとしている。
どうか、おまえは幸せに。無理をするな。
父より』
滲むような筆跡。その一行一行に、言葉にできぬ思いが染みていた。
義母やエリナの名は出ていない。けれど、その沈黙の中に、父の覚悟と祈りがあった。
――心配するな。もうこちらのことは気にかけるな。
そんな声が、紙の向こうから聞こえた気がした。
私はそっと微笑み、封を閉じた。もう涙は出なかった。過去を抱きしめながらも、確かに前を向けるのだと感じた。
封筒を胸に抱くと、外からノックの音がした。
「どうぞ」と言うと、扉の向こうから朝の光が流れ込んだ。
純白の礼装に身を包んだアレク様が立っていた。陽光に縁取られた姿は、まるで物語の中の王子のようだった。
王族の威厳をまといながらも、瞳にはいつもの柔らかさが宿っている。
「リシェル、すげー綺麗だ。準備はいいか?」
「はい。緊張していますけれど……」
「大丈夫だ。おまえが笑っていれば、それで式は完成する」
「……もう、そんなことを言って」
思わず笑うと、アレク様も肩の力を抜いたように微笑んだ。
背後で控えていたカイルさんが、手帳を閉じながらため息をつく。
「殿下、式前に見惚れるのはお控えください。進行が遅れます」
「ちょっとくらい許せよ。今日くらいは」
「……今日“も”、ですね」
吹き出した私に、アレク様が照れたように咳払いをした。
こうして笑い合える日が、こんなにも愛しい。あの暗闇の日々を思えば、今この光が奇跡のように感じられた。
扉の向こうから音楽が流れ出す。
王城の大広間。
祭壇には王と王妃、そして高官たちが並び、列席者の衣擦れの音が静かに響く。
光の中、アレク様がゆっくりと歩み寄ってくる。その瞳はまっすぐに、私だけを映していた。
「皆も証人になってほしい。……改めて言わせてくれ。俺は、おまえと共に生きたい」
その声を聞くだけで、胸が熱くなる。
どれだけの苦難を越えて、今この瞬間に立っているのだろう。
母国での婚約破棄の日――もう遠い昔に感じる冷たい石畳の上に落ちた涙を思い出す。
あの日の私に、この光景を見せてあげたい。
「……はい。アレク様。私も、あなたと共に歩みます」
言葉を交わした瞬間、大広間に柔らかな拍手が広がった。
花弁が風に舞い、光が降り注ぐ。
アレク様の唇が柔らかく笑み、取られた指先が微かに震えているのを感じた。
「……リシェル。おまえの自由を奪うつもりはない。ただ――」
彼は一瞬言葉を切り、微笑んだ。
「隣で笑う権利だけは、俺にくれ」
「もう、ずるい方ですね……そんな言い方をされたら」
頬が熱くなる。けれど、心は静かだった。
この人となら、笑っていける。そう確信できた。
列席者の中に、レティシア様の姿が見えた。
涙をこぼしながらも、どこか安堵の笑みを浮かべている。
その姿に、慌てたようにカイル様がハンカチを差し出した。
彼女が小さく会釈を返す。その一瞬、カイル様がわずかに微笑んだ。
――それだけで、きっと彼女も救われるのだと感じた。
誰もが、それぞれの痛みを越えて、新しい道を歩いている。
そう思うと、自然と涙があふれた。
やがて式が終わり、夜風が庭を撫でるころ。
披露の宴を抜け出し、バルコニーに出る。
アレク様が隣に立ち、少しだけ肩を寄せてくる。
「……あの日、おまえを失うかと思った。だから今日を迎えられたことが、まだ信じられない」
「私もです。けれど、あの日があったからこそ、今日があるのだと思います」
「リシェル」
名前を呼ばれて、胸がどくりと鳴る。
アレク様がゆっくりと私の頬に触れた。
その指先はあたたかく、目を閉じた瞬間、すべての音が遠のいていった。
唇が重なり、時間が静かに止まる。
互いの鼓動だけが、世界の中心になった。
やがて唇が離れると、アレク様が小さく笑った。
「これで、ようやく“婚約解消された公爵令嬢”じゃなくなるな」
「ええ。でも、あの時の“解消”があったから、私は自由になれたのですわ」
「自由?」
「ええ。心を縛りつけたものから解き放たれて、笑うことを覚えて、あなたの隣に居場所ができました」
アレク様が一瞬きょとんとした後、照れたように頭をかいた。
「リシェル。おまえが婚約を解消された日、俺は心の中で決めたんだ。誰にもおまえを傷つけさせないって。誘拐されたときも、助けに行けてよかった。」
「ふふ……まるで王子様みたいですわね」
「一応、王子なんだが?」
むっとした顔が可笑しくて、思わず笑ってしまう。
その笑い声が夜空に溶け、星が瞬く。
「婚約を解消されたら、自由と笑い声と……そして隣国の王子がついてきました。人生とは、不思議なものですわね」
「それ、俺のことか?」
「他に誰が?」
「なら、もう少し格好いい言い方にしてくれ」
「ふふ、十分格好いいですわよ。……私にとっては」
アレク様が照れくさそうに息をつき、空を見上げた。
その横顔に、灯りが優しく揺れる。
「この国を、おまえの笑顔で満たしてほしい。……それが俺の願いだ」
私はゆっくりとうなずき、彼の肩に頭を預けた。
花の香りが夜風に混ざり、遠くで音楽が響いている。もう恐れるものはなにもなかった。
あの日、すべてを失ったと思った少女は、こうして新しい国で、愛と笑い声に包まれながら、もう一度生まれ変わったのだ。
「――アレク様」
「ん?」
「これからも、一緒に笑ってくださいね」
「約束だ。……俺の自由で笑う姫君」
彼が静かに私を抱き寄せ、唇が触れ合った。
柔らかな夜風と星の光の中で、世界が静かに溶けていく。
夜空に、ふたりの笑い声が溶けていった。
星々が祝福するように光を瞬かせる中、私はそっと呟いた。
――ありがとう、すべての出会いに。
――ありがとう、過去の私に。
これが、私の物語の終わり。
そして、自由と笑い声と隣国の王子と共に歩む、新しい物語の始まりだった。
【完】
ここまで読んでくださった皆さま、本当にありがとうございました。
初めは三万字くらいの予定が、気づけばリシェルやアレクたちが勝手に動き出し、こんなに長い物語になっていました。
初めて書いた長編でしたので、途中、書くことに挫けそうになることもありましたが、お気に入りやいいねが本当に励みになりました。
ここまで支えてくださった皆さまに、改めて心から感謝を。
ありがとうございました。
またどこかの物語で、お会いできますように。
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