上 下
19 / 26

19 使い魔の暴走

しおりを挟む
 七三子は化粧を直した顔で対応した。
 すぐに校長の携帯に連絡し、その指示で消防と警察に連絡した。
 その間に、現場にはすぐに体育系の部活の顧問たちが来て、生徒たちを遠ざけてくれた。
 教頭と事務長、3年の学年主任、地歴科主任と主だったところに連絡した。連絡網ですぐに事態は周知された。
 女子生徒の通報から30分しないうちに校長、教頭、事務長がそろった。
 校長はすぐに病院に行ったが1時間足らずで帰ってくるなり、大きなため息をついた。

「いやあ、奥さんが可哀想でねえ。新婚だからねえ」

 教頭がマスコミ対応の相談を校長や事務長と始めた。
 その間にも電話が入り、七三子は応対に追われた。
 出張中以外の教職員は全員集まり、すぐに会議が始まった。途中から学園の理事長も入った。
 七三子は警察官に呼ばれ、応接室で学園の顧問弁護士立ち会いで前後の事情を訊かれた。途中で瀧山弁護士が入って来た。槇村から連絡があったらしい。
 警察の調べが大体終わった時には9時を過ぎていた。
 教職員の会議では、警察や消防の正式な発表があり次第、PTAと協議し、保護者への説明会をすること、月曜日には全校生徒に説明後、クラスの生徒のカウンセリングを行なうことも決まった。その準備のため、明日は日曜日だが全員出勤することに決まった。
 無論、外部には一切漏らさないようにという達しも出た。
 事務長は職員達にそろそろ帰ったほうがいいと言い、七三子も言葉に甘えることにした。
 事務長は七三子にだけ、明日は出勤しなくていいと小声で告げた。
 正門ではなく隣接する中学校の通用門から出た。その周辺にはマスコミ関係者はいなかった。
 すっと七三子のそばに車が寄って来た。

「鬼河原さん、乗ってください」

 開いた窓から声が聞こえた。瀧山弁護士だった。ハンドルを握っているのは若い女性だった。
 七三子は後ろの座席に乗った。

「さっきはありがとうございました」
「どういたしまして。お疲れさまです。ほとぼりが冷めるまでお住まいから離れた場所で過ごしたほうがよろしいかと」

 確かに七三子は最後に福田に会った人間として警察から話を訊かれている。重要参考人にされてもおかしくなかった。マスコミに目を付けられる恐れはあった。

「お気遣いありがとうございます」
「警察関係は私が立ち会います。それ以外はこの高島にお任せください。高島はうちの事務所の職員です」
「鬼河原さん、遠慮せずに何でもおっしゃってくださいね」
「よろしくお願いします」

 車はマンションとは反対の方角に向かっていた。港の見えるホテルの地下駐車場に車は入った。七三子と高島はエレベーターから直接客室のあるフロアに上がった。高島は持っていたカードキーで部屋のドアを開けた。
 部屋はシングルかと思ったらスイートだった。マンションほど広くはないが、それでも七三子の住んでいたアパートの2階の部屋を全部足した面積より広かった。大きな窓からは港が一望できた。

「しばらくここに滞在することになりますので、広いお部屋を用意しました」
「いいんですか。その、費用とか」
「御心配なく。槇村様から必要な経費はすでに頂いておりますので。夕食は後でルームサービスが持ってきます」

 至れり尽くせりだった。こんな立派な部屋に滞在するというのは申し訳ない気がした。
 不意にドアチャイムが鳴った。夕食が来たのかと思っていると、瀧山弁護士だった。
 瀧山は警察の関係者から聞いたと前置きし、福田の件は事故として処理されるだろうと告げた。

「災難でしたね。蛇を捕まえようとして落雷に遭って窓から落下するとは不運な方だ。あなたは巻き込まれただけです。それにしても蛇の捕獲器があるなんて。学生時代に沖縄に行った時に見たことはありましたが」
「校舎に蔦が絡まっているので、蛇がよく出るものですから」
「ああ、なるほどね。蔦の絡まる校舎っていえばロマンティックですが、実際はそうでもないと」

 瀧山は軽い口調で言った。恐らく緊張している七三子の気持ちをほぐそうとしているのだろう。七三子は槇村の友人はいい人だと思った。類は友を呼ぶの伝で言えば、槇村もいい人ということになるのかもしれない。
 だが、今の七三子にはそう簡単に言い切れなかった。





 ルームサービスが食事を持ってきたのと入れ替わりに、瀧山と高島は部屋を辞した。何かあったらすぐに遠慮なく連絡を入れるようにと言って。
 食事は和食だった。温かいご飯、豆腐の味噌汁、青菜の漬物、焼きアジというホテルらしからぬメニューだった。恐らくこういう時は油の多い洋食を食べる気にはなるまいと瀧山か高島かが気を利かせてくれたのだろう。
 食欲はなかったが、口に入れた。生きている限り食べなければならない。
 なんとか全部胃に収めた。
 その後、大きなバスタブに湯を張り風呂に入った。身体を洗っている時に思い出した。自分は背中を打ったはずだった。だが、痛みはないし、バスルームの鏡で見てもそれらしい痣もない。
 あの後、福田にハンカチで口を押えられた記憶はある。だが、その後の記憶がない。気が付くと、目の前に槇村が立っていた。振り返ると、福田は失禁して気絶していた。
 福田に床に押さえつけられていたはずなのに、福田の前に立っていた。そのことに気付き、七三子はひどく心がざわめいた。記憶にない時間、自分は何をしていたのだろうか。福田はどうしてあんな姿になっていたのだろう。槇村の仕業にしては、少しやり過ぎではないか。
 何よりわからないのは、七三子が教室を出た後、槇村は福田に何をしたのかということである。
 福田は校舎の下で倒れているのを発見された。蛇を捕まえようとして落雷を受け、衝撃で窓から落下したということだった。槇村はもしや福田の息の根を止めてしまったのか。
 だとしたらなんと残忍なことであろう。確かに、福田は七三子を殺害しようとした。中里ちづえも殺したと言っていた。だからといって窓から落とすなどひど過ぎではないか。
 風呂から出た後、七三子は携帯のメールを確認した。槇村からのメールはない。
 マレーシアだから時差は大きくあるまい。七三子は思い切って槇村のスマホに電話しようとした。

「失礼いたします」

 突然の声に七三子は携帯から顔を上げた。灰色のケープの伯爵夫人だった。一体どこから入って来たのか。

「もしかしてずっといたとか」
「はい。こちらでお待ちしておりました。御主人様から、来客が帰り奥様が御用を済ませたら、お傍にお仕えするようにと命じられました」
 
 どうやら、伯爵夫人はフクロウの姿で部屋の片隅にいたらしい。

「それはご苦労様」
「早速ですが、御主人様から伝言がございます」
「伝言?」
「はい。御主人様自身が奥様に話すことを望んでおられましたが、今夜は出張先での予定があるために、あちらに戻られましたので」

 一体、槇村は何を伝えたいのか。福田にしたことも伝えてくれるのだろうか。七三子はソファから身を乗り出した。
 伯爵夫人は抑揚のない声で語り始めた。

「御主人様はまず奥様に謝りたいとのことです。福田の命を奪うつもりはなかったとのことです」

 七三子は少し安心した。何か手違いがあったのだ。

「御主人様は再起不能の怪我を負わせて長く苦しめるおつもりでした。そこで魔法で雷を落としました。死なぬ程度に加減をして」

 そんな魔法があるのかと七三子は少し怖くなった。

「そちらはうまくいきました。私も拝見していましたが、素晴らしい手際でございました。ひどいやけどを負わせているのに、心臓は動いておりましたから」

 そこまでの解説は聞きたくなかった。

「そのまま教室に福田を置いて、私たちは立ち去る予定でした。ですが、男爵が」
「男爵がいたの?」
「はい。奥様を守るために男爵は学校にいたのです。猫の姿だったため人間の若い雌に囲まれて身動きが取れず少し遅れて到着いたしましたので、奥様は顔を合わせられることはなかったかと」
 
 一体、男爵が何をしたというのか。

「男爵は奥様を苦しめた福田に対して怒っておりました。また、自分が遅れて来たことを責めていました。怒りと自責の念からでしょうか、男爵は福田を生かしてはおけぬと思ったようです。私たちが気付いた時はもう遅かったのです。物凄い速さで福田に近づき、その体を持ち上げ、窓から投げたのです」

 思わずひいっという声が出た。男爵が福田を落としたとは。

「それだけならまだしも、蛇の捕獲器を窓から福田に向けて投げました。あの先端は鋏になっていますから、それが心臓を直撃すればどうなるかは、おわかりかと存じます。動いていた心臓は破裂し、血が噴き出しました。雨の中、福田の死体の周囲の水たまりは真っ赤に染まっておりました」

 そんな情景描写は聞きたくなかった。七三子は胸が苦しくなってきた。 
 
『使い魔は使い魔と割り切らないと後悔することになる』

 槇村の言葉を思い出す。使い魔に情を掛け過ぎるなと槇村は言いたかったのだろう。情を掛ければ、使い魔の行為に衝撃を受けるということか。いや、掛けた情の重さを使い魔は感じて暴走するということではないか。男爵の暴走は自分のせいかもしれない。七三子は唇を噛んだ。私が福田を殺したようなものかもしれないと。

「御主人様はたいそうお怒りになり、男爵を猫の姿に戻して家に瞬間移動させました。私の目から見ても男爵は興奮しておりましたから、妥当なことだと思います。あのままであったら、他の人間にも危害を加えたかもしれません」
「男爵は家に一人なの」
「子爵が見張っております。興奮して外へ飛び出さぬように」

 それもあってのホテルへの移動だったのだ。

「奥様、御心配でしょうが大丈夫です。猫ですから。明日には落ち着きます」
  
 猫ですから。男爵は使い魔なのだ。主への忠誠心で動く魔物。人でもペットでもない。

「奥様。御主人様は仰せになりました。自分を責める必要はないと。結局は、福田は己の所業の報いを受けたのだと。遅かれ早かれこうなったのだと。もし生きていて、中里ちづえの件や結婚詐欺の件で裁判になったら、奥様は裁判所で証言をすることになるかもしれない。そうなったら、いつまでも福田のことを引きずる。だから、あそこで死んでよかったのだと」

 伯爵夫人の伝言の意味はわかる。けれど、それは七三子の都合である。福田の妻や腹の中の子はどうなるのか。アメリカには弟もいるのに。

「ありがとう、伯爵夫人」
「奥様、伝言の続きがございます」

 伯爵夫人の口調は相変わらず抑揚がない。下手な女優の棒読みのようだった。

「愛している。月曜の夜ここで会おう。会えなかった夜の数を忘れさせるほど愛し合おう」

 伯爵夫人は一礼し、部屋の隅の椅子に座ると刺繍を始めた。
 七三子はソファに全身を預けるように座った。
 槇村には福田を殺すつもりはなかった。その事実は七三子を安堵させた。
 けれど、まだわからないことがある。七三子が意識を失っていた間に、何があったのか。




しおりを挟む

処理中です...