照と二人の夫

三矢由巳

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五 夜這う男

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 角兵衛はその夜、父に呼ばれた。
 昼間の照と作田多米の話を両親は聞いてしまったのである。
 多米は平謝りで、あれは噂で本気で信じてはいないと言っていたものの、両親にとっては捨てておける話ではない。
 衆道は御家の御法度。家中ではその昔、一人の美少年をめぐるいざこざから刃傷事件、果ては大火災が起きたため、当時の殿様が衆道を禁じたのであった。
 噂が広まれば、いずれ家老や殿の耳にも入る。真実を確かめておく必要があった。場合によっては、息子に腹を切らせねばならぬと父親は激昂した。
 というわけで父の使いで照は角兵衛を村越塾から家に連れて来たのだった。角兵衛はやれやれ勘違いにもほどがあると笑っているが、家族にすれば笑いごとでは済まないのである。
 照は自室に下がった。
 兄は座敷で両親と話をしていたようだったが、一刻もせぬうちに照の部屋に顔を出した。

「心配はいらぬ。わしと清兵衛殿はただの学問を愛好する仲」
「ならば誤解を受けぬようになさいませ」
「ああ、そうする」

 そう言うと、夜も遅いからと兄は村越塾に帰らず自分の書物を置いている部屋に行ってしまったのだった。
 照は人騒がせなことだと思い、床に就いた。





 風が入った気配があって、照は目を覚ました。部屋に誰かいるような感じがした。
 わずか三畳、布団一枚と手文庫と小机しかない部屋である。真っ暗な中に息をする音が聞こえた。
 こんな貧しい家に物盗りであろうか。城下には豊かな家がいくらでもあるというのに。
 身じろぎもせず、気配を伺った。
 不意に掛けていた夜着がめくられて冷たい空気が襟首に触れた。ひっと息を漏らしてしまった。

「照様、お許しを」

 背後でささやく声は清兵衛だった。人をびっくりさせるのは面白いのかと、いつぞや言っていた言葉を返したいところだった。

「人を呼びますよ」

 返事はなかった。その代わりのように、襟足に息がかかった。
 まるでけだものが獲物を前にしたかのような荒い息だった。野蛮な男、照は石合戦の話を聞いた時のことを思い出していた。
 背後から両腕で腰ひものあたりを抱きしめられた。

「おやめください」
「申し訳ないがやめることはできません」

 その時になって照は自分の背中に密着している清兵衛の胸から腹が素肌であることに気付いた。
 尻に触れるのは昂ぶった一物だった。
 それとわかった途端、身体中がかあっと熱くなった。ゆもじの奥がうずくのがわかった。ずっと忘れていた感覚だった。それがみるみるうちに甦り、照は自分でも抑えがたい衝動を覚えた。
 けれど、それは許されない衝動だった。つい堕ちていきそうになる気持ちをなんとか抑え、自分の置かれている状況を確認する。
 腰ひもが解かれていくのがわかった。寝間着の前がはだけられ、ゆもじがめくられた。
 人を呼ぶどころか、声が出せなかった。こんなことがあっていいものだろうか。あの沢井清兵衛がこのような不埒な真似をするとは信じられなかった。
 夢、いや悪夢だった。清兵衛に限って、こんな野蛮なことができるはずがない。
 自分のことなどもう諦めたのではないか。
 それなのに、背後から照の乳房を鷲掴みにし、もう片方の手の指は両足の間をかき撫でて溢れんばかりの津液をさねに擦り付けている。その刺激の強さに照は声を抑えられなかった。
 襖一つ隔てた両親の部屋に聞こえるかもしれないのに。

「い、いや、やめて」

 清兵衛の柔かい唇が照のかさついた唇を不意にふさいだ。こんな時は鼻で息をするのだったと思い出した。孫右衛門が教えてくれた。
 鼻で息をしながら、清兵衛の舌が自分の舌に触れるのを感じた。孫右衛門とは違いおずおずと何かを確かめるようなためらうような動きだった。
 恐らく、あまり経験がないのであろう。それが証拠に姿勢を変えた後は乳房を掴む手も、さねを弄る指も止まっている。
 孫右衛門ならば、手と口、時には足までも同時に違う動きができた。
 清兵衛は慣れないゆえに口に気を取られていて他のことができぬらしい。
 剣を扱う時は左手を巧みに使うというのに、それもまったく動いていない。
 そうわかった瞬間、照の胸に熱いものがこみ上げてきた。
 清兵衛はやむにやまれぬ気持ちでここに来たのだろう。自分を門まで背後から見守った時に手を握って以降、ずっと清兵衛は照に触れたかったのではないか。その気持ちを抑えかねて夜の闇に忍んで、照の床に入ってきたのかもしれない。
 八月も終わりに近く夜は冷えてきたというのに、素肌になって照を抱き締めるなど、とても大番頭になったような男のすることではない。狂気の沙汰としか思えない野蛮なことをせねばならぬほど、清兵衛は己の愛欲に追い込まれていたのか。
 それほどの欲望を向けられていることに照の身体だけでなく心までもが熱くなってきた。
 この欲望に応えたい衝動が照の中で膨らんでゆく。けれど、いったん嫁して戻って来た身にそれが許されるものなのか。
 清兵衛が先に息苦しくなったらしく唇を離した。腕の力が緩んだ。照は清兵衛を見つめた。
 暗闇の中でわずかに白い歯が見えたように思えた。

「あなたが欲しかった、嫁に行く前から」

 息を整えた清兵衛の口から洩れた声に照は息が止まるほど驚いた。縁談が決まった後訪ねて来た前髪をおろしたばかりの姿を思い出した。あの時、彼は自分を欲していたというのか。

「江戸でもずっとあなたのことを思っていた。国に帰ってからもずっと」

 馬鹿だ。愚かだ。照は思った。十年以上も一人の女を思い続けるなんて。
 けれど、自分も同じではないか。彼の気持ちの熱さに気付かなかったのだから。ただの世間知らずの男の気まぐれ、同情のようなものだと思い、相手にしようとしなかったのだから。
 同時に、自分の中の衝動を許そうと思った。欲しいならいくらでもあげたかったし、照もまた欲しかった。

「わたくしも欲しい」
「ああ」

 清兵衛は照を強くかき抱いた。野蛮でどうしようもないくらい不器用な手の動きが照には愛おしかった。
 すでに昂ぶった一物の湿った先端が腹に触れた。
 もしかすると、清兵衛はどこに入れていいかわからないのかもしれない。照は一物に手を伸ばした。触れた瞬間、ぴくりとはねたように感じた。

「照様」

 このようなうわずった声など、照は聞いたことがなかった。

「大丈夫です、仰向けになって」

 照はそう言うと身を起こし、清兵衛の腰の上に跨った。清兵衛の息が荒くなったのがわかった。
 清兵衛の天を突く一物の先端を撫でてみた。暗いので比較はできないが、そう差のあるものでもあるまいと先端をほとの入口に宛てた。

「うっ」

 思わず声が出てしまった。絶えて久しい感覚だった。

「照様」

 不安げな声だった。

「久しぶりで。大丈夫です。わたくしが動きます」

 照は昂ぶる心を抑えながら、一物を腰に沈めていった。

「あ、あっ」

 もう取り返しがつかない。けれど、後悔はなかった。

「えっ」

 明らかに孫右衛門とは違った。深く沈んだそれは照の中のうつろをすべて満たした。
 清兵衛の息が苦し気だった。

「照さま、きつい」
「あなたさまが、大きいのです」

 照はゆっくりと腰を持ち上げた。孫右衛門とはまた違う感触だった。密着する内側がこすられる痛みがあった。やっとの思いで引き上げ、腰を落とした。奥に先端が当たって思わず声が出た。

「ふぁあん」

 変な声だと自分でも思ったが止められなかった。

「照様、大丈夫ですか」
「はい」

 本当は大丈夫ではない。けれど、心で身体を励ました。
 幾度か腰を上下するうちに、清兵衛がうっと息を吐いた。

「照」

 中で爆ぜたらしい。照はゆっくりと身体を離した。ほとから清兵衛の放った精がこぼれるのがわかった。
 布団を汚したくなかったが、拭くものがない。
 すると、清兵衛がさっと紙をほとにあてた。

「懐紙を持ってきました」

 変なところで気が利く人だと思った。照が自分で拭こうとすると、清兵衛が先に紙を掴んで拭いた。
 また刺激を受けて照の中が溢れた。

「照様、お許しください」

 拭き終わらぬうちに、布団の上に仰向けにされて押さえつけられていた。

「今度はじっとしていて」

 熱を帯びたような声が耳朶を打った。照は胸の高鳴りに震えた。
 すぐに上から貫かれた。ぬかるんだ中で清兵衛の一物が音を立てて抜き挿しされた。質量と速度に圧倒され、照は声を抑えきれなかった。その声を唇が塞いだ。
 上と下の口を同時に蹂躙されながら、照は歓びがこみ上げるのを感じた。
 それは孫右衛門に教えられ知った歓びと似ていたが、違っていた。自らが選び取った歓びだった。
 歓びの源は照の中にあり、そこを突かれるたびに照は身をよじらせた。

「照様、いとしい」

 口を離した清兵衛に囁かれた途端に背筋を駆け抜ける歓びが照を震わせていた。

「清兵衛様、わたくしも」

 言い終わらぬうちに、目がくらんだ。大き過ぎる刺激を受け止める身体に頭がついていかなかった。身体は歓びを受け止めるために動くのに、その歓びが大き過ぎて頭も目も耳も働かないのだ。
 孫右衛門に教えられた歓びが十とすれば、百とも千とも思えるものが身体を満たしていく。
 満たされてあふれた歓びが口から洩れていく。

「ああっ、いい、いいの、はあああっ、どうして、いやあ、もう、もっ、だめぇえええ」

 清兵衛の口もそれを抑えることができなかった。

「照様、声が、おっきいい」

 照の耳には何も聞こえなかった。ただ清兵衛とこの世に二人だけでつながっている、それが照のすべてだった。





 気が付くと、夜は明け初めていた。床の中で二人素肌のまま寄り添っていることに気付き、照は初めて昨夜の痴態を恥ずかしく思った。
 あれから幾度交わったことか。そのたびに全身をおののかせ、声を上げた。目が腫れぼったいのは泣いたせいもあるかもしれない。
 それに事の間、無口な孫右衛門と違い、清兵衛はやたら言葉をかけるのだ。いとしい、かわいいはまだ序の口で、照の身体をあちこち褒めそやすのには参った。囁き一つ思い出すだけで、身体が震えた。
 襖の向こうにいる家族には恐らく筒抜けだっただろう。
 清兵衛を早く帰さねば、恥ずかしい思いをさせることになると、照は耳元で囁いた。

「清兵衛様、起きてください」

 ぱっちりと目を開いた清兵衛は照を見つめた。照は思わず目を伏せていた。こんなにも美しい人と昨夜したことを思い出すと恥ずかしい。

「照様、おはようございます」

 普通の声量だったので、照は慌てた。

「声が」
「そろそろ夜が明けるようですね」

 起き上がった清兵衛の素肌がまぶしくて照は顔が上げられなかった。
 清兵衛は床の横に脱いでおいた褌を身に着けた。

「照様、起き上がれますか」

 言われて身体を動かそうとして、腰の痛みに気付いた。

「無理をさせて申し訳ありません」

 いたわるように照を見つめ清兵衛は夜着をそっとかけた。

「しばらく休んだほうがいい。それがしは仕事があるので」

 清兵衛は畳んでおいた衣服をすべて着てしまうと、照のそばに座った。

「心配はいりません。ゆっくり休んで」

 温かい声に照は目を閉じた。眠かった。
 清兵衛は照が眠ったのを確認すると、部屋を出て座敷に向かった。
 照は知らない。
 昨夜、照が自室にいる間に沢井清兵衛が家を訪れ、両親と角兵衛と話をしていることを。
 清兵衛は照とのことで角兵衛にあれこれ相談に乗ってもらっていたのだと事情を説明した。
 照との縁組の許しをもらいたいと言うと角兵衛はもちろんのこと、両親も異議を唱えなかった。それどころか、照を頼むと言われて、寝所に入ることを許された。
 家族公認の夜這いだった。
 香田角では昔はよくそういうことがあった。さすがに時代が変わり、少なくなったが、まったくなくなったということもないのだった。
 もっとも、両親の寝る部屋の隣であられもない声を一晩中娘が上げるようなことになるとは小田切夫妻も思ってもいなかったようであったが。





 次に照が目を開けた時、障子を通して淡い光が部屋に差し込んでいた。
 完全に寝過ごしていた。痛む身体に鞭打つように起き上がり、着衣を整えた。乱れた髪をなんとか整え、台所に行くと母がいた。

「申し訳ありません、寝過ごしました」

 裏の畑で取ってきた青菜を井戸水をためたもので母が洗っていた。いつもは照の仕事である。

「母上、いたします」

 駆け寄る娘に母は微笑んで、一気に言った。

「あなたが嫁に行ったら、わたくしがしなければなりませんからね。それから祝言の日取りですけれど来月の半ばに決まりました」
「祝言て」

 先走り過ぎだと照は思った。

「沢井様とも相談したら来月の末は紅葉の宴があるから、その前がいいと」
「母上」

 照は全身から力が抜けていくのを感じた。
 清兵衛はすでに両親と話をつけていたらしい。

「清兵衛様がおっしゃってましたよ。祝言を挙げたら屋敷の離れで暮らすと。それなら少々母屋が騒がしくても静かで結構ですものね」

 本当は逆だろう。少々離れが騒がしくても、母屋には聞こえないというのが正しい。
 照は耳まで真っ赤になっていた。

「今度は帰って来てはなりませんよ」





 嫁入り支度は時間もないので特に不要と沢井家から話があった。
 けれど長兄はそれでは可哀想だと言う。角兵衛はそれなら兄上が支度をと言うと、長兄は黙ってしまった。
 照はないものはないのだから仕方ないと思っている。
 けれど、やはり心のどこかでは売ってしまった道具があればとも思った。長兄に言わせると、離縁でけちがついてしまったのだから、古い道具はよくないということらしいが。
 九月に入ってすぐに道具屋がやって来た。以前、嫁入り道具を売った店である。
 道具屋の主人は、あの道具は売れなかったので、全部御返ししますと言った。
 それなら受け取った代金を返却すると言うと、それは結構ですと言う。よくよく聞いてみると、代金をきっちり全部払って道具を小田切家に戻すように頼んだ者があると言う。
 道具屋の主人は誰が代金を払ったのかは言えないと言ったが、照の頭にはそんなことをする人間は一人しか思い浮かばなかった。
 翌日、照は宇留部家の門を叩いた。五年ぶりである。
 出て来たのは孫右衛門の妻だった。慎ましい装いの妻の姿に照は自分の五年前を思い出した。もっとも今の照の着物はそれ以上に地味な藍染の麻の単衣だったが。

「宇留部はまだ勤めから戻りません」

 すでに城の退勤を知らせる太鼓の音がしてから半刻近い。帰りが遅いのはあの頃と同じだった。

「照さん、まあ、上がりなさいな」

 その声は姑だった。奥から出て来た姿は一回り小さくなったように見えたが、微笑む顔は以前と変わっていない。

「お茶をわたくしの部屋へ」
「お母様、白湯でないと旦那様に怒られます」

 宇留部の妻は客人に聞こえぬようにささやいたつもりのようだが、照には聞こえていた。相変わらずのケチな生活のようだった。

「いいから。それから饅頭も」

 姑は相変わらずだった。 
 照は姑の住む離れに通された。舅は四年前に江戸から戻ってすぐに病を得て亡くなっている。その後、家督を継いだ孫右衛門は勘定方に入った。
 姑は照の結婚を知っていたようで、すぐにお祝いを述べた。
 礼を言った後で照は、道具屋の話をした。姑はうなずいた。

「たぶん孫右衛門でしょう。この前、蓄えていた銀を数えておりましたからね」

 やはりそうだった。それにしても銀の蓄えがよくこの家にあったものだ。舅が江戸詰めで相応の手当てがあり、あれだけケチケチした生活を長年していたからたまっていたのかもしれない。

「まさか代金を返そうなどと思ってはいませんよね。それだけはよしてくださいね。大体、孫右衛門はあなたがここを出て行く時、嫁入り道具も着物も持参金も全部そのまま返していますけれど、あれはあなたが小田切から持って来たもの。あなたがこの家に尽くしてくれた分はもっとあるのに、あなたにはその分を何一つ返せなかった。孫右衛門にしてみれば、罪滅ぼしのつもりなのです。黙って、道具を受け取ってください。そして後は捨てるなり売るなりしてくださればよいのです」

 姑はそう言うと饅頭を口に入れた。

「おいしいわ。あなたとこっそり食べるお菓子はおいしかったわねえ。お茶も飲めたし」
「孫右衛門様には罪はないのに」

 誰も悪くはなかったのだ。孫右衛門は父と母の間で揺れていた。舅は家のことを思い、姑は嫁のことを思ってくれた。照は迷う孫右衛門を見ていることができなかった。

「いいえ、悪いのは孫右衛門です。あなたの強い心に甘えてしまったのだから。あなたにいて欲しかったのなら、離縁状など書かなければよかったのです。それなのに、あなたが言ったからと離縁状を書くとは。情けない息子で本当にごめんなさいね」

 自分は強くはなかったと照は思っている。ただ、迷う孫右衛門を見るのが辛かっただけである。本当に強いのだったら、孫右衛門の迷いをそのまま受け止め、どんな結果を彼が出そうとも許せたはずである。
 けれど、もう過ぎてしまったことである。ここでどう言ったところで過去は変わらない。

「いいえ、わたくしこそ」

 そう言いかけた時、聞き慣れていた足音が近づき、障子戸が静かに開かれた。
 孫右衛門は照を見ると、一礼した。照も頭を下げた。
 顔を上げて見ると、少し髪に白いものが交じって顔が丸くなったように見えた。
 母親の横に座った孫右衛門は言った。

「沢井様との縁組、おめでとうございます」

 硬い声だった。他人行儀。そう、もう二人は他人になったのだ。

「かたじけのうございます。道具のことでお礼を申し上げたく」
「当家にあったものが見ず知らずの家で使われるのはいささか不愉快なれば」

 孫右衛門はそれだけ言って立ち上がろうとした。

「孫右衛門、他に言うことはないのか」

 母親は袴の裾を押さえた。
 孫右衛門はしばらく黙って考え込んでいた。照はこんな顔をよくしていたと思い出した。決して弁が立つ男ではなかった。

「幾久しくお幸せに」

 この言葉だけで照には十分だった。孫右衛門はそういう人だった。
 母親は不満げな様子だった。

「ほんにそなたは言葉もケチじゃ」

 笑いたくなったが、照は堪えた。孫右衛門は静かにほほ笑んだ。五年前にはなかった表情だった。恐らく今の妻がこの表情を引き出したのだろう。照は別れてよかったと初めて心から思えた。





 暗くなってきたのでお暇しますと言うと、孫右衛門は玄関から門まで照を送った。
 それまで何も言わなかった孫右衛門は門を出る照に言った。

「沢井殿が待っている」

 照は孫右衛門の視線の先を見た。宇留部家の向かい側の屋敷の白い塀の前に提灯を持った沢井清兵衛がいた。
 清兵衛は孫右衛門に会釈した。孫右衛門は頭を深々と下げた。
 門を出た照は振り返らず清兵衛の元へ歩いた。清兵衛は何も言わず微笑んだ。照は歩き始めた清兵衛の後ろについて歩いた。二人の影が重なって遠ざかっていくのを孫右衛門は見つめていたが、やがて子どもの泣き声に気付くと門の中へ入って行った。





 それから十日余り後、祝言がとり行われた。
 沢井家には多くの祝儀の品が届いた。その中でひときわ目立つのは殿からの酒樽だった。
 宴が始まると真っ先に鏡開きとなり、来客たちに振る舞われた。
 なぜか招きもされぬのに、大番組の者達も沢井家にやってきて酒を飲んだ。
 後で聞くと、大番組では仲間が祝言を挙げると、勝手に宴の場所に行き酒を飲むのだと言う。無論、清兵衛はそうなることを予期して盃や肴を用意していた。
 彼らはこの縁の末永からんことを祈って盃をあおった。
 あたりに漂う酒の香りが、これは夢ではないのだと照に教えていた。
 大番組の者だけでなく、兄達や父もまた酒を酌み交わしていた。閉門の夜以来、見たことのない晴れ晴れとした表情だった。
 照は己の幸せ以上に、小田切家もまた許されたのだと実感していた。
 享保三年戊戌つちのえいぬの年の秋のことであった。




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