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霧の中へ

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 そろそろ限界かもしれない。カロリーネは感じていた。だが焦ってここで手出しすれば相手の思うつぼだった。ぎりぎりまで引きつけて。
 じっと見つめるカロリーネはウェンビューのごくわずかな姿勢の変化に気付いた。右足が震えている。彼自身も気付いたのか、姿勢を正そうと足に少しだけ意識が向いた。
 今しかない。
 カロリーネの身体は自然に動いていた。何の迷いもなく、左の肩から右へ勢いよく斬りつけた。
 声も出さずに、ウェンビューの身体はその場に崩れ、傷から血が噴き出した。
 痙攣する身体を見下ろしたカロリーネにはウェンビューの見開かれた目がなぜだと問いかけているように見えた。

「あなたの故郷から来た留学生に教わったの。一撃必殺の剣を。ちゃんとお小遣いはあげたわよ。十七、八年くらいしか練習してないけどね。思い出した。あなた、内戦で足を負傷して退役したのよね。アレックスが前に言ってた。それで足が震えてたのね」

 カロリーネはまだ息のあるウェンビューを楽にしてやろうと思った。美しい切子のグラスやおいしいお茶のお礼のつもりだった。だが、やめた。
 神父が銃を右手に十字架を左手に持って近づいて来たのだ。

「吸血鬼め、本性を現したな」

 彼は十字架をカロリーネに向かってかざした。

「吸血鬼よ、聖なる力にひれ伏すがいい!」

 カロリーネはクククと笑った。

「ひれ伏せですって!」
「お前たちは神の摂理に反する者、この十字架の前では力が出ぬはず」

 確かに、今カロリーネの魔力は弱まっている。だが、それは十字架のせいではない。
 神父は十字架の先端をカロリーネに向けた。その先端はまるで武器のように尖っていた。

「死ね!」

 カロリーネは自分に向かって飛んで来た十字架を胸に当たる直前で掴んだ。神父は信じられないものを見るかのようにそれを見つめた。

「馬鹿な! ありえん! 十字架をなぜ……。掴めるはずがない」
「言葉は武器だと、ある人が私に教えてくれた」

 カロリーネは十字架を左手で大きく掲げた。

「これは単なる文字。ジルパンの言葉では数の10を表すもの。あなた達はこれは神の御子が罪を贖ったものだとか言うけれど、この国ではただの数を表すもの」

 カロリーネは笑った。そして先ほど倒した男を見下ろした。

「ウェンビューさん、あなたが教えてくれたのよね。切子の入っていた木箱の蓋に描かれたあなたの仕える主君の家の紋章の意味を。教会とは全く関係ないって。丸に十の字を書いたものだと。十はジルパンでは10の意味。だからその意味を知る私には十字架は無意味なの。しかもここはジルパン。ミャーロッパではない。神父さん、あなたが後生大事にしてる神との契約書にも書いてるでしょ。初めに言葉ありと。だから、言葉を知ること、それが世界を知ることになる。この世界は言葉でできている。十字架はここでは単なる数字の十。私たちを苦しめるものではない」

 そう言うとカロリーネは十字架に口づけた。

「十に口で叶う。これで私の願いは叶う」
「こ、言葉とは、神の御言葉のことだ。なんという冒涜を」

 神父は怒りに震えていた。

「ありがとう。神の摂理に反する私たちには冒涜はお褒めの言葉だわ」

 カロリーネは十字架を後方に投げ捨て嗤った。神父にはそれはまさしく大淫婦の笑みに見えた。
 
「許せん!」

 神父は拳銃をカロリーネに向けた。銀の弾丸を撃ち込まねばならぬと。 
 カロリーネは血にまみれた刀を振り上げた。このまま拳銃ごと一刀のもとに斬り捨てようと思った、その時だった。
 上がった腕が下がらない。動けない。
 カロリーネは魔力がほぼ尽きたのだと悟った。
 このまま銀の弾丸を撃ち込まれ、灰になるのだと思った。アランのように。
 そうなったら、ここにいるカールも、難を逃れたトラヴィス、テレーズ、ドロレス、それにインガレスで待つマリイやルイーズも灰になる。
 嫌だ。一緒に旅をしてきた使い魔たちまで道連れにしたくない。



 人形のように動きが止まってしまったカロリーネを見て、神父は思った。これは神を冒涜した罰だと。神が自分に味方したのだと。
 いよいよこの時が来た。神父は興奮で震える手で照準を女吸血鬼の左胸に合わせた。
 先ほどは男に邪魔されたが、皆今は沈黙している。ヴィダルと名乗った使い魔は痙攣を続けているし、猪武者のようなジルパンの男は口ほどにもなく女に斬られた。さっき邪魔した男もと思い、倒れた場所を見た神父はぎょっとして後ずさった。
 ありえない! なぜだ!
 神父は見た。
 カロリーネの後方で、土気色の顔をして立ち上がった男を。彼の手には銀色のナイフが握られていた。

「やらせ、て、たまるか」

 幾三郎本人にも信じられなかった。上別府が斬られた時、なんとかカールのそばにあった銀のナイフを取った。その後、神父とやりとりしていたカロリーネの投げた十字架が目の前の床に刺さった。幾三郎はそれを手がかりにして立ち上がったのだ。不可能などとは考えなかった。ただ本能のままに身体が動いてた。
 ぼんやりとした視界の中、カロリーネの動きが止まっていた。その向こうには拳銃を構えた神父。幾三郎にはやるべきことがわかった。
 右足を一歩動かす。痛みは感じなかった。左足を動かす。息がなんだか苦しい。それでも右足を出す。

「なんだ、おまえは!」

 ベルナール神父は恐怖を感じていた。死んではいないが、銃で撃たれた人間がこんなに動けるわけはなかった。まだ右肩から血が流れているのだ。輸血などないこの時代、このまま血が止まらなければ死んでしまうというのに。
 動けない吸血鬼は怖くないが、動ける人間は恐ろしかった。慌ててベルナールは幾三郎に銃口を向けた。
 だが、手が震え照準が定まらない。ベルナールは慌てた。

「く、く、来るな!」

 冷静に考えれば動けないカロリーネを先に撃てばいいのに、彼は完全に恐慌状態に陥っていた。
 幾三郎は負傷していない左手に銀のナイフを持ちカロリーネとベルナールの間にようやく立った。
 動けないカロリーネであったが、視覚は働いていた。幾三郎が目の前にいる。まるでベルナールからカロリーネをかばうように。
 いけない。このままでは幾三郎は神父に殺される。幾三郎がここで死んでしまったら、彼の妻に申し訳が立たない。決してここで死なせてはならぬ。それはカロリーネの意地だった。
 力が欲しい。
 これほど心から魔力が欲しいと思ったことはなかった。

『差し上げます、私の力を』

 カールの声が聞こえたような気がした。
 カロリーネは右足を前に出した。動いた。
 動ける。まだ、動ける。カロリーネは左手で幾三郎の背中を思い切り、横に押した。
 まさか背後からカロリーネに押されるとは思わず、幾三郎はよろけた。その拍子にナイフは手から離れ床に落ちた。続けて幾三郎も倒れた。
 ベルナールは引き金を引くのは今だと思った。
 だが、拳銃が発射されることはなかった。ベルナールの脳は拳銃の引き金を引くように右手に指令を出したが、指令が指の神経に届く前にすっぱりと腕と一緒に断たれたのだ。

「Wooooo!」

 猛獣のような呻き声が響いた。右腕の肘から下は拳銃をつかんだまま、絨毯の上に落ちていた。切断された箇所からは血があふれ流れた。血だまりを見たベルナールは失神し、その場に仰向けに昏倒した。
 カロリーネは神父の身体を見下ろしていたが、息を整えると、ゆっくりと幾三郎の傍に歩み寄った。
 周囲の世界が回転していたが、それでも足を前に進めた。

「幾三郎、私の幾三郎」

 幾三郎のうつ伏せになった頭に声を掛けながら、その場に座り込んだ。足に力が入らない。

「カロ、リーネ」

 かすかに声が聞こえた。

「私は、ここです」

 カロリーネの囁きに答えたのは呻き声だった。
 じっとしていればよかったものを、力を振り絞って動いたため出血はいまだ止まっていない。その匂いがカロリーネの吸血の本能を揺さぶる。けれど、それはしてはならぬことだった。もしここで幾三郎の血を吸ったら、その味と今のカロリーネの状態からして理性を働かせることなどできないだろう。幾三郎の命を奪ってしまったら、彼は死ぬことのできぬ吸血鬼となってしまう。家族から夫であり父である幾三郎を奪うわけにはいかない。
 背後でも呻き声が聞こえた。声のした方向を見ると、大きな真っ白な犬が肩から血を流して、苦し気に息をしていた。

「カール!」

 カロリーネは這うようにしてカールに近づいた。
 カロリーネに自分に残った魔力を与えるために人の姿を保てなくなってしまったカール。
 カールの目はカロリーネの姿をじっと見つめていた。

「カール、あなたをこんな目に遭わせるつもりはなかったのに……。なんてこと」

 カールの潤んだ目はまるで何もかも包みこむような慈愛に満ち溢れていた。カールの魂は犬という衣をまとっているだけで、人の形をとっている時と変わらぬ光を放っていた。
 治癒の魔術が使えれば、こんな傷を治すことなど他愛もないことなのに。カロリーネは血が欲しかった。けれどここに倒れている男達の血を吸えば歯止めが効かなくなることは目に見えていた。その結果、血を吸い尽くされた者は死んだら吸血鬼となる。神父は神の摂理に従ってもらえばいい。裏切者のウェンビューを仲間にするのは御免だった。
 だからといって幾三郎の血も吸えない。彼の妻の元に生きて返さねばならぬのだ。もっとも、今の状態では妻に生きて会えるかどうかわからないが。
 彼は死を願っていた。このままでは彼の願いは成就してしまう。だが、カロリーネは死を望んでいない。
 かつてアルベルト・ゼーマンは病を神の定めと決め死を受け入れた。幾三郎は今の自分の状況を受け入れ死を望むかもしれない。だが、彼はゼーマンと違いカロリーネと会わなければ今の状況に陥ることはなかった。カロリーネに責任があると言っていい。
 責めを負って死ぬことができたなら。幾三郎と浄瑠璃のように「心中」できたなら。わずかに思ったその考えに背筋が寒くなった。身勝手過ぎる。目の前のカールも道連れにするというのか。
 今、カロリーネは瀬戸際にいた。
 血を吸って魔力を回復し、カールを助けるか。それともこのまま血を吸わずにカールを見殺しにするのか。いや吸血せずにカロリーネが息絶えたらカールだけでなくドロレスもテレーズもトラヴィスもマリイもルイーズも灰になる。
 幾三郎はどうなるのか。血を吸えば彼もカロリーネと同族になるが、人として生きることはできない。官吏としてこの国の未来に貢献できない。家族から夫、父を奪うことにもなる。
 血を吸わなかったら、彼はどうなるのか。出血が止まらなければ助かるまい。ずいぶん前にインガレスの医者が弛緩出血の産婦に夫の血液を輸血したと聞いているが、成功率は低かったらしい。
 どのみち、幾三郎が生きられる確率は高くない。
 カロリーネはカールと幾三郎を代わる代わる見つめた。
 迷っている時間はない。





 カロリーネは決めた。
 ゆっくりと幾三郎の右肩の傷口に顔を近づけた。

「許して」

 カロリーネは幾三郎だけでなく見た事のない幾三郎の妻と子に告げた。
 かぐわしい血の匂いに理性は消えた。傷口に夢中でむしゃぶりついた。
 三日ぶりの人の生き血。それだけでも美味なのに、幾三郎の血は極上の旨味を持っていた。止まらなかった。
 彼女の顔に血色がもどるにつれ、幾三郎の身体から血の気が失せていった。



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