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第一章 悪童(元禄十一年~宝永二年)

06 剣術の修行

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 小ヶ田頼母は橋の上から両岸の子どもらに向かって朗々たる声で呼びかけた。

「やめよ。技芸の上達を願う七夕をめぐってそのような争いをするとは、見苦しいことこの上ない。川原の石投げで争うとはまるで幼子ではないか」

 そう言うと、笹竹をまず丑寅町、次に辰巳町の順に川に流させた。
 その後で双方の子らを橋の下に集めて頼母は言った。

「当道場の門人もこの中にいるようだな。何のための剣術か反省せよ。それぞれに言い分はあるかもしれぬが、石を投げ合い、あまつさえ年少の者まで巻き込むとは何事か。聞けば、かような諍いはここ数年続いておるようだな。だが、石合戦とは穏やかではない。人死にが出ることもあるのだからな」

 信之助はうなだれていた。丑寅の年長の少年も興奮が醒めたのか青い顔をしていた。
 頼母はそこである提案をした。
 八月一日、八朔はっさくの日に辰巳町と丑寅町からそれぞれの年代の代表を一人ずつ出して対抗試合を行なうと。
 七歳から十三歳まで一人ずつ七人出し、勝っても負けても恨まず、これで決着を付けるようにと。

「場所は、我が道場。未一つ時(午後一時頃)開始ということにする」

 午前中はお城で八朔の行事があり、小ヶ田頼母は午後にならねば道場に戻ることができないので、午後の開始となったのである。
 この提案に辰巳町も丑寅町も納得した。剣術の腕くらべなら堂々と争える。
 ただ小ヶ田道場ではなく大手町の井村道場に通う者もいるので他流になるのではないかと信之助が質問すると、それならば井村に掛け合ってやると頼母は言い、その日のうちに井村玄道も承知した。
 というわけで、怪我をした子どもを家に送り詫びた年長の者達はそれぞれ集まって各年齢の代表を決めたのだった。



 松之丞の左の二の腕は赤くなっただけで膏薬で手当ては十分だった。
 母の勢以は男の子にはよくあることと動じなかった。
 けれど、卯之助は不満だった。自分は松之丞よりも逃げ足が速かったから怪我をしなかったのだ。松之丞の後ろに自分がいれば松之丞は怪我をしなかったかもしれない。その上、あの時丑寅町の頭目が近づいた時、動けなかった。卑怯で臆病な自分が情なかった。
 夕刻、惣右衛門が城内の役所から帰って来ると、卯之助は玄関で足を洗うそばに来てかしこまった。
 珍しいことと惣右衛門が思っていると、卯之助はお帰りなさいませと言い、実はと切り出した。

「おそろしいてきに勝つには、いかにすればいいのでしょうか」

 惣右衛門はこれまでと違う質問にはっとした。

「何があった」

 卯之助は今朝の次第を話した。一日中、役所の中の仕事で外まわりのなかった惣右衛門は初めて聞く話に驚愕した。今時石合戦とは。

「わしがおくびょうだったばかりに松之丞を守れませんでした。もうしわけありません」

 頭を下げた卯之助に惣右衛門はうなった。これは扱いを間違うととんでもない方向に卯之助を動かすことになる。よくよく注意せねばなるまいと考えた。

「臆病というものは自分の中にある。それに勝つ手段ならある」
「まことですか」

 卯之助の目が輝いた。

「自分の心と身体を鍛えることだ。強くなれば自ずと弱く臆病な自分に勝てるようになる。弱い自分に勝てぬ者が他の者に勝てるはずがない」
「強くなりとうございます」

 卯之助も松之丞もまだ身体ができていないからと、道場に通わせていない。時々惣右衛門が素振りを教えるくらいである。惣右衛門自身は青年時代、小ヶ田道場で頼母の父から教えを受けていた。

「道場へ行くか」
「はい。行きとうございます。強くなってあやつをたおしたい」
「待て」

 惣右衛門ははやる卯之助をたしなめた。

「あやつというのはまだ元服もしておらぬ丑寅町の子どもであろう。同じ子どもに勝つことを目指していては強くなれぬぞ。めざすものが高くなければ技芸は上達しない」

 確かに父の言う通りだと卯之助は思った。

「それでは剣豪になります」

 大袈裟な目標だが、高いに越したことはなかった。

「そうか。それもよかろう」

 そう言った後、惣右衛門は付け加えた。

「剣のみでは人は偏る。論語も学ばねばな。村越先生の塾にも行くのだぞ」
「はい」

 惣右衛門は松之丞も一緒にやらねばなるまいと思った。卯之助を一人でやるわけにはいかない。



 そろそろ夕餉という時になって沢井信之助が小山勘助とともに岡部家を訪れた。
 沢井家の子息に玄関先で話を聞くわけにもいかず、惣右衛門は自室に通した。

「というわけで、お許しを願いたく」

 信之助の話を聞いた惣右衛門は腕組みをしていたが、やがてうなずいた。

「あいわかった。ちょうど小ヶ田先生の元にやろうと思っていたのだ」
「ありがとう存じます」

 二人は頭を下げた。
 二人が帰った後、惣右衛門は卯之助を呼んだ。卯之助は腹が減っていたが父からのお呼びでは仕方ないと惣右衛門の部屋に入った。

「八朔の対抗試合に出ろということだ。おまえの足腰は七歳の子らの中では抜きんでて丈夫だからと。陽石の上まで普通は登れぬ」

 卯之助は驚いた。素振りの稽古くらいしかしたことがないのに、いきなり試合とは。だができませんとは言いたくなかった。相手は丑寅町の子どもである。松之丞に石を当てた人間は丑寅の者だ。

「はい、やります」

 松之丞の仇は討つと卯之助は心に決めた。
 


 翌日、惣右衛門は仕事を早く終えた後、卯之助と松之丞を連れて戌亥町の小ヶ田道場を訪れた。
 門をくぐると、住み込みの門弟が先生は中庭においでですと告げた。
 その言葉に従い、中庭に行くと、小ヶ田頼母は素振りをしていた。
 流れるような足さばきと竹刀の動きに卯之助は目を見張った。松之丞の顔には恐怖の色が浮かんでいた。
 惣右衛門は二人の明らかな反応の違いに今さらながら驚いた。同じように育てているはずなのに。
 頼母は竹刀を下ろすと、身体ごと惣右衛門に向き直った。惣右衛門は頭を下げた。二人の子どももそれを真似た。

「御無沙汰申しておりました」」
「こちらこそ。その二人が岡部殿の御子息か」
「はい」

 紹介する前に卯之助が口を開いた。

「卯之助と申します。強くなりとうございます」
「松之丞と申します」

 小さな声が続いた。
 頼母は卯之助の顔を凝視した。卯之助は怖かったが、見つめ返した。頼母はわずかに頬を緩めた。

「よろしくお願いします」

 惣右衛門に続いて二人の子どもも言った。

「うむ。明日から来るがよい。初年者の組は朝四つ(午前9時頃)に始める。遅れぬようにな」

 という次第で、卯之助と松之丞はともに戌亥町の小ヶ田道場に通うことになった。
 幸いにも町内から初年者の組には五人すでに通っていたので、二人は彼らとともに道場に行くことができた。
 朝とはいえ、すでに暑くなってきた空気の中を道具と稽古着の入った袋を背負い袋竹刀(一本の竹を幾つかに割り、革を被せて筒状に縫い合わせ、保護したもの)を持って道場へ行く道はそれだけでも稽古のようだった。
 道場に着けば汗を拭く間もなく、稽古着に着替え、道場の拭き掃除をする。
 それが終わったら、黙想の後、道具を付けたまま、素振り。
 家であれば途中で休憩を入れることもできるが、全員そろっての素振りだからやめたくてもやめることができない。
 姿勢が悪かったり、遅れるとやり直しになり、体力のある卯之助もさすがに泣きたくなってきた。
 松之丞も幾度も注意されそのたびにやり直した。
 小さな格子戸しかない熱気の籠もる道場で半刻もそんなことをしていれば、ふらふらになる。
 小さい彼らの疲労を見越して休憩になると、皆道場の外に出た。外の廊下には、湯のみに水を入れたものと梅干しが用意されていた。

「いつもこうなのか」

 卯之助の問いに一月から通っている卯之吉はうなずいた。

「ああ。でもうちは井村道場より甘いらしい。あっちは年上の方たちと一緒で、教えるのは先生ではなく年長の方だそうだ」

 なんでも年長の者達の教え方は厳しく、竹刀で尻を叩かれることもあると言う。

「水ものめぬそうだ。それに道具も使えぬそうだ」

 そう言ったのは川合孝之進の弟の平三だった。彼が大手町にも関わらず井村道場に通っていないのは、そういうわけもありそうだった。
 この時代、まだ現在のような防具はなく、道具と呼ばれる顔を覆うだけの竹製の面や手袋を使うぐらいであった。
 直心影流の山田平左衛門光徳(後書き参照)が本格的に開発し、正徳年間(西暦1711~1715)にその息子の長沼四郎左衛門国郷が籠手を、宝暦一三年(西暦1763年)に中西派一刀流の中西忠蔵子武が現代の胴の原型になった胸当てを開発するのはまだ先の話だった、

「兄上様のおからだは治ったのか」
「白石村にまだおる」

 川合孝之進は体調が戻らず、一緒に帰って来ることができなかった。
 だが、あれからもう十日近くたっている。

「おわるいのだな。」

 卯之助はそれ以上のことは尋ねないほうがいいように思った。
 後半の稽古は卯之助と松之丞は素振り、他の者は切り返しや住み込みの弟子相手のかかり稽古であった。
 卯之助は早くかかり稽古がしたかった。でないと八朔の対抗試合で勝てない。 
 黙想の後、掃除をして稽古は昼前に終わった。
 他の少年達とともに辰巳町まで暑い中を歩くのが涼しく思えた。
 家の門をくぐるとそれまで黙っていた松之丞がその場にうずくまった。

「松之丞、どうした」

 卯之助の声を聞いて飛び出してきたのは下男の作造だった。作造は松之丞を抱き上げ家の中に運んだ。
 勢以が玄関先に顔を出した。その声はこの前の石合戦の時と違い、明らかに狼狽を示していた。

「松之丞」

 赤い顔の松之丞は母上と小さな声で言った。勢以は息子の額に手を当てた。熱かった。

「暑さで熱がおからだにこもったんでしょ」

 作造はそう言い、部屋まで運んだ。卯之助はそれを追いかけた。作造は部屋の障子戸を開け放し、松之丞を部屋の風通しのいい手前側に横たえた。
 勢以は湯呑に梅干しと水を入れたものを持って部屋に入って来た。
 卯之助の見ている前で勢以は松之丞の上半身を起こしてそれを飲ませた。
 ごくりと松之丞は飲んだ。

「母上、だいじょうぶです」
「母上、着ているものをゆるめるとよいそうです」

 卯之助はいつぞやの山伏の言葉を思い出した。
 勢以は息子の帯を緩め、襟もとを寛げた。

「楽になりました」

 松之丞はそう言って、卯之助を見た。
 卯之助はその顔にほっとした。



 その夜、勢以と惣右衛門が松之丞の道場通いの件で小さな言い争いをしたことを子どもらは知らなかった。
 翌朝、朝餉を終えた後、登城前に父は松之丞に言った。

「おまえは道場に行きたいのか、行きたくないのか」

 松之丞は何の躊躇もなく答えた。

「行きとうございます」
「稽古がつらいということはないか」
「つらいのは、みな同じです。卯之助だってつらいはずです」
「卯之助が行くから行くのか」
「いつぞや、父上はわしに卯之助をまもれとおおせでした。ですから卯之助が行くところにまいります」

 惣右衛門は思い出した。卯之助に養い子であることを告げたのと同じ頃、松之丞には卯之助を守れと言ったことを。ただし、そのことは勢以には話していない。
 松之丞が覚えていたことは嬉しかった。けれど、昨日のようなことがあった後では、父親として罪作りなことを言ってしまったとも思えた。
 だが、息子に今さらさようなことはしなくてよいとは言えない。むしろ、この先のほうが松之丞の役割は大きくなるだろう。

「そうか。ならば、それでよい。己の信じることを貫け」
「はい」

 松之丞はその日も休まず、道場に行った。





※山田平左衛門光徳(1639~1716)下野国出身。直心影流の祖。
十八歳の時に木刀による試合で怪我をし、その後剣術を一児中断していたが、三十二歳の時に高橋弾正左衛門の流派(直心正統流)が面、手袋をして怪我のないように稽古をするのを見て同流に入門し、四十六歳の時に免許を得た(貞享元年・1684年)。(『兵法伝記註解』より)
というわけで、すでに1600年代後半には防具を使っている流派もあったようですので、この話の中では面と手袋をして稽古しているということにしています。ご了承ください。


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