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第二章 初恋(正徳二年~正徳三年)

26 於三奪還(R15)

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 さて、守倉平太達が小助の死骸を発見した後のことである。
 その頃、於三は代官屋敷の奥座敷にいた。
 手ぬぐいの猿ぐつわは外されたものの、部屋の外には刀を持った見張りの侍がおり、外に出られる状態ではない。
 小助を殺した女はおかしな真似をすれば命はないよと言ったが、於三には言われなくともわかった。
 女は代官の部屋に入った。

「奥野様、土産を持って参りました」

 そう言うと、上座に座っていた中年男は不機嫌そうな顔をした。

「あれは何じゃ。やせっぽちな上に平たき顔。もしや香田角美人か」
「仰せの通りにございますが、なにやら曰くありげな娘で」

 女はにやりと笑った。奥野代官は女が笑う時は何かあるとわかっていたので、身を乗り出した。

「どういうことだ」
薩摩守さつまのかみ様の密偵が連れていたのです。ここ数日、この密偵は香田角領内をうろついていたようです」
「ほう。そういえば、あちらでは、何やら、御落胤の話があるそうだな」

 奥野は香田角の事情を耳にしていた。前の殿の最後の子どもが見つかり、御殿に引き取られたと。

「まこと、あのじじいもまだ子がおったとは」
「当代の方とは大違いの方でございましたからね」
「して、あの娘は何じゃ。落としだねというわけでもあるまい」
「それがよくわからないんですよ。密偵が偽手形まで使って関所を一緒に通り抜けるなんて、ただの小娘じゃないと思うんですけどね」
「だな。万が一偽手形と気付かれたら、かどわかしの罪にもなりかねぬ。さような危険を冒してまで、領外に連れて行くというのは何かあるな。りよ、おぬしはどう思う」
「あのなりは奉公人。言葉遣いからして武家でございますね。奉公先で不始末をして逃げたんでしょうね。盗みか男か」
「男というのはないだろう」
「わかりませんよ。なんたって、香田角ですからね。男だって似たような御面相。破れ鍋に綴蓋で」

 さんざんな言い様である。

「だが、子どもではないか」
「女は女でございますよ」

 そう言って、りよはにやりと笑った。

「奥野様、身体に聞けばわかりますよ。おぼこではないと申しておりましたから」
「なんと。あの顔と身体でか。さては見かけによらぬ床上手かもしれぬな」

 奥野の目が薄暗い中、妖しく光った。





 荒々しい足音は女のものではなかった。於三は身体をこわばらせた。

「下がっておれ」

 外で声がして、襖が開かれた。中年の男がそこにいた。羽織や袴の生地からしてそれなりの身分の人物のようである。
 背後には、自分を連れ去った人殺しの女が懐手をして立っていた。於三はその時初めて女が鉄漿をしておらず、髪を島田に結っていることに気付いた。着ている物もこの辺りの女のような木綿や麻ではなかった。
 男が言った。

「そなた、名は何と言う」

 於三は絶対に本当の名は言えないと思った。岡部の方たちに、新右衛門に迷惑がかかる。

「おみね」
「ほう、おみねか」

 男は座っている於三に顔を近づけた。中年男の油ぎった臭いがした。思わず顔をそむけた。

「そなた、おぼこではないそうだな」

 於三はその声に言い知れぬ恐ろしさを覚えた。

「こんな子どものような身体で男を知っておるとはな。大方、男で不始末をして出奔してきたのであろう」

 男は於三の顎の下に手をかけた。於三の背筋が冷たくなった。

「そういう悪戯な娘には罰を与えねばな」

 ろくな罰ではないことはわかった。
 男は於三の肩をぐいっと抱き寄せた。於三はもがいたが、それが男を刺激した。

「嫌がるのも今のうちよ」
「いやあああああ」

 於三の声が暗闇に吸い込まれていく。





「代官屋敷じゃ」

 平太は声を仲間に放った。

「於三は代官屋敷におる。奥だ」

 周囲に誰もいない寺の屋根の上にいるにも関わらず、その声は守倉衆に届いた。
 平太は代官屋敷に向かって家々の屋根の上を跳んだ。





 男は於三の着ている単衣をはいでいく。意外なほど白い肌で、女のりよが見ても、ぞくりとする色気があった。
 りよは不意に気配を感じた。
 どうやら、連中が来てくれたようだ。
 これでこの男の始末もできる。賊侵入のどさくさに紛れてしまえばわかるまい。殺したのは賊だということになるのだ。
 しかも香田角の守倉衆だから、彼らの行方など代官屋敷の警護の武士ごときに追えるわけはなかった。
 りよの上役は、代官奥野の様々な失態に手を焼いていた。けれど、奥野には幕閣との縁戚関係があったので、その失政を強く指摘できなかった。
 代官の支配地では不作にもかかわらず年貢の取り立ての厳しさに農民が他領に逃げ出し、田畑や森林が荒れ始めていた。手入れが行き届かなくなった山から猪が下りてきて残って頑張っている農民の耕す畑を荒らした。
 また、奥野は領民の娘でこれはという器量のよい者がいると、屋敷に奉公に上がらせ手籠めにした。中には祝言目前で犯され身投げをした娘もいた。
 心ある者がついにその惨状を江戸表に訴えた。
 それはりよの上役の目にとまり、ついに他の者達との協議の末、奥野の始末を決めたのだった。
 そこでりよに指示が下った。奥野の失政を詳細に調査した上で、奥野を油断させいかなる手段を用いても奥野を害せよと。
 代官所に賊が侵入した。その事実だけで奥野を代官の任から外すことができる。だが、上役は奥野殺害まで命じたのだ。
 りよは江戸からこの天領に入ると、まず周辺を調べた。
 隣の香田角山置領には守倉衆という忍びの集団がいることは仲間から聞いていた。戦国の世ならいざ知らずと思い、調べてみると思いのほか強力な集団だった。人数はさほど多くないが、個々の能力は高く、これは敵にまわしたくないと思った。
 一方、近隣の南九州の大藩にもいくつかの忍びの集団があり、それぞれが各地で大藩を支える活動をしていた。
 りよはこれらも利用してやろうと考え、奥野に近づいた。
 奥野が女好きなのを利用して、りよは宴席に芸妓として侍った。その夜、奥野はりよを閨に呼んだ。
 りよは実は自分はさる忍びから抜けて来たくノ一で、奥野様のために働きたいと話した。
 奥野は自分の失政が幕府の上層部に知られているらしいと気付いていたので、我が身を守るために、りよの申し出を受け入れた。
 りよは奥野を信頼させるため、周辺の所領の情報を集め、奥野に知らせた。時には領内の一揆の計画も伝えた。また一方では失政の詳細も調査した。
 その間、利用できるものはないかとあれこれ調べて、約四か月。
 ついに、香田角で面白い話を知った。
 守倉衆がなぜかある武家の子息を警護していたのである。何か裏があると調べるうちに、りよは小娘とその子息の関係を知った。薩摩守の密偵もまた彼らのことを調べていた。
 使えると思ったりよはこの数日、香田角に潜入し、守倉衆の警護する少年の正体を知った。さすがに城に潜入はしなかったが、小娘の動きが気になり見張っていると、なんと家を出て薩摩守の密偵と関所を越えてしまった。
 りよはそれを追い、彼らをいったん追い越した後、駕籠を借りて戻って小娘を密偵から奪い取ったのだった。
 この小娘を追って守倉衆も天領に入るとりよは予想していた。彼らは当然、小娘が代官屋敷にいると探り出しここへ来るに違いなかった。
 案の定だった。彼らの近付く音はりよの耳にも入って来た。
 今しも、腰巻一つになった娘の肌に唇を這わせる奥野は無防備そのものだった。
 娘はいや、離してと抗うが重い身体で押さえ込まれればどうにもならぬ。薄い胸の上にも男の厚い唇が吸いついた。

「いやあ」

 りよは少々嗜虐的な刺激を感じていた。小娘が中年男に嬲られる様というのは、そそるものだと思う。
 けれど、いつまでも見ているわけにはいかない。
 守倉衆の足音も聞こえてきた。さっさとここからおさらばだ。
 りよは投剣を袂から出すや、奥野の首に向けて投げた。
 声も出さずに奥野は頭を垂れた。首筋から血の糸が流れた。
 女の身では男とまともに組み合っては勝てぬ。りよの投剣術は百発百中だった。
 不意に重くなった身体と止まった舌の動きに於三はぎょっとした。
 りよは言った。

「危ないとこだったね。二度と大事なものから逃げるんじゃないよ、嬢ちゃん」

 於三はその声のした方向を見たが、そこにはもう誰もいなかった。
 あの女がまたも殺したのかと思っていると、突然、雨戸が外された。
 障子も蹴破られた。

「於三、大丈夫か」

 暗い中、龕灯がんどう提灯の灯りが一つだけ見えた。その光が近づいて於三を照らした。

「平太さん」

 声でわかった。

「於三、動くな。そいつをのかしてやるから」

 その声と同時に誰かか於三の上の奥野をどかせた。

「こいつ、死んでますぜ」
「この人殺されたんです、女の人に」
「こいつは、さっきの投剣と同じですな」
「捨てて逃げるとは、贅沢な奴だ」

 そう言うと助三は投剣を抜いた。今度、鍛冶屋にこれに似た形のものを作ってもらわねばなるまいと思ったのだ。小助を刺したものを取って来るのを忘れたのがつくづく勿体なかった。
 次第に周囲が騒がしくなった。代官所の警護が気付いたらしい。
 於三の着物を拾った茂兵衛はさっと羽織らせた。灯り一つの暗い中であるが、於三はほっとした。
 渡された紐を結ぶと平太が言った。

「わしにおぶされ」

 於三は新右衛門のことを思い出した。新右衛門が嫌がるような気がした。

「いえ、結構です」
「おまえの足では逃げ切れぬのだ」

 誰かが於三の身体を起こし、さっと平太の背に乗せた。仕方無く於三は平太の首に両腕を預けた。

「よし、行くぞ」

 守倉衆はばらばらと部屋から飛び出した。

「くせものだ、出あえ」

 誰かが気付いたのか、こちらに一斉に提灯が向けられた。
 助三は火薬の玉に火を付けて投げた。地面に落ちた途端にそれは閃光を放って火の玉を四方八方に飛ばした。

「うわあ、火だ」
「火を消せ」

 代官屋敷が火事の火元になっては大事である。警護の男達は賊を追うどころではなくなった。





 於三は恐ろしくて目を閉じたまま、平太の首をつかまえていた。周囲をヒューヒューと風の音がして、寒かった。時々、どこかに着地したのか軽い衝撃があってすぐにまた宙に浮くような感覚があった。
 平太は空を飛んでいるのだろうかと思うほどだった。

「ここまで来れば安心だ」

 平太の声で目を開けると、そこは関所に近い山の中だった。
 新月だから空に月はなく真っ暗だが、ほんのりと東の山の上の空が紫がかってきたように見えた。
 於三はいったん、平太の背から下ろされた。於三は寒さに着物の前をかき合わせた。

「ありがとうございます、助けてくださって」
「仕事でな」

 平太は言った。

「だから気にせんでええ。とりあえず、着替えたほうがよいから、わしの家に」
「いえ、岡部に戻って、主人に非礼をわびて参ります」
「その姿では、いらぬ心配をさせるぞ。帯もなかろう」

 茂兵衛の言う通り、帯をしていなければ、岡部家の人々は何と思うか、於三は改めて自分の姿のひどさに気付き、あの男の非道が恐ろしく思われた。

「遠慮するな。うちには母や妹の物がある。そろそろ白んでくる。関所の者が目を醒まさぬうちに行くぞ」

 再び、於三は平太に背負われた。
 山を下り関所の建物を飛び越え、香田角の城下に入ったのは一刻もせぬうちだった。
 小雨が降り始めた中、丑寅町の守倉の屋敷に入ると、待っていたかのように女達が平太の背から降りた於三を取り囲むように母屋に連れて行った。
 なんと守倉家にはあるはずのない風呂があった。明暦の大火の前に作った風呂だというのでお咎めはないのだと言う。そこに於三は入れられ、平太の母親が背中を流してくれた。
 於三の身体に付いた痣を見た母親は痛ましそうな顔をした。その痣の理由に於三は思い当たり、改めて寒気を覚えた。
 上がった後は身体を拭かれ、清潔な腰巻や襦袢を身に付けさせられた。単衣を着た後、眠いだろうから少し休むように言われた。
 通された部屋に敷いてあった布団の上に横になった途端、於三は眠りに落ちた。





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