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第三章 青嵐(正徳三年~正徳五年)

20 隆成の幸せ

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 翌朝早く、三人の客人は帰って行った。
 酒に強い加納は平気な顔で迎えに来た駕籠で帰って行ったが、後の二人は二日酔いで駕籠は気持ちが悪くなるからと歩いて帰った。
 朝食を食べた後、屋敷に戻る前に芝高輪の下屋敷に行かぬかと隆真に誘われた。

隆成たかしげ兄上のことをそなたはまだ知らぬ」

 言われてみればそうだった。正室の子なのに、なぜ跡継ぎにならなかったのか。側室がいるらしいが、子どもはいないようだった。よくわからぬ人であった。
 上屋敷には使いをやって帰りが遅くなることを伝えておくからと言われたので、芝高輪に行くことにした。
 着替えを入れた挟み箱を運ぶ中間らと与五郎を帰し、警護の惣左衛門と草履取りの平太だけがついてきた。
 大勢で行くと警戒するからと、わけのわからないことを言われた。兄弟が来るのに警戒するとはどういうわけなのか。





 駕籠を降りた途端、潮のにおいがむっと海の方から上がってきた。
 事前に伝えていたので、すぐに用人が出て来た。

「若様は寺においでです」

 用人は隆真に言った後、隆礼がいるのに気付いた。

「これは、上屋敷の。今日は一体どのような御用でしょうか」

 隆真は二人で兄に会いに来たのだと言った。用人は大きくため息をついた。

「よろしいのですか」
「いずれ知れること。母上は元気かな」
「はい」
「後で挨拶するけど、それじゃ寺に行ってくる」

 そう言うと、駕籠には乗らぬまま、隆礼を伴い門を出た。その後を惣左衛門と平太がついていく。

「兄上は寺で毎日師匠をしてるんだ。身体の調子が悪くない限りは」

 寺で師匠とはどういう意味か。

「出家なさるのですか」
「まさか。煩悩だらけだぜ、あれは」

 思いの外、早い足取りで隆真は歩いていく。隆礼は左右に見える山門の多さに大名屋敷以外にも寺院が結構あるものなのだなと思った。
 実はこれらは将軍家の菩提寺である増上寺の子院である。
 増上寺で将軍家の法要が行われる際には、大名はこれらの子院を借りて着替えをしてから法要に参列するのだった。
 やがて、あるこじんまりとした山門の前で隆真は足を止めた。

「ここの坊で、しげ兄は手習いの師匠をしてるんだ」
「手習いのですか」

 香田角にも町人の子女のための手習い所があった。だが、その師匠は寺の僧侶や神官、学識のある武士らであった。仮にも大名の弟が師匠などとは聞いたことがなかった。
 隆真は建物の裏に回った。

「おはよう、いいかい」

 戸口を開けて声をかけると太い声が聞こえた。

「おはようございます。表の座敷においでです」

 隆真は戸を閉めて、こっちだと言うので、ついていくと、声が聞こえてきた。

紅葉重もみじがさねやなぎ裏。薄紅梅。色々の筋の小袖。隔子こうし織物」

 少女達の声だった。

「『庭訓往来』か」

 庭訓往来は手習いの教科書である。往来というのは往復書簡のやりとりである。当時の人々は手紙のやりとりが多かったので、実用的な往来物と呼ばれる往復書簡の模範文例を集めた物が手習い所の教科書として用いられていた。
 隆礼も子どもの頃、父から庭訓往来を学んでいた。
 隆成がそれを子どもに教えているとは、一体いかなることであろうか。
 やがて、開け放たれた座敷が見えてきた。小さな机が並んで、その前に九人ほどの下は六つ、上は十一か十二くらいに見える少女たちが本を音読していた。
 いずれも、町人の子どもらしく、木綿の着物にはだしという質素な姿である。髪も稚児髷、尼削ぎ、銀杏髷、銀杏崩しといろいろである。
 彼女たちの視線の先には、隆成が立っていた。髪は髷を結っているが、町人のように鬢(顔の横の部分)が張り出し加減になっている。着ているものは木綿の単衣に麻の袴とおよそ大名家の家族とは見えない。
 彼は大きな紅い色紙を出して説明している。

「紅葉重とは表は紅く、裏は白い重ねのことを言います」

 紅い色紙を裏返して白い紙を見せる。
 少女たちはその紙をじっと見つめている。
 隆成は完全に手習い所の師匠になりきっていた。
 が、不意にこちらを見て言った。

「今日はお客様がおいでです。箱根の関所よりも上方よりもまだ先にある九州からおいでになった先生です」

 少女たちの視線が一斉に隆礼に向けられた。

「わ、色が黒い」

 一人が言うと、まわりも言う。

「ほんとだ」
「まるで薩摩様の御家来衆みたい」

 隆礼は好奇心たっぷりの少女たちの視線にさらされ、恥ずかしかった。
 隆成は何を考えているのか。
 背後で隆真が言った。

「挨拶」
「初めまして。兄がお世話になっております」
「兄って誰だい」

 年かさの少女が言った。

「えっとお師匠」
「うっそ、御師匠様、弟いたの」
「あ、似てるよ」
「そうだね」

 少女たちは蜂の巣を突いたような騒ぎである。
 隆成は咳払いをした。

「失礼だぞ。この御方はわしの弟だが、先々はお殿様になる方ぞ」
「ええ、すごい」
「なんで、殿様になるの」
「それでは、今日はこの先生に九州の話をしてもらいましょう」

 隆成が言うと、隆真が背中を押した。

「え、兄上、なんですか、それ」

 結局、座敷に上げられた。
 少女たちは目を爛々と輝かせている。好奇心たっぷりの目である。
 それまで黙っていた少女が言った。

「九州からどうやっておいでになったのですか。船に乗ったのですか」
「陸は歩きと駕籠と馬、海と川は船です。小さい川は歩いたり、馬に乗ったりしました」

 少女たちがわあと歓声を上げた。

「駕籠に乗ったんですか」
「あたしも乗りたい」
「富士のお山は見ましたか」
「雲に隠れて見えませんでした」

 次から次へと出てくる質問に答えるうちに、参勤交代の道中の話になり、名産品の話にもなった。

「というわけで、なまこは食べることができます」
「なんか、気持ち悪い」
「でも、そのあたりに住む人はおいしいと思って食べている。江戸の人が食べている物でも、よそでは食べない物もある。たとえば、わしの田舎では真っ白な米は食べない。麦を混ぜたり、玄米で食べたりする。自分の住んでいる場所の習わしとよその習わしは同じと考えぬほうがよいと思う」
「うちの姉様の嫁入り先も白い米はめったに食べぬと言っていた」

 少女の一人が言う。

「それやだ。あたしは、白いおまんまの食べられるとこに嫁にいく」

 寺の鐘の音が聞こえ始めた。九つ(正午頃)を知らせる鐘である。

「さて、今日はこれまで。気を付けて帰るのだぞ」

 隆成が言うと、少女たちはありがとうございましたと一斉に言って、帰り支度を始めた。





 少女たちがいなくなり、机が片づけられた座敷は広かった。
 海からの風が吹き込んでくるが、今は生臭くはない。
 隆成は正座している。隆真はあぐらをかいて茶を飲んでいる。
 隆礼は尋ねた。

「兄上はなぜ、ここで手習いの師匠をしておいでなのですか」

 隆成は簡単に答えた。

「したいからだ。私にとっては、こんなに楽しいことはないんだ」
「楽しいのですか」

 確かに隆礼も自分の話を真面目な顔で聞く少女たちを見ているとなんとなく心が浮き立ってきたけれど、それをずっと続けようとは思わない。飽きてくると思う。

「ああ。楽しい。あの娘らと同じ時間を生きていると思うと楽しくてならぬ」
「ここは男子はいないのですか」
「女子だけだ。この近所の町人の娘が来ておる」

 なぜ女子だけと思った。女子だけの手習い所も香田角にあるが、師匠は元奥女中など女性である。

「どうして男子はいないのですか」
「どうしてって、男に興味はないからな」
「え」

 それまで黙っていた隆真が言った。

「兄は幼い女子が好きなのだ」

 意味がわからなかった。

「幼い女子が、でございますか」
「そうだ。私はな、大人の女子が好かぬ」

 好かぬという言い方がいかにも本当に嫌だという感じがあった。

「兄上は大人でございますよね。それなのに」
「それでもだ。はっきり言うて、大人の女子を見ても、抱きたいとは思わぬ」

 つまり、大人ではない女子を見ると抱きたくなるのかと思い、隆礼はますますわけがわからなくなった。

「兄上、それでは、お側に女子はいないのですか」
「前はいたが、まったくその気にならぬので、暇をやった」

 信じられなかった。

「兄上、それでは、まさか、教え子に」

 恐ろしい考えに隆礼は鳥肌が立ってきそうだった。

「それはない。私は確かに幼い女子は好きだが、抱いてどうこうしたいとは思わぬ。それを見て愛でるのがいいのだ。第一、そういうことができぬであろう、子どもなのだから。何もしなくてもいいのだ。私はあの娘たちが笑い歌いしゃべるさまを見られればよいのだ」

 楽しげな口調だった。

「だから、女子だけの手習い所を作ったのだ。そうすれば、いつでも女子達の声が聞こえる。ここの院主には山置家が増上寺参詣の折にも世話になっておるのでな、手習い所を作りたいと言うたら、快く場所を貸してくれたのだ。親から謝礼はもらっておるが、それは寺への寄進だ。私が娘たちに謝礼を払いたいぐらいだ」

 これでは、跡継ぎになれないはずだった。
 子どもを産めぬ年頃の少女だけにしか興味のない若君、大人の女性を抱く気にならぬ若君では、跡継ぎになれるはずもなかった。

「父上はわかっておいでだった。私がそういう人間だということを早いうちから見抜いて、兄上を跡継ぎに決めてしまったのだから」

 世の中にはいろいろな人がいるものだと思った。
 昨夜話した加納のような男もいれば、祝姫の叔父源三郎のような男もいる。そして隆成のような人間もいる。

「問題は母上だ。あの方はわかっておらぬ。幼い娘を妻にすればよいなどと言うのだ。だが、その幼い娘もいずれ、年をとって婆になるのだぞ。私が爺になれば」
「兄上は爺になっても、ずっと幼い女子を好きでいるおつもりですか」
「そうだな。三十過ぎても変わらぬから、たぶん死ぬまでそうだな」

 隆成はにっこりと笑った。

「私は幸せ者だ」




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