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第三章 青嵐(正徳三年~正徳五年)

24 異変

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 惣左衛門と与五郎は広敷の前まで来たが、異変はなかった。
 いつも通り、出入りの商人らしい男らが風呂敷包を背負って出入りしている。
 だが、安心はできないと思い、あたりの物音に耳を澄ませた。

「村瀬殿、またともに仕事をしようぞ」
「かたじけない。小田殿のご厚意は忘れぬ」

 その声に惣左衛門と与五郎は顔を見合わせた。
 広敷の玄関を見ると、中年の男が出て来た。一目で村瀬喜兵衛だとわかった。相変わらず、水際立ったいい男である。単身で江戸暮らしをしている男とは思えぬほど、きりりとした引き締まった姿をしている。
 きちんと裃を着けているところを見ると、挨拶に来たようだった。
 両手に持つ風呂敷包は餞別であろうか。

「何か御用か」

 二人の視線に気づいた村瀬だった。惣左衛門は静かに近づいた。

「近習見習いの岡部惣左衛門と申します」

 村瀬はえっと小さく叫んだ。

「岡部惣右衛門様の御子息か」
「はい」
「拙者、村瀬喜兵衛と申す。父が惣右衛門様に御迷惑をおかけした。まことに申し訳ない」
「そのことでしたら、お気になさらないでください。御隠居様は御病気だとか」
「病とはいえ申し訳ない。この後、近習部屋に御挨拶に伺うつもりだったのだが、そちらからお越しくださるとは、重ねて申し訳ない」

 村瀬喜兵衛は慇懃だった。年下の惣左衛門に頭を下げて、父親の無礼を詫びた。

「村瀬様が御帰りになれば病も癒えるはずです」

 確証はないが、惣左衛門はそう言うしかない。

「そうであればよいが。よそ様にご迷惑をかけぬようにいたす所存。それにしても、あなたは父上に似ておられる。昔、辰巳町で惣右衛門様の隣に住んでいたことがある」
「それは、存じませんでした」
「こたびの件はますます申し訳なく。もっと早く国に戻っておればと」

 どう見ても逆恨みして大それたことをしでかすような男には思えなかった。
 村瀬は与五郎を見た。

「そちらの方は」
「小姓の小ヶ田与五郎と申します」
「頼母様の縁者か」
「はい。甥にあたりますが、養子になりました」

 村瀬はうなずいた。

「御養子か。なるほど、小ヶ田様はさようになさったのか」

 感慨無量という様子の村瀬であった。

「頼母様はお元気か」
「はい」
「戻ったら、道場に御挨拶に伺おう。江戸にいる間、見聞を広めて、しっかりお仕えしてくだされ」

 村瀬喜兵衛は穏やかにほほ笑んだ。
 これなら大丈夫だ、疑って申し訳ないと惣左衛門も与五郎も思った。
 さわやかな皐月の風が吹き抜けた。
 その時だった。風に乗って女の悲鳴が聞こえた。
 奥の方向からだった。

「なんだ」

 広敷の玄関から刀に手をかけた豊後守家中の警護の侍三人が出て来た。

「なんだ、今のは」

 村瀬喜兵衛も反射的に刀に手をかけていた。広敷からは他にも数人バラバラと人が出て来た。
 惣左衛門も与五郎も脇差しか持っていなかった。刀はそれぞれの詰所に置いていた。
 広敷の役人が奥と中奥を隔てる土塀に作られた木戸を開けた。
 すぐに下働きの女中が駆け出してきた。ふだんは大工や植木屋らが出入りする戸である。

「奥の御女中が乱心して、懐剣を振り回しております」

 その後から出てきた女中が叫んだ。

「お廊下を女中が卯女の方様を追いかけまわしておりました」

 喜兵衛の顔色が変わった。広敷の侍は表御殿に報告のため走って行った。

「姫君は御無事か」

 豊後守の家中の侍が叫んだ。

「わかりませぬ。我らは庭におりましたので」

 惣左衛門は走っていた。

「おい、早まるな」

 与五郎が止めたが、惣左衛門は喜兵衛とともに走っていた。豊後守の家中の侍もそれを追った。それを見た周辺を警護していた侍達も走った。
 息も絶え絶えの女中二人は役人に抱えられるように広敷に連れて行かれた。
 その場には与五郎と喜兵衛の風呂敷包だけが残された。
 これはどうしたものかと与五郎が思っていると、広敷から連絡を受けた表御殿の警護の侍らが走って来た。与五郎は木戸の方を指さし、あちらですと叫んだ。槍や刺又、網などの捕り物道具を持った男達が走って行った。 
 騒然とする中、与五郎は風呂敷包を拾い上げた。
 一体、奥でが起きたのか。

「小ケ田様、何があったのですか」

 村瀬勘六の声に与五郎は振り返った。何も知らぬ勘六に、与五郎は風呂敷包を差し出した。

「いや、ちと奥に何やら獣が迷い込んだらしい。これは父上の荷物だ。奥向きの仕事が残っておるとかで」
「ありがとうございます。これから休みをいただきましたので、父と落ち合って飯を食おうと話していたのです」
「ちと時間がかかりそうだな。小姓の詰所におったほうがいい。出てこられたら、詰所に行くように伝えておく」
「よいのですか」
「ああ。私はここから離れるわけにはいかぬようだ」

 勘六が表御殿に向かったのを確認し、与五郎は木戸の前に立った。ここの守りは誰もいないから、自分が立っているしかない。商人たちに気取られぬようにせねば。
 狼藉者がここを通らねばよいがと思いながら、与五郎はいつでも脇差を抜けるように注意を怠らなかった。





 表御殿の黒書院では殿様が若年寄の使いと面会していた。
 愛宕下の中屋敷拝領の件である。屋敷関係の手続きが終わり、七月にも入れる手筈になったということだった。

「御配慮、かたじけなく存じます」
「豊後守様からもよろしくとのお言葉がありましたゆえな。そうそう、またあちらの姫君とご縁談がおありとか。おめでとうございます」
「ありがとうございます」
「先手頭の方も書類がそろい次第手続きに入ると申しております」

 着々と隆礼についての手続きが進んでいた。中屋敷拝領、養子の申請、上様への御目見え、婚姻の許可等、御公儀のお許しを迅速に得るためには旗本や老中らへの付け届けも欠かせない。
 飛騨守の場合、舅が豊後守だというだけで、様々な手続きが他よりも楽に進むのだが、それでも他から横やりが入ったりせぬよう、いろいろと気を遣うことも多かった。

「ところで」

 急に使いが声を低めた。

「豊後守様が近々御隠居なさるとか」

 それは知らなかった。隠居してもおかしくない年齢ではあるが。

「上様が御幼少ゆえ、他の方々も引き止めているようだが、御決心は固いようだ」
「まだまだお元気のようですが」
「掃部助様も待ちくたびれたであろうからな」

 確かに一番下の末娘の縁談が決まるような年齢では、息子の掃部助は待ちくたびれたと言ってもいい。
 使いが帰った後、御座の間に戻ると、留守居役と家老、それに広敷の用人頭、奥の御年寄が控えていた。皆、いつもと違い、ひどく緊張した面持ちである。

「どうしたのだ」

 家老は小姓を外へと言ったので、殿様は小姓らを外に控えさせた。

「奥で、不測の事が起きました」

 殿様は眞里姫のことをとっさに思った。まさか眞里姫の身に何かあったのかと。
 御年寄の松橋は申し訳ございませぬと苦衷を隠さぬ声で言った。
 殿様は落ち着けと心の中でつぶやいた。

「順を追って申せ」
「は」

 御年寄が説明を始めた。




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