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第三章 青嵐(正徳三年~正徳五年)
43 心の疲れを減らすには
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平太はさらに続けた。
「人もねずみと同じで、大勢になると、笛ではないが噂に惑わされてそういう後先考えぬ行動をするもの。此度の件はそういうことではないか」
人は大勢になると噂に惑わされ、判断ができなくなる。惣佐衛門は平太の話の意味を考えた。
「若様、中屋敷への御移りはやはり延期するのですか」
惣左衛門の問いに、隆礼はうなずいた。
「七月の初めにということであったが、下屋敷の御不幸があるから、四十九日を過ぎねば無理だろう」
「予定通りになさったほうがよいかと」
皆驚いた。与五郎は言った。
「まさか人が増え過ぎたからですか。ねずみと同じですか、それがしらは」
「そうだ。増え過ぎたから減らせばよい。中屋敷には今上屋敷にいる若様付きの小姓、近習、それに小納戸、台所方からも移ることになっている。上屋敷はずいぶん人が減るはず」
惣左衛門は計算した。
「ざっと勘定しても上屋敷にいる人間のうち四十名は減る。人が減れば心の疲れも減るのではないか。平太どう思う」
「さようじゃな。下屋敷の方も入れば、あちらもろくでもない噂に惑わされるようなことも減る」
「だが、父上が許すかな」
隆礼はそれが心配だった。
喪中に引っ越すとは非常識と言いだすのは目に見えていた。
「ですが、竹之助様達を安心させるにはいいかもしれません。悩みの元の人間が上屋敷からいなくなるわけですから」
惣左衛門は冷静だった。
「殿様に、平太の話したことを説明すれば、納得してくださるのではないでしょうか」
「そうだな。話してみよう。だが、家移りだけで、噂が静まるかどうか」
平太は隆礼の不安に対してにっこりと笑った。
「心の疲れを減らせばよいのじゃ。命の洗濯という言葉がある。覚えておろう。紅葉の宴のことを」
秋の最後の一日、国許で城の紅葉を城下の者に見せる催しだった。
「あれをやるのか。ずいぶん先の話だぞ」
惣左衛門の不審に、平太は答えた。
「別に名目は紅葉でなくともよい。七夕でも八朔でもよい。名目を作って、心を晴らすような催しをすればいいんじゃ。馳走を食べてもよいし、相撲をとってもよい。とにかく心を洗うようなことをすれば、皆気分が変わる。それだけで噂は消えるはず」
「そうなのか」
隆礼は半信半疑だった。
「紅葉の宴もそのために考えられたものと、家の者から聞いたことがある」
平太がそう言うからには、本当のことのように思えた。
「明暦の大火事の後、城下にはいろいろな噂が飛び交い、人心が乱れた。火事の元になった稚児や稚児の取り合いをした僧だけでなく、その一族郎党を捕まえて処罰しろと、騒ぎになった。
関係者の一族はすでに閉門や所払いになっておったのだが、中にはまだ城下に隠れているのではないか、探し出せと、皆血眼になったそうだ。
実際、無関係の者が捕まって袋叩きにされるようなこともあった。
そんなことが年が明けても続き、江戸から戻っておいでになった殿様は憂慮された。
盂蘭盆に火事で亡くなった者を追悼するために、それまで入ることができなかった城の庭に城下の者達を入れ、僧侶に読経させ、茶を馳走した。商人に城の回りで飴湯などを売らせた。今はしておらぬが、奥の踊り上手の女子が踊りをして見せたり、町の者達に踊らせたりもしたそうだ。そうしたところ、城下の空気が変わった。それが時期を変えて紅葉の宴の元になっておる」
与五郎はうなずいた。
「なるほど、神田の明神様の祭りのようなものですね。江戸の町も人が多い。祭で心にたまった垢を流しているのかもしれませぬな」
「とはいえ、親の服喪中。あまり派手なことはできぬ。どうしたものか」
隆礼は腕組みをした。
夕刻、部屋に殿様付きの小姓が来て、殿様の御座の間に連れて行かれた。
ふだんは使わない狭い廊下を通ったのは、他の者に会わぬようにするためのようで、誰にも会わずに御座の間に入れた。
飛騨守は竹之介の嘔吐の件を伝えた。
竹之助の容態は持ち直しており、医者もただの食あたりと診断したことも伝えた。
「それがしが、余計なことをしたばかりに。この時期は食べ物の足が早いゆえ」
「毒見の小姓は誰も吐いておらぬ。竹之助が弱いのだ。次から気を付けねばな」
「申し訳ございません、御面倒をおかけして」
「竹之助にも言うた。毒など入っておらぬと。余が目の前で残った菓子を口に入れたゆえ、納得した」
そんなことまでされたのかと隆礼は驚いた。
「畏れ入ります。さようなことまでされたとは」
「当たり前のことだ」
飛騨守はごく普通の顔であった。
この人は本当にすごいと隆礼は思う。人形のような方と思われた眞里姫が喜乃の事件の時に見せた奥の女主人の貫禄も凄いが、殿様もいざとなれば思い切ったことをするのだ。
自分にはできるだろうかと、隆礼は不安になる。
だが、ここで弱気になるわけにはいかない。
平太のねずみの話や心の疲れの話をし、中屋敷へ予定通りに家移りし、上屋敷内の人々の心の垢を落とすことを提案した。
飛騨守はその提案に驚いた。
「噂の元の竹之助の小姓らも毒殺などありえぬとわかったはずだ」
「畏れながら、その噂はもう屋敷中に広まっております。竹之助様の小姓だけの話では済みません。それがしの小姓や近習も噂をしております。奥の女中のことまでそれがしが殺したことになっております。下屋敷に伝わるのも時間の問題かと。問題はそのような噂が広まりやすい今のお屋敷のありさまです。皆、心が疲れておるのではないでしょうか」
「心が疲れるか」
飛騨守にも覚えがある。いや、現に飛騨守自身も父の跡を継いで以降、心に重荷を背負い疲れ果てていた。自分が疲れていることすら気づかぬほどに。
「人が減れば疲れは減るのか」
「はい。それがしが江戸に参ったことで人が増えておりますから、それがしに関わる人間が皆中屋敷に移れば、少なくともそれがしが来る以前のありさまには戻ると思います」
「かえって噂を大きくするのではないか。そなたを竹之助から遠ざけるために中屋敷に移したと」
「そのような噂もいっときのこと。先ほど話したように、心にたまった垢を落とせば、皆落ち着くと思います」
「したが、当家は喪中。これから隆成の弔いもある」
「そこで、考えたのですが」
隆礼の考えに飛騨守はほおとうなずいた。
「それはよいかもしれぬ。亡き母上や隆成の供養にもなろう」
「それがしも微力ながら加わります」
「あいわかった。早速準備をさせよう。隆成の初七日の後に正式に触れを出す」
「畏れ入ります」
「それから、そなたの家移りは予定通りだと弔いと重なるゆえ、七夕の後にしよう」
それでも寿姫の四十九日よりは前である。
「屋敷改に日取りの変更を知らせねばな。それから豊後守様にもな。奥は豊後守様が御年寄や中老を手配してくださることになっておる」
隆礼にとっては、それが最大の問題だった。
恐らく、奥の中老の中に利根がいるはずである。
それを知ってか知らずか、飛騨守は言った。
「あちらの姫に遠慮せずともよいぞ。中老や女中で気に入った者があれば侍らせてかまわぬ。豊後守様もそのつもりで女中を選んでおるはず。なんといっても姫君はまだ幼い」
利根のことを話そうかと思ったが、ためらわれた。姫との口吸いの件まで話が及んでしまったらまずい。
「そうであった。そなたに、隆成の娘手習い所の話を聞きたかったのだ。栗林の隠居と一度見に行ったのであろう」
幸いにも飛騨守は隆成のことに話題を変えてくれた。
隆礼は寺の一室での情景を語り始めた。
「年も身なりも様々の娘たちが一心不乱に庭訓往来を読んでおりました。兄上は色の付いた紙を広げて重ねの色目を説いておいででした」
飛騨守はうなずきながら話を聞いていた。
隆礼もまた供養のような気持ちになっていた。兄は亡くなっても教えは娘たちの中にいつまでも残るだろう。
隆成の葬儀には多くの弔問があった。
寿姫の時と違い若く妻も子もない隆成だったが、意外にその交遊は広く、学者や文人も悔やみの文を送って来た。旗本の隠居浅田董伯からも悔やみがあった。
寺へ遺骸を出す時には、娘手習い所の教え子たちも通りに出て見送った。その中におなつはいない。
埋葬を終え、下屋敷に戻った隆礼はどことなく、警護の侍や女中達の自分に対する態度の中に硬さを感じていた。
やはり下屋敷にも噂は届いているようだった。
後で平太に聞くと、上屋敷の噂と少し違っていた。
隆礼が手習いの教え子を中に引き入れて会わせたので、それで隆成はもう自分はしまいだと思って気力を失い亡くなってしまったのだと思っているようだった。
本当のところはわからないから否定もできぬ話であった。
それを聞いた飛騨守は言った。
「寿命なのだ。むしろ会わせなかったら、悔やんでも悔やみきれなかったであろう、余もそなたも」
果たして本当はどうなのか、隆成に聞くこともできぬ。
ただ噂だけが屋敷の間を飛び交っているようだった。
上屋敷では、あれから竹之助は決して隆礼の見舞いを受け入れない。
隆礼の小姓達も怯えたような目で隆礼を見ていることがあった。主であるから仕えているが、もし粗相があれば何か酷いことをされるのではないかという彼らの不安が隆礼には手に取るようにわかってしまった。
自分にお茶を持って来る時に盆を持つ手が震えていることがあるのだ。
江戸に来て四か月、馴染み始めた小姓達がなんとなく遠のいてしまったようで、隆礼は寂しかった。
惣左衛門も近習の詰所で、なんとなく避けられているようだった。
奥からいなくなった女中の卯女は自分の女房になったと言いたかったが、口にするわけにはいかなかった。
与五郎も小姓長屋で嫌がらせを受けていたが、そのことは誰にも話さなかった。物を隠すといった子供じみたものなので、騒ぐのも大人げないように思われたのだ。
彼らはじっと耐えた。
ここで騒げば、もっと噂は大きくなる。
それよりも中屋敷への御移りを無事に済ませなければならない。
粛々と準備を進めることが主のためと、彼らはひたすら働いた。
「人もねずみと同じで、大勢になると、笛ではないが噂に惑わされてそういう後先考えぬ行動をするもの。此度の件はそういうことではないか」
人は大勢になると噂に惑わされ、判断ができなくなる。惣佐衛門は平太の話の意味を考えた。
「若様、中屋敷への御移りはやはり延期するのですか」
惣左衛門の問いに、隆礼はうなずいた。
「七月の初めにということであったが、下屋敷の御不幸があるから、四十九日を過ぎねば無理だろう」
「予定通りになさったほうがよいかと」
皆驚いた。与五郎は言った。
「まさか人が増え過ぎたからですか。ねずみと同じですか、それがしらは」
「そうだ。増え過ぎたから減らせばよい。中屋敷には今上屋敷にいる若様付きの小姓、近習、それに小納戸、台所方からも移ることになっている。上屋敷はずいぶん人が減るはず」
惣左衛門は計算した。
「ざっと勘定しても上屋敷にいる人間のうち四十名は減る。人が減れば心の疲れも減るのではないか。平太どう思う」
「さようじゃな。下屋敷の方も入れば、あちらもろくでもない噂に惑わされるようなことも減る」
「だが、父上が許すかな」
隆礼はそれが心配だった。
喪中に引っ越すとは非常識と言いだすのは目に見えていた。
「ですが、竹之助様達を安心させるにはいいかもしれません。悩みの元の人間が上屋敷からいなくなるわけですから」
惣左衛門は冷静だった。
「殿様に、平太の話したことを説明すれば、納得してくださるのではないでしょうか」
「そうだな。話してみよう。だが、家移りだけで、噂が静まるかどうか」
平太は隆礼の不安に対してにっこりと笑った。
「心の疲れを減らせばよいのじゃ。命の洗濯という言葉がある。覚えておろう。紅葉の宴のことを」
秋の最後の一日、国許で城の紅葉を城下の者に見せる催しだった。
「あれをやるのか。ずいぶん先の話だぞ」
惣左衛門の不審に、平太は答えた。
「別に名目は紅葉でなくともよい。七夕でも八朔でもよい。名目を作って、心を晴らすような催しをすればいいんじゃ。馳走を食べてもよいし、相撲をとってもよい。とにかく心を洗うようなことをすれば、皆気分が変わる。それだけで噂は消えるはず」
「そうなのか」
隆礼は半信半疑だった。
「紅葉の宴もそのために考えられたものと、家の者から聞いたことがある」
平太がそう言うからには、本当のことのように思えた。
「明暦の大火事の後、城下にはいろいろな噂が飛び交い、人心が乱れた。火事の元になった稚児や稚児の取り合いをした僧だけでなく、その一族郎党を捕まえて処罰しろと、騒ぎになった。
関係者の一族はすでに閉門や所払いになっておったのだが、中にはまだ城下に隠れているのではないか、探し出せと、皆血眼になったそうだ。
実際、無関係の者が捕まって袋叩きにされるようなこともあった。
そんなことが年が明けても続き、江戸から戻っておいでになった殿様は憂慮された。
盂蘭盆に火事で亡くなった者を追悼するために、それまで入ることができなかった城の庭に城下の者達を入れ、僧侶に読経させ、茶を馳走した。商人に城の回りで飴湯などを売らせた。今はしておらぬが、奥の踊り上手の女子が踊りをして見せたり、町の者達に踊らせたりもしたそうだ。そうしたところ、城下の空気が変わった。それが時期を変えて紅葉の宴の元になっておる」
与五郎はうなずいた。
「なるほど、神田の明神様の祭りのようなものですね。江戸の町も人が多い。祭で心にたまった垢を流しているのかもしれませぬな」
「とはいえ、親の服喪中。あまり派手なことはできぬ。どうしたものか」
隆礼は腕組みをした。
夕刻、部屋に殿様付きの小姓が来て、殿様の御座の間に連れて行かれた。
ふだんは使わない狭い廊下を通ったのは、他の者に会わぬようにするためのようで、誰にも会わずに御座の間に入れた。
飛騨守は竹之介の嘔吐の件を伝えた。
竹之助の容態は持ち直しており、医者もただの食あたりと診断したことも伝えた。
「それがしが、余計なことをしたばかりに。この時期は食べ物の足が早いゆえ」
「毒見の小姓は誰も吐いておらぬ。竹之助が弱いのだ。次から気を付けねばな」
「申し訳ございません、御面倒をおかけして」
「竹之助にも言うた。毒など入っておらぬと。余が目の前で残った菓子を口に入れたゆえ、納得した」
そんなことまでされたのかと隆礼は驚いた。
「畏れ入ります。さようなことまでされたとは」
「当たり前のことだ」
飛騨守はごく普通の顔であった。
この人は本当にすごいと隆礼は思う。人形のような方と思われた眞里姫が喜乃の事件の時に見せた奥の女主人の貫禄も凄いが、殿様もいざとなれば思い切ったことをするのだ。
自分にはできるだろうかと、隆礼は不安になる。
だが、ここで弱気になるわけにはいかない。
平太のねずみの話や心の疲れの話をし、中屋敷へ予定通りに家移りし、上屋敷内の人々の心の垢を落とすことを提案した。
飛騨守はその提案に驚いた。
「噂の元の竹之助の小姓らも毒殺などありえぬとわかったはずだ」
「畏れながら、その噂はもう屋敷中に広まっております。竹之助様の小姓だけの話では済みません。それがしの小姓や近習も噂をしております。奥の女中のことまでそれがしが殺したことになっております。下屋敷に伝わるのも時間の問題かと。問題はそのような噂が広まりやすい今のお屋敷のありさまです。皆、心が疲れておるのではないでしょうか」
「心が疲れるか」
飛騨守にも覚えがある。いや、現に飛騨守自身も父の跡を継いで以降、心に重荷を背負い疲れ果てていた。自分が疲れていることすら気づかぬほどに。
「人が減れば疲れは減るのか」
「はい。それがしが江戸に参ったことで人が増えておりますから、それがしに関わる人間が皆中屋敷に移れば、少なくともそれがしが来る以前のありさまには戻ると思います」
「かえって噂を大きくするのではないか。そなたを竹之助から遠ざけるために中屋敷に移したと」
「そのような噂もいっときのこと。先ほど話したように、心にたまった垢を落とせば、皆落ち着くと思います」
「したが、当家は喪中。これから隆成の弔いもある」
「そこで、考えたのですが」
隆礼の考えに飛騨守はほおとうなずいた。
「それはよいかもしれぬ。亡き母上や隆成の供養にもなろう」
「それがしも微力ながら加わります」
「あいわかった。早速準備をさせよう。隆成の初七日の後に正式に触れを出す」
「畏れ入ります」
「それから、そなたの家移りは予定通りだと弔いと重なるゆえ、七夕の後にしよう」
それでも寿姫の四十九日よりは前である。
「屋敷改に日取りの変更を知らせねばな。それから豊後守様にもな。奥は豊後守様が御年寄や中老を手配してくださることになっておる」
隆礼にとっては、それが最大の問題だった。
恐らく、奥の中老の中に利根がいるはずである。
それを知ってか知らずか、飛騨守は言った。
「あちらの姫に遠慮せずともよいぞ。中老や女中で気に入った者があれば侍らせてかまわぬ。豊後守様もそのつもりで女中を選んでおるはず。なんといっても姫君はまだ幼い」
利根のことを話そうかと思ったが、ためらわれた。姫との口吸いの件まで話が及んでしまったらまずい。
「そうであった。そなたに、隆成の娘手習い所の話を聞きたかったのだ。栗林の隠居と一度見に行ったのであろう」
幸いにも飛騨守は隆成のことに話題を変えてくれた。
隆礼は寺の一室での情景を語り始めた。
「年も身なりも様々の娘たちが一心不乱に庭訓往来を読んでおりました。兄上は色の付いた紙を広げて重ねの色目を説いておいででした」
飛騨守はうなずきながら話を聞いていた。
隆礼もまた供養のような気持ちになっていた。兄は亡くなっても教えは娘たちの中にいつまでも残るだろう。
隆成の葬儀には多くの弔問があった。
寿姫の時と違い若く妻も子もない隆成だったが、意外にその交遊は広く、学者や文人も悔やみの文を送って来た。旗本の隠居浅田董伯からも悔やみがあった。
寺へ遺骸を出す時には、娘手習い所の教え子たちも通りに出て見送った。その中におなつはいない。
埋葬を終え、下屋敷に戻った隆礼はどことなく、警護の侍や女中達の自分に対する態度の中に硬さを感じていた。
やはり下屋敷にも噂は届いているようだった。
後で平太に聞くと、上屋敷の噂と少し違っていた。
隆礼が手習いの教え子を中に引き入れて会わせたので、それで隆成はもう自分はしまいだと思って気力を失い亡くなってしまったのだと思っているようだった。
本当のところはわからないから否定もできぬ話であった。
それを聞いた飛騨守は言った。
「寿命なのだ。むしろ会わせなかったら、悔やんでも悔やみきれなかったであろう、余もそなたも」
果たして本当はどうなのか、隆成に聞くこともできぬ。
ただ噂だけが屋敷の間を飛び交っているようだった。
上屋敷では、あれから竹之助は決して隆礼の見舞いを受け入れない。
隆礼の小姓達も怯えたような目で隆礼を見ていることがあった。主であるから仕えているが、もし粗相があれば何か酷いことをされるのではないかという彼らの不安が隆礼には手に取るようにわかってしまった。
自分にお茶を持って来る時に盆を持つ手が震えていることがあるのだ。
江戸に来て四か月、馴染み始めた小姓達がなんとなく遠のいてしまったようで、隆礼は寂しかった。
惣左衛門も近習の詰所で、なんとなく避けられているようだった。
奥からいなくなった女中の卯女は自分の女房になったと言いたかったが、口にするわけにはいかなかった。
与五郎も小姓長屋で嫌がらせを受けていたが、そのことは誰にも話さなかった。物を隠すといった子供じみたものなので、騒ぐのも大人げないように思われたのだ。
彼らはじっと耐えた。
ここで騒げば、もっと噂は大きくなる。
それよりも中屋敷への御移りを無事に済ませなければならない。
粛々と準備を進めることが主のためと、彼らはひたすら働いた。
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