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第三章 青嵐(正徳三年~正徳五年)

45 加納様の御訪問

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 翌日、加納新之助はお供の田沼、それに大岡という旗本とともに中屋敷を訪れた。
 旗本が一人同行することを清兵衛は田沼に聞いていたが、その名を聞いて驚いた。
 大岡忠右衛門忠相ただすけ、三十七歳、山田奉行(伊勢奉行)である。相役と交代で一年おきに現地に赴任することになっており、今年は江戸に在府している。
 清兵衛の耳にも大岡の切れ者ぶりは伝わっており、そのような人が大名の中屋敷を訪れるというのは異例といっていい。
 なにしろ、大岡は従五位下能登守に叙任されている。山置飛騨守と同じ従五位下ということで、もう一人大名がいるようなものだった。
 だが、大岡は出迎えた年下の清兵衛や惣左衛門にも丁寧に挨拶した。
 御公儀の役人であることを笠に着たような物言いもなかった。
 加納様もまた気さくな雰囲気であり、清兵衛は不思議な方々と感じるばかりであった。
 一体、加納様は何者なのか、清兵衛は昨夜調べた大名家のいずれの方か、あれこれ名前と突き合わせてみたものの、一向に思い当たるものがなく混乱していた。





 清兵衛の混乱をよそに、隆礼は加納様がおいでになったと嬉しさを隠さなかった。
 大岡忠右衛門は、そのありさまに思わず微笑んでいた。

「まるで兄上か父上かのようですな」
「おい、父上は余計だろ」

 加納と大岡は親しいらしく、口のきき方が軽い。
 書院に入ると上座に案内された加納は改めて挨拶をした。

「此度は母上と兄上お二人を亡くされ、さぞお気を落としておいでかと思って参った」
「お気遣いありがとうございます」

 大岡も言った。

「亡くなられた隆成様は、近在の子女の教導に努められた方と伺っております。惜しい方を亡くしたものです」
「まことにありがたいお言葉。兄が聞いたら喜ぶと思います」

 挨拶の後、隆礼は二人に屋敷を案内した。上屋敷ほど広くはないが、それでも一刻はかかった。
 表御殿の玄関から出ると、上屋敷にはない広い池を中心にした庭園が広がっている。下屋敷のものほど広くはないが、池の周囲の植え込みはさっぱりと手入れされ、風通しが悪いこともなかった。
 さらに奥に行くと、畑と鶏小屋があった。これは新たに作ったものである。

「鶏か。卵は精がつく。なるほど」

 加納は小屋から出され庭の土を啄む鶏を見ながら一人うなずいた。
 隆礼には別に精を付けるとかそういうつもりはない。玉子焼きが食べたいだけの話である。
 大岡が心配そうな顔になった。

「雄鶏が一羽おりますが、鬨の声がうるさいと近所から文句は出ませんか」
「引っ越した日に、声の届きそうな屋敷には卵を持って行って挨拶をしております」

 そういう気配りは沢井清兵衛の得意とするところだった。

「なるほど。それはいい考えだ」

 加納はうなずいた。
 畑では農夫一家が総出で畑を耕していた。
 加納はその中の娘をちらと見た。
 大岡はたしなめた。

「加納様、他の家中の者はいろいろと面倒が」
「すまぬ。つい、わしの好みでな」

 隆礼は娘の顔などろくに見たことがなかった。ただ色黒で少し肥えていることだけは覚えている。

「加納様はあのような娘が好みなのですか」
「ああ。線の細い女子はどうもいかん。抱き締めると折れそうで」

 確かに六尺も背丈があれば、細い女では折れてしまうのかもしれぬと隆礼は思った。

「大変ですね。江戸の女子は柳腰のものが多いと聞きますから」
「そうなのだ。もっと食えと思うのだがな。あ、あの娘をどうこうしたいというわけではないぞ。ただ、好みゆえ目がいっただけじゃ」

 そう言って加納は先をどんどん歩いて行った。
 大岡は隆礼に小声で言った。

「お気遣いは無用です。どうせ、お屋敷に戻れば、御手付きの方がいろいろおいでですから」
「いろいろ、ですか」
「はい」

 大岡は加納の家の内情にも詳しいようだった。
 それにしても、いろいろとは加納様も大変だなと思う。隆礼は利根の件だけでも、どうすればいいかと悩んでいる。いろいろ御手付きの方がいるという加納ならこんな時どうするのであろうか。





 庭をぐるっと一回りして座敷に行くと、食事が用意されていた。

「贅沢なものは好まれぬということで、国許のものも用意しました」

 そう言われて出された膳の上に並ぶ干し鮎の焼物、椎茸と豆の煮物や干した鹿肉の焼物などには加納も目を丸くしていた。

「干し鮎か、これはまた珍しい」

 大岡も鹿肉に驚いていた。

「鹿を食べるのですか」
「猪や鳥も食べます。といっても、病人に食べさせるくらいです」

 おっかなびっくりで食べる大岡を見て、加納は笑った。

「このくらい、可愛いものよ。薩摩は江戸屋敷で豚を飼っておる」
「まことですか」

 隆礼は驚いた。

「ああ。豚はわしも食べたことがない。だが、旨い物らしいぞ。彦根の家中は国で牛を飼っておる。井伊家は公方様に陣太鼓のための牛の皮を献上するのだが、皮を剥いだら肉が残るからな。味噌漬けにして献上するのだ」

 想像もつかぬことだった。香田角では牛は農耕に利用する家畜だった。

「滋養がつくので、若い者には食べさせてはならぬそうだ。おぬしはまだ駄目だな」
「加納様は召し上がったことはあるのですか」
「少しな。確かにあれはよい」

 世の中にはまだまだいろいろな食べ物があるらしい。





 食事を終えた後、席を変え書院に入った。
 大岡も同席しての話は、前回同様、加納が中心となった。
 加納の話は面白く、真面目な顔の大岡も苦笑を隠せなかった。
 ひとしきり、加納の側室論に花が咲いた後、隆礼は利根のことを相談してみようかと思った。
 ただ、問題は旗本の大岡がいることだった。利根のことを話せば、喜乃の事件にも触れないわけにはいかない。あの一件はもし外に露見したら、大問題になりかねない。
 大岡の履歴の中に目付があることを隆礼は知らなかったが、なんとなくこの人は屋敷の庭を見ている時も加納とはまた別の箇所を見ているような時があり、油断ならない感じがあった。

「実は加納様に相談があるのですが。大岡様、少しお席を外していただけませんか」

 思い切ってそう言うと、加納ははっきりと言った。

「忠右衛門は口の堅い男だ。ここで話したことを大目付にすぐさま注進などはせぬ」
「加納様、買い被り過ぎでございます」

 大岡はまじめな顔で言う。

「事と次第によっては、大目付様に告げねばならぬこともあります」

 隆礼はしまったと思った。こんなことを言うのではなかった。

「相変わらず堅いのう。ま、そうでなければ、見込まれて養子になどされぬし、目付の役も勤まらなかったであろう」

 加納の目付という言葉に隆礼は恐怖を覚えた。目付の恐ろしさは、御目見えの前から留守居役らから吹き込まれていた。畳の縁を踏んだら登城禁止になるとか、番所で足の灸の痕が化膿して膿を取っているのを見つかって切腹とか、恐ろしい話をあれこれと聞かされている。

「今は目付ではありません。それに、加納様にご相談ということは女人のことでございましょう。大名家の奥の方々のことはそれがしの関知することではありません」

 隆礼は安堵の息を漏らした。それなら大丈夫かもしれない。だが、一応念のために尋ねた。

「大岡様、ここで聞いた話はなにとぞご内聞に」

 大岡はうなずいた。





「なんと、掃部助の奥方もしたたかよのう」

 話を聞いた加納はそう言うと、案ずるなと隆礼に笑いかけた。

「いいではないか。二十五といえば大年増だが、身体がちょうどよい按配じゃ。恐らく真面目に奥勤めをしておったようだからおぼこであろうが、いったん男を知ればすぐに虜になる。正室はすぐには抱けぬのだから、ちょうどいいではないか。何をうだうだ迷っておる」

 加納らしいと言えば加納らしい答えだった。

「しかし、奥勤めをしていて怪我をしたのです。恐らく、それがしの顔を見るたびにその時のことを思い出すのではないかと思うと、申し訳なさが先に立つ。果たしてそれで利根は喜ぶのか」
「相手の女の気持ちを考えるのは大事だが、考え過ぎてもいかん。女は勘がいい。こちらが別のことを考えているとすぐ気付く。申し訳ないとか、そういうことを考えれば向こうも傷のことを気にする。この際、初めて会う女だと思って遠慮せず抱けばよい。それに許婚も認めておるのだろう、その女子のことを」
「はい」
「だったら何の問題もない。確かに本人にしてみれば、本意ではないかもしれぬ。尼になりたいと言っておったのだからな。ならば、尼になど金輪際なりたくないと思うほど、可愛がってやればよい。それにしても、そなた恵まれておるな。わしなど、そなたの年には誰も女の世話などしてくれなかったぞ。おかげでこっちから誘う手段は鍛えられたがな」

 大岡が咳払いをした。

「忠右衛門、何かまずいことを言ったか」
「国許でのお話はあまりせぬほうがよいかと。若君には少し刺激が強過ぎます」
「さようなことはあるまい。もうすぐ父になるのだから」

 そう言った加納は遠くを見るようなまなざしになった。

「生まれる子を大事にしてやれよ。わしもな、そなたの年頃に奥女中との間に子ができてな。けれど、正室を娶る前で外聞を憚ることと、まわりの者が奥女中を実家に帰してしまった」

 加納にそんな過去があるとは知らなかった。

「親子はどうしておるのか、家臣に聞いても知らぬ存ぜぬだ。もし生きていれば、その子はちょうどそなたくらいの年になっておるはず」

 隆礼は満津の子のことを思うと同時に、卯女のことも気にかかった。卯女の身体のことを惣左衛門は何も言わない。懐妊しているのか、いないのか。家移りで卯女、いや美祢も中屋敷の所帯持ち用の長屋に入ったはずだが、その動静はまったく耳に入って来ない。

「大事にいたします」
「うむ。で、その利根とかいう女子だが、まだ奥に入っておらぬのか」
「はい。豊後守様がこちらの喪に配慮してくださいまして」
「残念。一目見たかったものを」

 大岡がまた咳払いをした。




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