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第二章 辺境伯家の家訓‐宣戦布告と愛の言葉は堂々と‐
09 対決
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ここはギルモア伯爵邸。
土煙の中、騎士達は向かってくる伯爵家の騎士と剣を交えていた。どちらの騎士も銃を所持しているのだが、剣で戦うという騎士の慣習を頑なに守っていた。
ロバートの前にも騎士が立ちはだかった。
「ランバート辺境伯とお見受けする。我はギルモア騎士団団長ダリル・エグバート・エンベリー。いざ、尋常に勝負せよ」
ギルモア騎士団のダリル。ロバートにとって忘れ得ぬ名だった。近衛騎士団時代に四年に一度の武芸競技会で剣と拳闘で優勝を争った男だった。負けるのではないかと意識したのは彼だけだった。
「いかにも、我はランバート辺境伯ロバート・アルバート・マカダム。しかと承った」
共に下馬した二人は剣を抜いた。細身の身体のダリルは果敢にロバートに攻撃を仕掛けた。だが、ロバートはそれを受け流した。ダリルは現役の騎士として鍛錬をしているから突きは鋭い。だが、ロバートより十歳年長だった。勢いに衰えが感じられた。間合いを詰めながら、ロバートはダリルの隙をうかがった。年を経てロバートもまた老練になっていた。二十代の頃は勢いだけで戦っていた。今はあの頃の勢いは減ったが、相手の技を見切る力は増していた。
隙が見えたのは対峙して10分ほどたった頃か、ダリルの剣先がロバートの左脇腹目がけて動いた時だった。いけると思ったダリルの一瞬の隙をロバートは見逃さなかった。ロバートの剣がダリルの左肩を冑の上から貫いた。軽量化して動きやすくなった甲冑のプレートは薄かった。剣を抜くと、プレートの間から血がこぼれ落ちた。ダリルの剣はロバートの甲冑の分厚い装甲に当たったものの貫くことは不可能だった。
倒れたダリルに駆け寄りたかったが、今は戦いのさなかである。見れば屋敷の入口の前では騎士と陸軍の歩兵たちの攻防が繰り広げられていた。入れてなるものかと必死に剣を振る騎士に対して歩兵たちはなかなか前に進めない。ロバートは甲冑の音を響かせて走った。
ロバートの背負った戦斧は一般的なものと長さは変わらないが、三日月形の斧の部分が通常の三倍の大きさだった。入口前の混戦の中に割り込んだロバートは戦斧をつかむや、頭上でビュンビュンと振り回した。敵も味方も危険を感じて後ずさった。
「扉ごときにいつまでかかってる!」
ロバートは戦斧の一撃で黒檀で作られた重厚な扉を叩き割った。人一人どころか三人は通れそうな大きな穴が開き、そこから歩兵らが屋敷へと侵入した。
そのどさくさに紛れ騎士の一人が背後からロバートに拳銃を向けた。だが、銃弾は甲冑の分厚いバックプレートに弾き飛ばされた。ロバートは甲冑を着ているとは思えぬほどのすばやさで銃弾の衝撃に反応し戦斧で拳銃と騎士の指を数本弾き飛ばしてしまった。飛んだ拳銃は騎士の後ろにいた別の騎士のバシネットに当たった。騎士は頭部への衝撃で気絶し後ろに倒れた。
「後ろから狙うとは卑怯なり」
襲った騎士の首根っこを左手でつかむと、右手で腹に拳をくれてやった。騎士は昏倒した。甲冑がなければ絶命してもおかしくはなかった。
残っていた騎士達は震えあがった。彼らは疲れ果て抵抗する気力も失っていた。ロバートが壊れたドアから中に入っていくのを止められる者はいなかった。
屋敷の中では兵達が次から次へと隠れていた使用人らを引きずり出していた。皆抵抗はしなかった。
ロバートは三階へと向かった。伯爵は最上階の三階にいると予想したのだ。後に従うのは辺境騎士団のワーレンとグレアムである。彼らも主同様伯爵家の騎士らを倒してここまで来た。
ガチャガチャと音をさせて廊下を進みながら左右の部屋のドアを開けていく。開かないドアは戦斧で壊した。人っ子一人出て来ない。
が、目指す伯爵の居場所はすぐにわかった。なぜなら突き当りの部屋の手前にある部屋のドアを開けた途端に騎士達が十人ばかり飛び出して来たからである。これだけ警備を厚くしているということは突き当りの部屋にいるとしか考えられない。
騎士達は三人に簡単に倒された。何かの罠ではないかと思うほど張り合いがなかった。が、それも仕方のないことだった。憤怒の表情のロバートが古式ゆかしい頑丈な甲冑姿で現れたら大抵の者は戦意を失う。たとえ戦意があっても巨大な戦斧を見れば勝てる気がしない。
「罠かもしれません。私が先に」
ワーレンが先行しようとするのをロバートは押しとどめた。
「マカダムの男はいつも先頭を行くことになっている。お前たちは俺に続け」
そう言って突き当りの部屋の両開きの扉に向けて勢いをつけて体当たりした。玄関のドアよりも薄い木製のドアは見事に粉々になった。ワーレンもグレアムも絶句するしかなかった。
「ギルモア伯爵、貴殿に貴族裁判所から召喚状が発せらた。抵抗をやめて出頭せよ」
ロバートの大音声に天井からつり下げられたシャンデリアがガタガタと音を立てて揺れた。
執務用の大きな机の前の椅子に座った礼服の伯爵はいささかも姿勢を崩さなかった。
「これはランバートの辺境伯殿。ものものしいお姿だな」
「そちらがものものしい対応をされたので、それに合わせただけだ」
「明日は貴殿の結婚式ではないか。かようなところで暴れたと花嫁が知れば呆れるのではないか」
「その花嫁の名誉を汚したのはそちであろうが。しかも王子の花嫁のお国入りを阻止せんと策略をめぐらすとは。そちは、この国の花嫁たちの敵も同然」
伯爵は立ち上がると、ゆっくりと口を開いた。
「私の娘は花嫁になれなかった。この悲しみがおぬしにわかるか!」
ロバートは一歩伯爵に近づいた。
「わからぬ」
「そうであろうな。バートリイの娘のような頑丈な花嫁をもらうおぬしにはわかるまい!」
甲冑の音がまた伯爵に近づいた。
「御令嬢が早くに亡くなったのはお悔み申し上げる。だが、それを理由に公爵令嬢が王子殿下にパイを投げるなどという噂を流すのは許されぬのではないか。ましてや王家の慶事に水を差そうとするなど言語道断!」
ロバートは机を挟んで伯爵の正面に立った。
突如として伯爵はカラカラと笑った。ワーレンとグレアムは禍々しさを感じ、身構えた。
「何が慶事だ。隣国と剣を幾度も交えた辺境伯家の当主とは思えぬ言葉だな」
「確かに当家は隣国と長きに渡り戦いを続けてきた。だが、戦いたくて戦ったのではない。国土を守るために我らは数多の血を流してきた。それは隣国とて同じこと。私は王女のお国入りを前に隣国の代表らと何度も書簡を交わし直接会って交渉もした。彼らもまた我らと同じ己の国を愛する者達であった。様々な意見の違いはあっても、彼らは血にまみれた両国の歴史を終わらせることを願っていた。無論、王女と王子の結婚だけですべて解決するわけではあるまい。この先も隣国とは様々な軋轢が生まれよう。だが、これまでの血にまみれた歴史を我らの世代で変えたいと我が国の陛下も隣国の国王も等しく願っているということは両国の共通の認識だ。その認識を得られただけでも、御成婚に勝る慶事はあるまい」
「笑止!」
伯爵は舌打ちした。ロバートは伯爵を睨みつけた。
「笑止とはそちの振舞だ。そちのやったことは国益を損なう恐れのある行為だ。某国の間諜と通じていたという証拠もつかんでいる。我が城に潜伏していた某国の間諜の調査の過程で他にも領内に間諜がいることが判明した。ギルモア伯爵領から入って来た行商人との関わりもな」
サリーの調査の過程で彼女が侍女になる手助けをしたと思われる人物を調べるとギルモア伯爵領出身の行商人に身をやつした密偵とのつながりが判明したのだ。すでに密偵は身柄を拘束され王都に先日護送、取り調べを受けている。
それでも伯爵は落ち着いていた。
「それがどうした?」
「外患誘致がどれほどの重罪かわかっているのか」
「片腹痛いわ。慶事の立役者などと言われ調子にのっておる若造が何を言うか」
「片腹痛いとはこっちの台詞ですわ」
その声にロバートはぎょっとした。なぜ? ここにいるはずがないのに。ギルモア伯爵もまたロバートの後方に目を向けた。
「さっきから聞いていれば、娘が花嫁になれなかった悲しみとか言ってるけれど、一番悲しんでいるのは、その娘よ。ユーニスは賢く優しい人だった。父親の今の姿を見れば嘆き悲しむことでしょうね」
声の主は、目にも鮮やかな緋色の乗馬服を身に着けたアデルだった。上半身は身体の線がはっきりわかるジャケット、下半身は丈の長いスカートである。
振り返ったロバートは叫んだ。
「ここは女の来る場所ではない! 帰れ!」
「帰れません。あなた一人に私の名誉を汚した男の成敗を任せるなど。この人の流した噂で私だけでなく姉や母、祖母も傷付いたのです。バートリイ公爵家の女を代表してビクトリア・ガブリエラ・アデレード・ホークはダンカン・イーグルに一矢報いに参りました」
アデルはずんずんと進む。後ろではワーレンとグレアムが不安げな視線を向けている。倒された騎士らを乗り越えてやって来たアデルの迫力に二人は道を空けてしまったのだ。
ロバートはアデルを止めたかったが、甲冑の腕や胴に付けられた金属製の鋭利なスパイクの存在を思い出した。敵との格闘では武器になるが、甲冑を着けていない身体に触れたら怪我をさせてしまう。
「これは公爵令嬢。わざわざのおこしいたみいります」
伯爵はそう言いながら、机の抽斗からそっと取り出した拳銃を後ろ手に隠した。ロバートが背中を向けている今こそ好機である。最新式の拳銃なら目の前に見えるバックプレートを撃ち抜くなどたやすいことだった。すでに他の者の撃った銃弾を弾き返した痕がある。そこを狙えば確実だ。たとえ公爵令嬢に見られても菓子を作っていた小娘に何ができようか。
アデルは静かに語り始めた。
「ギルモア伯爵、罪を認めて貴族裁判所の召喚に応じなさい。それがユーニスが一番喜ぶことです。ユーニスはこの世を、生まれ育ったこの国を愛していた。お茶会で地理の専門書の話を聞いたことがあります。九つの私には理解できないこともあったけれど、ユーニスが国土の自然を愛し、見たことのない異国の風景に強い興味を持っていることはよくわかりました。そんなユーニスを、あなたは裏切ったのです」
「おまえのような小娘にユーニスの名を口にする資格はない」
伯爵は動揺していた。亡き娘と同い年のアデルは容姿も声も違うのに、なぜか娘を思い出させた。
『お父さま、この世界はなんて美しいのかしら。私は皆が大好き、お父さまもお母様もお兄様もお義姉様も。この世界にいつまでもいたいのに、大好きな家族と別れたくないのに……』
亡くなる数時間前に持ち直した娘はそう言っていた。伯爵は気弱なことを言うものではないとしか言えなかった。
その数時間後、娘の容態は急変した。仕事のため王都に戻る途中だった伯爵は死に目に会うことはかなわなかった。あの時、なぜ言えなかったのか。私も家族も皆がおまえを愛していると。おまえが生まれてきてくれてどれだけ幸せだったことか。ありがとうと。悔やんでも悔やみきれなかった。
あの日から伯爵は幸せな娘達を直視できなくなった。なぜ、うちの娘だけが。彼の中でこの世の不条理への憎しみが募った。
そして今、明日挙式を控えた幸せな娘が娘の名を口にした。この娘を幸せにしてなるものか。辺境伯め、愛する者を奪われる苦しみを味わうがいい。
「許さん」
伯爵はそう言うと、後ろ手に持っていた拳銃をアデルに向けた。次の瞬間、銃声が部屋に響いた。
土煙の中、騎士達は向かってくる伯爵家の騎士と剣を交えていた。どちらの騎士も銃を所持しているのだが、剣で戦うという騎士の慣習を頑なに守っていた。
ロバートの前にも騎士が立ちはだかった。
「ランバート辺境伯とお見受けする。我はギルモア騎士団団長ダリル・エグバート・エンベリー。いざ、尋常に勝負せよ」
ギルモア騎士団のダリル。ロバートにとって忘れ得ぬ名だった。近衛騎士団時代に四年に一度の武芸競技会で剣と拳闘で優勝を争った男だった。負けるのではないかと意識したのは彼だけだった。
「いかにも、我はランバート辺境伯ロバート・アルバート・マカダム。しかと承った」
共に下馬した二人は剣を抜いた。細身の身体のダリルは果敢にロバートに攻撃を仕掛けた。だが、ロバートはそれを受け流した。ダリルは現役の騎士として鍛錬をしているから突きは鋭い。だが、ロバートより十歳年長だった。勢いに衰えが感じられた。間合いを詰めながら、ロバートはダリルの隙をうかがった。年を経てロバートもまた老練になっていた。二十代の頃は勢いだけで戦っていた。今はあの頃の勢いは減ったが、相手の技を見切る力は増していた。
隙が見えたのは対峙して10分ほどたった頃か、ダリルの剣先がロバートの左脇腹目がけて動いた時だった。いけると思ったダリルの一瞬の隙をロバートは見逃さなかった。ロバートの剣がダリルの左肩を冑の上から貫いた。軽量化して動きやすくなった甲冑のプレートは薄かった。剣を抜くと、プレートの間から血がこぼれ落ちた。ダリルの剣はロバートの甲冑の分厚い装甲に当たったものの貫くことは不可能だった。
倒れたダリルに駆け寄りたかったが、今は戦いのさなかである。見れば屋敷の入口の前では騎士と陸軍の歩兵たちの攻防が繰り広げられていた。入れてなるものかと必死に剣を振る騎士に対して歩兵たちはなかなか前に進めない。ロバートは甲冑の音を響かせて走った。
ロバートの背負った戦斧は一般的なものと長さは変わらないが、三日月形の斧の部分が通常の三倍の大きさだった。入口前の混戦の中に割り込んだロバートは戦斧をつかむや、頭上でビュンビュンと振り回した。敵も味方も危険を感じて後ずさった。
「扉ごときにいつまでかかってる!」
ロバートは戦斧の一撃で黒檀で作られた重厚な扉を叩き割った。人一人どころか三人は通れそうな大きな穴が開き、そこから歩兵らが屋敷へと侵入した。
そのどさくさに紛れ騎士の一人が背後からロバートに拳銃を向けた。だが、銃弾は甲冑の分厚いバックプレートに弾き飛ばされた。ロバートは甲冑を着ているとは思えぬほどのすばやさで銃弾の衝撃に反応し戦斧で拳銃と騎士の指を数本弾き飛ばしてしまった。飛んだ拳銃は騎士の後ろにいた別の騎士のバシネットに当たった。騎士は頭部への衝撃で気絶し後ろに倒れた。
「後ろから狙うとは卑怯なり」
襲った騎士の首根っこを左手でつかむと、右手で腹に拳をくれてやった。騎士は昏倒した。甲冑がなければ絶命してもおかしくはなかった。
残っていた騎士達は震えあがった。彼らは疲れ果て抵抗する気力も失っていた。ロバートが壊れたドアから中に入っていくのを止められる者はいなかった。
屋敷の中では兵達が次から次へと隠れていた使用人らを引きずり出していた。皆抵抗はしなかった。
ロバートは三階へと向かった。伯爵は最上階の三階にいると予想したのだ。後に従うのは辺境騎士団のワーレンとグレアムである。彼らも主同様伯爵家の騎士らを倒してここまで来た。
ガチャガチャと音をさせて廊下を進みながら左右の部屋のドアを開けていく。開かないドアは戦斧で壊した。人っ子一人出て来ない。
が、目指す伯爵の居場所はすぐにわかった。なぜなら突き当りの部屋の手前にある部屋のドアを開けた途端に騎士達が十人ばかり飛び出して来たからである。これだけ警備を厚くしているということは突き当りの部屋にいるとしか考えられない。
騎士達は三人に簡単に倒された。何かの罠ではないかと思うほど張り合いがなかった。が、それも仕方のないことだった。憤怒の表情のロバートが古式ゆかしい頑丈な甲冑姿で現れたら大抵の者は戦意を失う。たとえ戦意があっても巨大な戦斧を見れば勝てる気がしない。
「罠かもしれません。私が先に」
ワーレンが先行しようとするのをロバートは押しとどめた。
「マカダムの男はいつも先頭を行くことになっている。お前たちは俺に続け」
そう言って突き当りの部屋の両開きの扉に向けて勢いをつけて体当たりした。玄関のドアよりも薄い木製のドアは見事に粉々になった。ワーレンもグレアムも絶句するしかなかった。
「ギルモア伯爵、貴殿に貴族裁判所から召喚状が発せらた。抵抗をやめて出頭せよ」
ロバートの大音声に天井からつり下げられたシャンデリアがガタガタと音を立てて揺れた。
執務用の大きな机の前の椅子に座った礼服の伯爵はいささかも姿勢を崩さなかった。
「これはランバートの辺境伯殿。ものものしいお姿だな」
「そちらがものものしい対応をされたので、それに合わせただけだ」
「明日は貴殿の結婚式ではないか。かようなところで暴れたと花嫁が知れば呆れるのではないか」
「その花嫁の名誉を汚したのはそちであろうが。しかも王子の花嫁のお国入りを阻止せんと策略をめぐらすとは。そちは、この国の花嫁たちの敵も同然」
伯爵は立ち上がると、ゆっくりと口を開いた。
「私の娘は花嫁になれなかった。この悲しみがおぬしにわかるか!」
ロバートは一歩伯爵に近づいた。
「わからぬ」
「そうであろうな。バートリイの娘のような頑丈な花嫁をもらうおぬしにはわかるまい!」
甲冑の音がまた伯爵に近づいた。
「御令嬢が早くに亡くなったのはお悔み申し上げる。だが、それを理由に公爵令嬢が王子殿下にパイを投げるなどという噂を流すのは許されぬのではないか。ましてや王家の慶事に水を差そうとするなど言語道断!」
ロバートは机を挟んで伯爵の正面に立った。
突如として伯爵はカラカラと笑った。ワーレンとグレアムは禍々しさを感じ、身構えた。
「何が慶事だ。隣国と剣を幾度も交えた辺境伯家の当主とは思えぬ言葉だな」
「確かに当家は隣国と長きに渡り戦いを続けてきた。だが、戦いたくて戦ったのではない。国土を守るために我らは数多の血を流してきた。それは隣国とて同じこと。私は王女のお国入りを前に隣国の代表らと何度も書簡を交わし直接会って交渉もした。彼らもまた我らと同じ己の国を愛する者達であった。様々な意見の違いはあっても、彼らは血にまみれた両国の歴史を終わらせることを願っていた。無論、王女と王子の結婚だけですべて解決するわけではあるまい。この先も隣国とは様々な軋轢が生まれよう。だが、これまでの血にまみれた歴史を我らの世代で変えたいと我が国の陛下も隣国の国王も等しく願っているということは両国の共通の認識だ。その認識を得られただけでも、御成婚に勝る慶事はあるまい」
「笑止!」
伯爵は舌打ちした。ロバートは伯爵を睨みつけた。
「笑止とはそちの振舞だ。そちのやったことは国益を損なう恐れのある行為だ。某国の間諜と通じていたという証拠もつかんでいる。我が城に潜伏していた某国の間諜の調査の過程で他にも領内に間諜がいることが判明した。ギルモア伯爵領から入って来た行商人との関わりもな」
サリーの調査の過程で彼女が侍女になる手助けをしたと思われる人物を調べるとギルモア伯爵領出身の行商人に身をやつした密偵とのつながりが判明したのだ。すでに密偵は身柄を拘束され王都に先日護送、取り調べを受けている。
それでも伯爵は落ち着いていた。
「それがどうした?」
「外患誘致がどれほどの重罪かわかっているのか」
「片腹痛いわ。慶事の立役者などと言われ調子にのっておる若造が何を言うか」
「片腹痛いとはこっちの台詞ですわ」
その声にロバートはぎょっとした。なぜ? ここにいるはずがないのに。ギルモア伯爵もまたロバートの後方に目を向けた。
「さっきから聞いていれば、娘が花嫁になれなかった悲しみとか言ってるけれど、一番悲しんでいるのは、その娘よ。ユーニスは賢く優しい人だった。父親の今の姿を見れば嘆き悲しむことでしょうね」
声の主は、目にも鮮やかな緋色の乗馬服を身に着けたアデルだった。上半身は身体の線がはっきりわかるジャケット、下半身は丈の長いスカートである。
振り返ったロバートは叫んだ。
「ここは女の来る場所ではない! 帰れ!」
「帰れません。あなた一人に私の名誉を汚した男の成敗を任せるなど。この人の流した噂で私だけでなく姉や母、祖母も傷付いたのです。バートリイ公爵家の女を代表してビクトリア・ガブリエラ・アデレード・ホークはダンカン・イーグルに一矢報いに参りました」
アデルはずんずんと進む。後ろではワーレンとグレアムが不安げな視線を向けている。倒された騎士らを乗り越えてやって来たアデルの迫力に二人は道を空けてしまったのだ。
ロバートはアデルを止めたかったが、甲冑の腕や胴に付けられた金属製の鋭利なスパイクの存在を思い出した。敵との格闘では武器になるが、甲冑を着けていない身体に触れたら怪我をさせてしまう。
「これは公爵令嬢。わざわざのおこしいたみいります」
伯爵はそう言いながら、机の抽斗からそっと取り出した拳銃を後ろ手に隠した。ロバートが背中を向けている今こそ好機である。最新式の拳銃なら目の前に見えるバックプレートを撃ち抜くなどたやすいことだった。すでに他の者の撃った銃弾を弾き返した痕がある。そこを狙えば確実だ。たとえ公爵令嬢に見られても菓子を作っていた小娘に何ができようか。
アデルは静かに語り始めた。
「ギルモア伯爵、罪を認めて貴族裁判所の召喚に応じなさい。それがユーニスが一番喜ぶことです。ユーニスはこの世を、生まれ育ったこの国を愛していた。お茶会で地理の専門書の話を聞いたことがあります。九つの私には理解できないこともあったけれど、ユーニスが国土の自然を愛し、見たことのない異国の風景に強い興味を持っていることはよくわかりました。そんなユーニスを、あなたは裏切ったのです」
「おまえのような小娘にユーニスの名を口にする資格はない」
伯爵は動揺していた。亡き娘と同い年のアデルは容姿も声も違うのに、なぜか娘を思い出させた。
『お父さま、この世界はなんて美しいのかしら。私は皆が大好き、お父さまもお母様もお兄様もお義姉様も。この世界にいつまでもいたいのに、大好きな家族と別れたくないのに……』
亡くなる数時間前に持ち直した娘はそう言っていた。伯爵は気弱なことを言うものではないとしか言えなかった。
その数時間後、娘の容態は急変した。仕事のため王都に戻る途中だった伯爵は死に目に会うことはかなわなかった。あの時、なぜ言えなかったのか。私も家族も皆がおまえを愛していると。おまえが生まれてきてくれてどれだけ幸せだったことか。ありがとうと。悔やんでも悔やみきれなかった。
あの日から伯爵は幸せな娘達を直視できなくなった。なぜ、うちの娘だけが。彼の中でこの世の不条理への憎しみが募った。
そして今、明日挙式を控えた幸せな娘が娘の名を口にした。この娘を幸せにしてなるものか。辺境伯め、愛する者を奪われる苦しみを味わうがいい。
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