9 / 21
09 東京のバナナ
しおりを挟む
今回の話は東京土産のバナナ型のお菓子の話ではない。
これも前回同様戦争に関係する話である。
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★
関東地方の田舎にカヨちゃん(仮名)という女の子がいました。
カヨちゃんの家は大家族です。両親と父方のおじいちゃん、それに兄弟姉妹が合わせて十人いました。といっても上のお兄ちゃんやお姉ちゃんは東京に働きに出たり、お嫁に行ったりしたので、家にいるのはカヨちゃんを含めて前後の五人だけでした。
家には田畑があり、戦争が終わった後も食糧には困りませんでした。東京にいる親戚が米や野菜をもらいに来たくらいです。
戦争が終わって数年後、カヨちゃんは小学校六年生になり、修学旅行に行くことになりました。
行き先は東京です。その頃はまだ食糧が不足していたので、自分が食べるだけのお米を旅館に持って行くことになりました。お米が用意できなければ修学旅行には行けなかったのです。
カヨちゃんの家は当然用意できました。費用もおこづかいも出せました。
修学旅行が近づいたある日、先生が修学旅行の心得を教室で語りました。
決して一人で勝手に行動しないこと、時間を守ること等を話した後、先生は言いました。
「上野駅には浮浪児がいるので、決して目を合わせてはいけません」
カヨちゃんも他の子どもたちも何の疑問も持たずに、先生の話を聞きました。
たぶん、子どもたちの親もそれを聞いても何の不思議も感じなかったことでしょう。
浮浪児というのは、戦争で親を亡くした子どもたちで、上野駅には大勢いたのです。戦争が終わって何年もたつのに。
いよいよ修学旅行です。
生まれて初めてデパートに行きました。上野の西郷さんの銅像も見ました。上野駅の浮浪児は目に入りませんでした。何しろ、どこも人がいっぱいで浮浪児に気付くどころではありません。迷わないように先生や友達から離れないようにするのが精一杯でした。
旅館に着くと、玄関の前に置かれた「○○小学校修学旅行御一行様」の看板を見たのか、バナナ売りが来ていました。
カヨちゃんはバナナなんて食べたことがありません。勿論、他の同級生も。
皆、お土産にバナナを買いました。
カヨちゃんも家族のためにバナナを買いました。
修学旅行から帰って、早速家族でバナナを食べました。妹も弟も嬉しそうです。カヨちゃんも食べました。この世の中にこんなおいしいものがあるなんて、夢のようでした。
それから数十年。
八月のある夜、上野駅の浮浪児のことをテレビで放送していました。
カヨちゃんはすっかり忘れていた修学旅行の前の先生の話を思い出しました。
修学旅行で買ったバナナのことも。
カヨちゃんは帰省していた子どもたちに語りました。
「目を合わせたらいけないって修学旅行の前に先生が……」
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★
これは母の体験談である。
先日の公共放送を見た時に語ってくれたこの話は初めて聞く話だった。
母は家族とともに戦後、豊かではないが、食べるに困らない暮らしをしていた。
母の両親は親戚の面倒をみることができるだけの精神的ゆとりもあったようだ。
それにしても小学校の先生の発言、今だったら大炎上確実である。浮浪児の中には教え子と同じ年齢の子どももいるはずなのに。しかもそうなったのは彼ら自身の責任ではないのに。
だが、当時は誰もそれを不思議に思っていなかったのだ。恐ろしい時代である。
その日の食べ物にも困る子どもと、食べ物に困らなかった子どもが同じ都市にいる。食べ物に困っている子どもと目を合わせるなと子どもに言う大人がいる。
なんだかやりきれなくなってくる。
一方、父はその頃、戦後生まれた弟の世話や家の手伝いで忙しかった。農家ではなかったので、弁当箱にはふかした芋しか入っていなかった。農家の子どもたちは白い米の飯の詰まった弁当を食べていた。
同じ年代でも、いろいろな子どもたちがいた。
共通するのは戦争の体験である。
駅の浮浪児は戦争で家族と住む家を失った。父は戦争で家を焼かれ母や弟とあちこちを転々とした。父の父(祖父)は、外地から命からがら引き上げてきた。母は直接の影響は受けていないが、兄が予科練に行っている。また別の兄は満州で病死している。
どこの家族にもそういう歴史があるのだと思う。
我が家は親が語ってくれたが、中には体験を語れない親、祖父母もいると思う。語れないのは語れない理由があるからだろう。いや、うちの親だってすべてを語ってはいないだろう。それぞれがそれぞれの事情を抱えて生きてきたのだ。それでも、ただただ前を向いて戦後の社会を生きてきた、その事実には頭を垂れるしかない。
それにしても、修学旅行の東京土産がバナナだったとは。
今ではバナナの形のお菓子が定番の東京土産になっている。私も上京した折、土産に買ったことがある。
バナナという果物には不思議な魅力があるようだ。
8月20日追記
修学旅行から七十年以上たって当時の先生の話を思い出すということは、心の奥でなんだかおかしいと母も感じていたのかもしれない。ただ、誰も違和感を口にしなかったために心の奥底にしまっていたのではないか。たまたま浮浪児の話をテレビで見たことで記憶がよみがえったのだろう。
8月になると戦争の話題をやたらテレビで放送するので、ややもすると辟易してしまいそうになるけれど、これがきっかけで昔の思い出話を聞くことができるのは、いいことかもしれない。
親の思い出話を聞けるのも親が元気だからこそ。
これも前回同様戦争に関係する話である。
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★
関東地方の田舎にカヨちゃん(仮名)という女の子がいました。
カヨちゃんの家は大家族です。両親と父方のおじいちゃん、それに兄弟姉妹が合わせて十人いました。といっても上のお兄ちゃんやお姉ちゃんは東京に働きに出たり、お嫁に行ったりしたので、家にいるのはカヨちゃんを含めて前後の五人だけでした。
家には田畑があり、戦争が終わった後も食糧には困りませんでした。東京にいる親戚が米や野菜をもらいに来たくらいです。
戦争が終わって数年後、カヨちゃんは小学校六年生になり、修学旅行に行くことになりました。
行き先は東京です。その頃はまだ食糧が不足していたので、自分が食べるだけのお米を旅館に持って行くことになりました。お米が用意できなければ修学旅行には行けなかったのです。
カヨちゃんの家は当然用意できました。費用もおこづかいも出せました。
修学旅行が近づいたある日、先生が修学旅行の心得を教室で語りました。
決して一人で勝手に行動しないこと、時間を守ること等を話した後、先生は言いました。
「上野駅には浮浪児がいるので、決して目を合わせてはいけません」
カヨちゃんも他の子どもたちも何の疑問も持たずに、先生の話を聞きました。
たぶん、子どもたちの親もそれを聞いても何の不思議も感じなかったことでしょう。
浮浪児というのは、戦争で親を亡くした子どもたちで、上野駅には大勢いたのです。戦争が終わって何年もたつのに。
いよいよ修学旅行です。
生まれて初めてデパートに行きました。上野の西郷さんの銅像も見ました。上野駅の浮浪児は目に入りませんでした。何しろ、どこも人がいっぱいで浮浪児に気付くどころではありません。迷わないように先生や友達から離れないようにするのが精一杯でした。
旅館に着くと、玄関の前に置かれた「○○小学校修学旅行御一行様」の看板を見たのか、バナナ売りが来ていました。
カヨちゃんはバナナなんて食べたことがありません。勿論、他の同級生も。
皆、お土産にバナナを買いました。
カヨちゃんも家族のためにバナナを買いました。
修学旅行から帰って、早速家族でバナナを食べました。妹も弟も嬉しそうです。カヨちゃんも食べました。この世の中にこんなおいしいものがあるなんて、夢のようでした。
それから数十年。
八月のある夜、上野駅の浮浪児のことをテレビで放送していました。
カヨちゃんはすっかり忘れていた修学旅行の前の先生の話を思い出しました。
修学旅行で買ったバナナのことも。
カヨちゃんは帰省していた子どもたちに語りました。
「目を合わせたらいけないって修学旅行の前に先生が……」
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★
これは母の体験談である。
先日の公共放送を見た時に語ってくれたこの話は初めて聞く話だった。
母は家族とともに戦後、豊かではないが、食べるに困らない暮らしをしていた。
母の両親は親戚の面倒をみることができるだけの精神的ゆとりもあったようだ。
それにしても小学校の先生の発言、今だったら大炎上確実である。浮浪児の中には教え子と同じ年齢の子どももいるはずなのに。しかもそうなったのは彼ら自身の責任ではないのに。
だが、当時は誰もそれを不思議に思っていなかったのだ。恐ろしい時代である。
その日の食べ物にも困る子どもと、食べ物に困らなかった子どもが同じ都市にいる。食べ物に困っている子どもと目を合わせるなと子どもに言う大人がいる。
なんだかやりきれなくなってくる。
一方、父はその頃、戦後生まれた弟の世話や家の手伝いで忙しかった。農家ではなかったので、弁当箱にはふかした芋しか入っていなかった。農家の子どもたちは白い米の飯の詰まった弁当を食べていた。
同じ年代でも、いろいろな子どもたちがいた。
共通するのは戦争の体験である。
駅の浮浪児は戦争で家族と住む家を失った。父は戦争で家を焼かれ母や弟とあちこちを転々とした。父の父(祖父)は、外地から命からがら引き上げてきた。母は直接の影響は受けていないが、兄が予科練に行っている。また別の兄は満州で病死している。
どこの家族にもそういう歴史があるのだと思う。
我が家は親が語ってくれたが、中には体験を語れない親、祖父母もいると思う。語れないのは語れない理由があるからだろう。いや、うちの親だってすべてを語ってはいないだろう。それぞれがそれぞれの事情を抱えて生きてきたのだ。それでも、ただただ前を向いて戦後の社会を生きてきた、その事実には頭を垂れるしかない。
それにしても、修学旅行の東京土産がバナナだったとは。
今ではバナナの形のお菓子が定番の東京土産になっている。私も上京した折、土産に買ったことがある。
バナナという果物には不思議な魅力があるようだ。
8月20日追記
修学旅行から七十年以上たって当時の先生の話を思い出すということは、心の奥でなんだかおかしいと母も感じていたのかもしれない。ただ、誰も違和感を口にしなかったために心の奥底にしまっていたのではないか。たまたま浮浪児の話をテレビで見たことで記憶がよみがえったのだろう。
8月になると戦争の話題をやたらテレビで放送するので、ややもすると辟易してしまいそうになるけれど、これがきっかけで昔の思い出話を聞くことができるのは、いいことかもしれない。
親の思い出話を聞けるのも親が元気だからこそ。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
5
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる