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16 カレーの匂い
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カレーの匂いはどうしてこんなにも食欲をそそるのか。
しかも、今目の前にないのに、想像するだけでこんな匂いと簡単に思い出せる。
けれど、何らかの事情で食べられない時にかぐカレーの匂いというのは、なんと憎らしいものか。
学校を出て最初に就職した会社は小さな同族会社だった。社長一家が営業や経理をそれぞれ仕切っていた。そこに入った私は赤の他人である。ふだんはそんなことを気にするほどのことはなく、普通に働いていた。もっとも最初は電話の応対に失敗したり、伝票を間違ったり、大変な迷惑をかけることもあった。仕事がなかなか終わらず毎日残業続きで疲労困憊で家に帰っていた。幸い親と同居していたので、食事の支度の心配はなかった。
だが、家族内の争いが職場に持ち込まれると空気はすぐに悪くなる。社員のいる前で社長の息子と社長の娘婿が口論をするなどということがあると、聞いているこちらまで気分が悪くなった。
その日は営業会議の後で特に二人の罵り合いはひどかった。吐き気がしてきた。
数日前から、肩こりがひどいこともあり、その日は定時に帰宅した。
翌朝、ひどく身体が重く食欲がなかった。胸がむかつき嘔吐した。
熱っぽかったので風邪をひいたかもしれないと思った。仕事を休む連絡を入れ母の勤める病院(母は准看護師だった)に行った。すぐに外科のある病院に行くように言われたので診てもらうと、虫垂炎だった。
虫垂のある辺りが痛いわけでもないのにと思ったが、背中が痛くなることがあるのだと言う。肩こりだと思っていたのがそれだったらしい。
白血球の数も増加していた。熱もあった。
というわけでその日の午後に手術となった。
幸いにも、病院の医師の技術のおかげで手術は無事に終わった。後で傷跡を見ると腹の脂肪の割に小さかった。虫垂炎の手術というのは簡単そうに思われるが、技量の差が出るものらしい。現に翌日入院してきた患者は別の病院で虫垂炎の手術をした後、悪化して運ばれて来たという患者だった。夫の小学校の同級生は虫垂炎の手術をした後悪化して亡くなったとも聞いた。
さて、部分麻酔の手術が終わり、病室で待つ家族と顔を合わせた後、私は一人になった。病室は四人部屋だったと思うがその時は二人しか入っていなかった。もう一人の老婦人は眠っていた。
何をする気にもならず、うとうとしているとどこからか香辛料の匂いがしてきた。
カレーだった。カレーの匂いがしたのだ。
身体を少しだけ起こして窓の外を見た。中庭を隔てて一階の様子が見えた。そこは給食室だった。ガラス窓の向こうで大鍋をかきまわしているさまが見えた。鍋の中身は黄色い。カレーだ。人参の色らしい赤色も見えた。
胃腸の手術をする外科なのに刺激の強いカレーが夕食にあるのは不思議だった。後で知ったがこの病院は個人病院で院長が外科、院長夫人が産婦人科の医者なので、産婦人科で出されるものだったらしい。
ああ、カレーが食べたい。
手術をしてこの数日来の身体の不調の原因を取り去ったせいか、肩こりはなくなり、胸のむかつきもない。
食欲らしいものが湧いていた私の嗅覚と視覚をカレーがダイレクトに刺激したのだ。
けれど、無理な話だった。
盲腸の手術の後、すぐに飲食はできない。
私の甦った食欲は刺激されているのに。今は点滴でしか栄養がとれないのだ。
ああ、食べたい。欲望が滾る。それなのに食べることができない。まるで拷問のようだ。
本当は手術をしたのは夢で目が覚めたら夕食がカレーライスかもしれないと夢想したが、それはあくまでも夢想だ。ありえないことはわかっている。
だが、人はありえないことを望むものだ。いやありえないからこそ、一層強く願うのかもしれない。
その夜、身体が回復したら、必ずカレーを食べようと思った。
まだ若かった私の身体は回復が早かった。
とはいえ刺激の強いカレーはなかなか夕食には出なかった。
数か月後のこと、やっと食べることができた。
仕事のほうは手術後しばらくして退職した。
数か月間アルバイトをした後、次の職場の就職試験を受け採用された。今度は自宅から通えないので、職場近くのアパートに引っ越した。
引っ越した夜、私は自宅から持って来た鍋でカレーを作った。
これからこうやって一人で暮らしていくのだと思いながら。
でも、作っている途中で気付いた。多過ぎだと。
カレーだけでなく炊飯器に入れた米も。
自宅で作る時は家族の分も作る。何も考えずにいつもの習慣でいつもの分量で作っていたのだ。
おかげで翌日の朝も昼も夜も作る必要はなかったけれど。
カレーだけでなく味噌汁、煮物等一人分を作るのに慣れるのに半年近くかかった。
以後、夫と結婚するまで十年以上、私は一人分の料理を作り続けた。
カレーだけは少々多めに作ったけれど。
しかも、今目の前にないのに、想像するだけでこんな匂いと簡単に思い出せる。
けれど、何らかの事情で食べられない時にかぐカレーの匂いというのは、なんと憎らしいものか。
学校を出て最初に就職した会社は小さな同族会社だった。社長一家が営業や経理をそれぞれ仕切っていた。そこに入った私は赤の他人である。ふだんはそんなことを気にするほどのことはなく、普通に働いていた。もっとも最初は電話の応対に失敗したり、伝票を間違ったり、大変な迷惑をかけることもあった。仕事がなかなか終わらず毎日残業続きで疲労困憊で家に帰っていた。幸い親と同居していたので、食事の支度の心配はなかった。
だが、家族内の争いが職場に持ち込まれると空気はすぐに悪くなる。社員のいる前で社長の息子と社長の娘婿が口論をするなどということがあると、聞いているこちらまで気分が悪くなった。
その日は営業会議の後で特に二人の罵り合いはひどかった。吐き気がしてきた。
数日前から、肩こりがひどいこともあり、その日は定時に帰宅した。
翌朝、ひどく身体が重く食欲がなかった。胸がむかつき嘔吐した。
熱っぽかったので風邪をひいたかもしれないと思った。仕事を休む連絡を入れ母の勤める病院(母は准看護師だった)に行った。すぐに外科のある病院に行くように言われたので診てもらうと、虫垂炎だった。
虫垂のある辺りが痛いわけでもないのにと思ったが、背中が痛くなることがあるのだと言う。肩こりだと思っていたのがそれだったらしい。
白血球の数も増加していた。熱もあった。
というわけでその日の午後に手術となった。
幸いにも、病院の医師の技術のおかげで手術は無事に終わった。後で傷跡を見ると腹の脂肪の割に小さかった。虫垂炎の手術というのは簡単そうに思われるが、技量の差が出るものらしい。現に翌日入院してきた患者は別の病院で虫垂炎の手術をした後、悪化して運ばれて来たという患者だった。夫の小学校の同級生は虫垂炎の手術をした後悪化して亡くなったとも聞いた。
さて、部分麻酔の手術が終わり、病室で待つ家族と顔を合わせた後、私は一人になった。病室は四人部屋だったと思うがその時は二人しか入っていなかった。もう一人の老婦人は眠っていた。
何をする気にもならず、うとうとしているとどこからか香辛料の匂いがしてきた。
カレーだった。カレーの匂いがしたのだ。
身体を少しだけ起こして窓の外を見た。中庭を隔てて一階の様子が見えた。そこは給食室だった。ガラス窓の向こうで大鍋をかきまわしているさまが見えた。鍋の中身は黄色い。カレーだ。人参の色らしい赤色も見えた。
胃腸の手術をする外科なのに刺激の強いカレーが夕食にあるのは不思議だった。後で知ったがこの病院は個人病院で院長が外科、院長夫人が産婦人科の医者なので、産婦人科で出されるものだったらしい。
ああ、カレーが食べたい。
手術をしてこの数日来の身体の不調の原因を取り去ったせいか、肩こりはなくなり、胸のむかつきもない。
食欲らしいものが湧いていた私の嗅覚と視覚をカレーがダイレクトに刺激したのだ。
けれど、無理な話だった。
盲腸の手術の後、すぐに飲食はできない。
私の甦った食欲は刺激されているのに。今は点滴でしか栄養がとれないのだ。
ああ、食べたい。欲望が滾る。それなのに食べることができない。まるで拷問のようだ。
本当は手術をしたのは夢で目が覚めたら夕食がカレーライスかもしれないと夢想したが、それはあくまでも夢想だ。ありえないことはわかっている。
だが、人はありえないことを望むものだ。いやありえないからこそ、一層強く願うのかもしれない。
その夜、身体が回復したら、必ずカレーを食べようと思った。
まだ若かった私の身体は回復が早かった。
とはいえ刺激の強いカレーはなかなか夕食には出なかった。
数か月後のこと、やっと食べることができた。
仕事のほうは手術後しばらくして退職した。
数か月間アルバイトをした後、次の職場の就職試験を受け採用された。今度は自宅から通えないので、職場近くのアパートに引っ越した。
引っ越した夜、私は自宅から持って来た鍋でカレーを作った。
これからこうやって一人で暮らしていくのだと思いながら。
でも、作っている途中で気付いた。多過ぎだと。
カレーだけでなく炊飯器に入れた米も。
自宅で作る時は家族の分も作る。何も考えずにいつもの習慣でいつもの分量で作っていたのだ。
おかげで翌日の朝も昼も夜も作る必要はなかったけれど。
カレーだけでなく味噌汁、煮物等一人分を作るのに慣れるのに半年近くかかった。
以後、夫と結婚するまで十年以上、私は一人分の料理を作り続けた。
カレーだけは少々多めに作ったけれど。
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