ふたりの旅路

三矢由巳

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第一章

拾壱 始まりの朝(R15)

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 志緒は未知の世界に投げ出されていた。この世に様々な不思議はあれど、男と女の営みは姉に見せられた絵で見た以上に不可思議だった。
 源之輔の手と唇がこれほどの魔力を持っているとは。さらには時折囁かれる言葉やため息の心地よさは想像もしていなかった。そんなことは絵に描かれていなかったし、母も姉も口にしなかった。
 志緒は源之輔にされた口づけを自分からもした。きっと源之輔は喜んでくれるだろうと思った。
 源之輔は拒まなかった。志緒が唇を離した後、囁いた。

「あなたという人は、おそろしい」

 そんなことを言われるとは思わず、志緒は源之輔を見つめた。

「いけないことをしたのでしょうか」
「逆です。こんなことをされたら、私は私を止められなくなってしまう。おまけに、あなたのその目。見つめられたら、私の身体も熱くなってしまう」

 源之輔は下帯を解いた。
 志緒は源之輔が人であると同時にけだものであることを思い知らされた。ただし、そのけだものは時に優しく夢の中に志緒を誘った。が、猛々しい正体を現すと、志緒に鋭い痛みを与えた。その瞬間、夢はうつつに引き戻された。

「い、い、いた! 痛い!」
「しばしのこと、許せ」

 切羽詰まったような声を上げ、源之輔はさらに志緒に痛みを与え続けた。けだもののような吐息に志緒は慄いた。が、不意に大きな吐息を上げ、志緒の胸に頭を預けた。

「源之輔さま、大丈夫ですか」
「あ、ああ、大丈夫だ。まるで、夢を見ているようだ」

 志緒にとってはうつつだった。痛みを早くなんとかしたかった。

「痛いので、離れてくださいますか」
「え、そうだな。すまない」

 源之輔はゆっくりと身体を離した。志緒は懐紙が枕元に置いてあることに気付いた。こういうことのために用意されていたらしい。手を伸ばそうとすると先に源之輔がそれを取った。

「動かなくていい。つらかっただろう」

 労わりに満ちた声だった。けだものから人に戻った源之輔は志緒の身体を拭くと、懐紙を蓋つきの犬張子に入れた。
 志緒の身体に寝間着を掛けながら源之輔は言った。
 
「これで、私たちは夫婦です」

 母や姉が言っていたのはこういうことかと志緒はやっと悟った。
 源之輔は裸のまま横になり自分も寝間着を掛けた。

「これからずっとこうして契り合いましょう」
「……痛いのですが」
「それは……たぶん慣れるかと」
「慣れるのですか」

 信じられなかった。こんなことに慣れるなんて。

「はい。その、世の奥方は皆」

 母や姉も。確かに二人とも朝痛そうな顔をしていたことはない。

「わかりました。慣れるように修練いたします」
「修練……そうですね。修練しなければいけませんね」

 源之輔の声がすぐそばで聞こえたのにはっとした。

「修練は今夜はもう」
「忘れないうちにしましょう」

 昼間の源之輔とはまったく違う勢いに志緒は完全に呑まれてしまった。
 再び未知の世界に投げ出された志緒はもう源之輔にすがることしかできなかった。

「お願い、もう、これ以上は」
「修練しなければいけないと言ったのは、あなただ」
「明日の朝、丸髷を結わないと。遠藤様に挨拶に行かなければいけないのに」

 志緒のその言葉に源之輔は動きを止めた。

「わかりました」

 その声を聞いて安堵した志緒はそのまま眠りに落ちていった。





 一番鶏の声で目を覚ました志緒は床から這い出た。源之輔は寝息を立てていた。初めて見る寝顔ははっとするほど幼く見えた。物音を立てないように身なりを整え津奈の居室の前の廊下まで来た。

「母上、おはようございます」
「入りなさい」

 そっと襖を開けると、すでに化粧までした津奈がいた。
 何も言わず、津奈は志緒の髪に櫛を入れた。半刻もせぬうちに見事な丸髷が結われた。奥勤めの経験のある津奈は髪を結うのが得意だった。

「ありがとうございます」
「ありがとうと言いたいのは私もです。よくうちに来てくれました」
 
 津奈は志緒のうなじに付けられた赤い痣に気付いていた。若い二人は幸せな夜を過ごせたらしい。
 今朝は台所の仕事はしなくていい、後で二人で仏間に来るようにと津奈に言われ。志緒は部屋に戻った。
 が、源之輔はいなかった。床はきれいに片付けられていた。
 薄化粧し紅を唇に差した。鏡に映る姿は髪型以外昨日とは変わらない。
 明かり障子を開けると庭が見えた。築山の向こうで風を切るような音がした。見ると源之輔がいた。素振りをしていた。志緒にも尋常の腕ではないことがわかった。
 昨夜の案山子とはまったく違う身体と動きを思い出した。それだけで身体が熱くなってきた。
 いけない、仏間に行かなくてはと思い明かり障子を閉めた。
 ふと幸之助のことを思い出した。もし、彼が死ななければ、昨夜と同じことをしたのだろうか。想像しようとしたができなかった。幸之助の顔はぼやけ、声も思い出せない。無理に想像しようとすると源之輔の顔や吐息しか思い浮かばなかった。

「きれいに結ってもらえましたね」

 源之輔の声で志緒は我に返った。振り返って見た顔は寝顔とは違う男の顔だった。

「おはようございます。素振りは何回されるのですか」
「今朝は百回です。起きるのが遅かったので」
「母上に仏間に来るようにと言われました」

 仏間に行くとすでに甚太夫と津奈、それに佐江がいた。
 朝の挨拶をした後、そろって仏壇に手を合わせた。志緒は新たに駒井家に入った自分をよろしくと心の中で言い、同時に幸之助に謝罪した。
 あんなに悲しみ悔やんだのに、いつの間にか夢を見なくなった。そして源之輔と祝言を挙げ夫婦になった。幸之助の顔も声も忘れてしまった。そんな自分を許して欲しいと。

「幸之助もきっと草葉の陰で喜んでいる」

 噛みしめるような甚太夫の言葉だった。そうなのだろうかと志緒は思う。二十三で祝言を三カ月後に控えて死んだ男が志緒と源之輔のことを喜んでくれるのだろうか。いくら幸之助がいい人だったとはいえ、未練がないとは思えない。

「源之輔殿、志緒さんを大事にしてくださいね」

 津奈は源之輔にそれとなく自重を促した。うなじの痣はぎりぎり襟で隠せる位置にあった。人に見られたら志緒が恥ずかしい思いをするのだ。

「かしこまりました。これからも末永くよろしくお願いします」
「よろしくお願いします」

 志緒も一緒に新しい父と母に頭を下げた。

「お兄さま、志緒姉さま、よろしくお願いします」

 佐江も新たな兄と兄嫁に頭を下げた。

「私、本当は源之輔さまを最初に見た時にお兄さまと違い過ぎて嫌だと思ったけれど、今は違ってよかったと思います」
「まあ、佐江、なんということを」

 津奈は娘の発言を咎めた。

「母上、お兄さまと源之輔さまは違うのよ。それでいいの。もしそっくりだったら、気味が悪いもの。志緒姉さまもそうでしょう」
「佐江、そのようなことをきくものではありません」

 津奈はぴしゃりと言った。佐江は口をつぐんだ。
 もし源之輔と幸之助がそっくりだったら……。志緒は想像した。源之輔に抱き締められるたびに幸之助を思い出してしまうだろう。そのたびに幸之助の無念を想像してしまうとしたら……。

「佐江さん、幸之助さまと源之輔さまが違ってよかったと私も思います」

 その日の夕刻、遠藤家と村田家への挨拶から戻って来た志緒は佐江にそう囁いた。佐江はにっこり笑った。

「でしょ。それにしても志緒姉さまが元気になられてよかった。お兄さまに連れて行かれたらどうしようと思ってたの」
「え?」
「皆何も言わないし言うなと言われたけれど、母上は志緒姉さまのお母さまと二人でよく泣いてたの」

 何も知らなかった。志緒が夢とうつつの間をさまよっている間、二人の母は志緒を思い苦しんでいたのだ。

「知らなかった。教えてくれてありがとう」
「どういたしまして」

 佐江は無邪気に笑った。
 台所に行くと、津奈が下女のいよとともに夕餉の支度をしていた。たすきがけをした志緒がお手伝いしますと言うと、津奈はそこにあるねぎを切ってと言った。
 幸之助の一周忌の前日の朝のねぎを思い出した。あの匂いが志緒をうつつに戻したのかもしれなかった。
 志緒は黙々とねぎを小口に切った。鼻を突く匂いがうれしかった。二人の母の気持ちが嬉しかった。
 こうやって私はうつつを生きていくのだと志緒は思った。










 さて、その夜のこと。城の奥、御国御前と言われる亀の方の部屋。
 亀の方は一日おきに食後の酒を嗜むのを楽しみにしていた。この日もアタリメを肴に国の銘酒を味わっていた。四十を超えた彼女の自慢は美貌だけではない。子どもを三人産んだにも関わらず彼女の歯は丈夫だった。アタリメも問題なく食べられた。
 彼女の前に控えるのは中臈の美園である。美園の前にも膳があったが、彼女はまったく口をつけていなかった。

「美園、して二人の婚儀はうまくいったのだな」

 低い声の問いに美園ははいと答えた。その声もいつもより低い。

「そうか。そなたも妹の祝言出たかったであろう」
「奥勤めをすると決めた時から、親の死に目には会えぬと思っております。ましてや妹の祝言は」
「そなたの見立てでは駒井源之輔はかなりの使い手とのことだな」
「はい」

 亀の方はうーんと唸った。

「のう、そなたに前にも話したと思うが、清が英吉利エゲレスに戦で負けた。この先、諸国が我が国に攻めてくれば、物騒なことになる。殿の身の回りも気を付けねばならぬ。となれば馬廻組の中でも使い手の駒井源之輔は殿の側に仕えることになるやもしれぬな」
「はい」
「熊千代、おっと若殿様であったな。間違うてしもうた」

 亀の方は笑った。

「江戸に行ってしまわれてからもう十二年になるというのに、わらわの中ではいつまでも子どものまま。会いたいと思うても、江戸からお呼びがなければ……」
「若殿様が家督を継がれれば、お呼びがありましょう」
「であればよいがのう。話の続きをせねばな。若殿様のために、源之輔を絶対に……」
「はい、わかっております」
「よいな」

 美園は亀の方の空になった盃に酒を注いだ。

「会いたいのう、熊千代」

 盃を飲み干し亀の方は呟いた。



   第一章 おわり



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