ふたりの旅路

三矢由巳

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第二章 

参 火事

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 幸之助の三回忌は無事に終わった。
 身体の健康を取り戻した志緒は駒井家の若奥様として台所を仕切り、客の応対をする甚太夫を津奈とともに裏から支えた。
 佐江夫婦が帰り、三人だけになると座敷はやけに広く見えた。

「源之輔殿がいないのがなんだか物足らないような」

 津奈の言う通り、幸之助に代わって源之輔の存在は駒井家の中で大きくなっていた。今頃源之輔は江戸で何をしているのかと三人で話すことが増えていた。

「まったくだな。源之輔だけでなく志緒さんも娘のようにこの家にすっかりなじんでくれた。有難いことだ」
「おそれいります」
「他人行儀なことを言わないでね。私たちはあなたたちがいてくれて本当に嬉しいの」

 志緒は不思議な心持ちを覚えていた。
 ここにいる三人、源之輔も含めると四人は元は別々の家に生まれた赤の他人である。それが家族として暮らしている。血の繋がった村田家の家族も大切だが、今は駒井家の人々も同じように大切になっていた。

「そうだとも。この前のことも、わしは志緒さんの身が無事でよかったと思う。子どものことは残念だが志緒さんが元気になってくれてこんなに嬉しいことはない」
「源之輔殿の勤番が早く終わってくれればよいのだけれど」
 
 津奈は顔を曇らせた。甚太夫はそんな妻や志緒を励ますためか、遠藤弥兵衛から耳に入れた話を始めた。

「実は、これはまだ内々の話なのだが、源之輔は勤めぶりが江戸の御屋敷の方々に認められ、若殿様の御側に仕えることになったらしい」

 若殿様とは亀の方の産んだ熊千代様のことである。殿様と奥方様の間に男子が生まれなかったので、嫡子となったのである。年は二十。将軍様への御目見えも済ませ嫡子と認められている。

「年の頃も近いので話し相手にということだが、いずれ側用人に取り立てらえるやもしれぬ」
「まあ、何と名誉なこと」

 津奈は喜んでいた。
 志緒も喜びたかったが、江戸の若殿様の側に仕えるとなるとしばらくは国に戻ってこれないのではないかと気付いた。

「江戸に定府じょうふになるのですか」
「若殿様が家督を継いだら国に帰ってらっしゃいますよ」

 津奈は志緒の不安に気付いたようだった。
 確かに領主になれば参勤交代で江戸から国に戻ることになるだろう。だが、殿様の家柄は御公儀の役職に就くことができる。つまり若殿様が何かの役職に就いたら江戸定府になってしまうのだ。当然、用人になったとしたら源之輔も定府である。

「もし定府になるようだったら、江戸に行けばよい」

 甚太夫の言葉に志緒は驚いた。

「そうなったら父上や母上は」
「佐江もおるし、わしらはわしらでやっていける。殿様や若殿様に奉公することが一番だ」

 確かに奉公が第一かもしれない。だが、これから老いてゆく養父母を思うと気がかりであった。

「その時は父上と母上も江戸に」
「わしらは、幸之助の墓を守らねばな」

 甚太夫は津奈を見た。津奈も頷いた。
 幸之助の供養を家族として行うために志緒は嫁にきたはずだった。それなのに、源之輔が出世すればそれがかなわなくなる。出世は悪いことではない。豊かな暮らしができる。が、それで供養ができなくなるというのは残念なことであった。

「まだ本決まりというわけではないようだから、先走った話はこの辺にしておこう」

 甚太夫は話を締めくくった。





 その夜、志緒はなかなか眠れなかった。
 幸之助の三回忌を終えた安心感で眠れるかと思っていたのだが、源之輔が定府になるかもしれないという話を聞いたことであれこれ考えを巡らせてしまったせいかもしれなかった。
 源之輔が来年帰って来てくれたらいいけれど、定府になったら志緒が江戸に行くことになるのだろうか。江戸までの旅を想像するだけで恐ろしかった。川止めだけでなく山賊や宿場に出る護摩の灰とかいう盗人など、国にいれば遭わなくともいい災難があると聞いている。女一人ではとても江戸まで行けるような気がしない。
 それに山中吉之進のような悪意を持った者がいるかもしれない。吉之進がなぜあのような狼藉に及んだのか、母は逆恨みだろうと言っていた。養子に出た弟が祝言を挙げたのに、吉之進は縁談が破談になったという。破談になったのは母親の杉の言動が原因なのに、駒井家や志緒を恨んでの行為だということだった。
 そうなのだろうと志緒も思う。だが、一方であの時吉之進が放った言葉が今も胸をズキズキと疼かせる。

『けっ、幸之助のいいなずけだったくせに、後釜にさっさと乗り換えやがって』

 乗り換え。幸之助のいいなずけから源之輔のいいなずけに変わったこと。いくら駒井家に乞われたとはいえ、確かに何も知らない他人から見ればそうなのかもしれない。
 亡くなった時あんなに悲しんでいたのに、それを忘れて幸せな暮らしをしていることが許せないと思う人がいるのだ。
 けれどそう思う資格があるのは幸之助だけだと思う。三カ月後に祝言を控えていたのに、わけもわからず道場で倒れて息を吹き返すことなくそのまま死んでしまった幸之助になら恨まれても仕方がないと志緒は思うのだ。それから母親の津奈、父の甚太夫にも。
 それなのに吉之進に言われてしまった。一番無関係のはずなのに。いや無関係ではない。源之輔の兄なのだから。ならばなおのことおかしい。腹違いとはいえ兄なのだから弟の幸せを願うべきではないか。弟の妻の幸せも願って当然ではないか。やはり、彼が志緒を足蹴にして心無い言葉を投げつけたのはおかしい。
 そんなおかしな者の言うことで苦しむなんて馬鹿馬鹿しい。
 頭ではわかる。けれどいったん投げつけられた言葉の刃は志緒の心を疼かせる。 
 それでもようやくうつらうつらし始めた頃、突如早鐘の音が聞こえ、志緒は飛び起きた。





 城下には火の見櫓が四か所にある。武家地に一か所、町人地に三か所ありこれだけで城下全体が見渡せた。
 この音は近いので武家地の鐘のようだった。町人地の火事は冬場に幾度かあるが、武家地で、しかも夏の今は珍しかった。
 それでも火事は火事である。志緒は寝間着のまま、座敷に向かった。
 すでに父は起き出し、寝間着のままの母が火事装束の着付けを手伝っていた。
 武家地の場合は各職毎に火消組が組織され、火災発生時には出動する。特に馬廻組は城が近いので城や家老などの重臣の住む地域の火消に出動する。
 甚太夫は若くはないので火消の現場には行かないが、それでも火事装束で現場近くで待機することになっている。
 
「行って参る」

 どこに行くか言わずに甚太夫は遠藤弥兵衛らと火事場へ向かった。

「どこなのでしょう」
「煙の臭いがしないから近所ではないでしょう。この鐘だとそろそろ火の勢いが弱くなっているのかもしれません」

 鐘の音の間隔が長くなっていた。火の勢いは間隔の長さでわかる。長くなっているということは弱まっているのだ。
 四半刻(約三十分)ほどして遠藤家の三男が火事は普請作事方の屋敷が集まっている住吉町で起きて先ほど鎮火したと知らせに来た。 
 ほっとしたが、普請作事方の山中家のことが気になった。
 出動した馬廻組のために遠藤家で炊き出しをすると三男が告げたので志緒は加勢に行った。遠藤家の台所に行くと同じ組の主婦たちが来ていた。志緒は遠藤の妻の指示を受けて他の家の若い嫁たちと炊きあがった飯を握った。
 支度が終わったところに、各家の下男たちが来て飯や汁、漬物を遠藤家の庭先に運んで行った。明るくなってきたので庭先を見れば、数名の男達が飯を口に運んでいた。
 遠藤の長男の弥助があれこれ指図していた。
 志緒たちは釜や鍋などを洗って一段落ついたので休憩した。そこへ遠藤の長男の弥助がやって来て母親に耳打ちした。
 他の妻女たちと話をしていた志緒を遠藤の妻が手招きした。
 嫌な予感がした。志緒は静かに席を離れ遠藤の妻に導かれ、台所の横の小部屋に入った。
 襖を閉めると、彼女は言った。

「火元は山中藤兵衛様の屋敷です。近くの家には燃え移っておりません」
「山中様ですか……」
「藤之介殿は仕事で遠山村へ出ており無事です。藤兵衛様は亡くなられました。杉様はお怪我をなさっています。吉之進は、行方がわかりません」

 最悪の事態だった。志緒のために蜜柑を手に入れてくれた藤兵衛が火事で亡くなったとは。だが、吉之進が行方不明とはどういうことなのか。

「座敷牢にいたのなら、亡くなったのでは」
「私が聞いたのは行方がわからぬということだけです。志緒さん、すぐに家へ。息子たちや他の者を見張りに立たせます」

 もし吉之進が生きていたら、逆恨みが高じて再び志緒や駒井家の人々を襲うかもしれない。誰もが考えることだった。




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