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第三章
漆 疑惑
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さすがに小田原まで一気に駆けおりるというわけにはいかない。途中には勾配のきつい下り、上りもあり起伏にとんだ山道が続いた。それでも次第にゆるやかになる下り道に志緒は安堵していた。
雲助たちの腕のおかげで山駕籠は暗くなる前に小田原に到着した。源之輔と佐助もやや遅れたが無事に旅籠の前に着いた。
三人が無事に到着したのを見届けた雲助たちは小田原の問屋場に帰って行った。
「よい方たちでしたね」
志緒は心からそう思った。
「今回はいい雲助に当たったのですよ。あの旅籠の紹介のおかげです」
佐助はしみじみと言う。
小田原の旅籠もまた家中が利用しているということで志緒と源之輔は相部屋になることもなく静かな部屋に案内された。落ち着くと箱根の宿場で聞いた辻斬りのことが思い出された。
「そういえば辻斬りをした者はいかがしたのでしょうか」
「何も聞いていないのでまだ捕まっていないのかもしれません」
歩いていた源之輔の耳にも噂話は入ってこなかったようである。
「恐ろしいことですね。江戸でもさようなことはあるのですか」
「あります。人が大勢いると色々なことがありますから」
色々なこと。志緒には想像ができなかった。街中で人を斬る以外にどのような恐ろしいことがあるのか。訊くのが怖かった。
「ただ、屋敷の中にいる限りは恐ろしいことは起きないはずです。私達は赤坂の中屋敷の長屋に住むことになっています」
「お屋敷の中に長屋があるのですか」
「はい。広い庭には池もあります。鯉が何百匹と泳いでいます。下屋敷に行けば馬場もあります」
城下の重臣の方々の屋敷も広いが、鯉が何百匹もいる池など聞いたことがなかった。子どもの頃、女児だけ十人ほど御家老様のお屋敷に招かれたことがあった。姉と一緒に池の鯉を見た時、餌に群がる鯉の口を大きく開ける姿を見て怖いと思ったことを思い出した。あの時の鯉は今思えば五、六匹しかいなかったように思う。
「なんだか恐ろしい。鯉の餌やりだけでも大変なことでしょうね」
「確かに。鯉の餌やりなど想像したこともありませんでした」
源之輔は真面目な顔で言った。
「一体いくらかかることか」
志緒はまるで姉佐登の夫誠之助のようだと思った。勘定方の誠之助は時折家中の費えについて愚痴を姉に語っていた。他の家族に聞こえないようにしているが、二人の部屋の前の廊下を通る時に聞こえてくることがあった。
「旦那様は御家中のことを案じているのですね」
「いえ、あなたこそよく考えている。費えが大変とは」
「あ、私は、餌をやる時に集まる鯉が恐ろしいと思ったのです。口を大きく開けてバシャバシャと水の音が聞こえて。小さい頃に御家老様の家のお庭で見たのです。たった五匹か六匹の鯉だったのに物凄い音で、子ども心になんて怖いんだろうと」
源之輔が笑いを堪えているのが志緒にはわかった。鯉が怖いなんて言うのではなかったと思った。
「申し訳ありません。私は勘違いをしていた。まったくなんてことだ」
「え? 私のことがおかしかったのでしょう」
「いえ、勘違いした私がおかしくて」
源之輔は笑い出した。志緒もつられて笑っていた。
翌朝出立の前に佐助が三島の辻斬りの話を聞かせてくれた。相部屋になった商人が話してくれたという。
「街道から少し離れた薮で用を足そうとした旅人が若い女が倒れているのを見つけたそうで。役人を呼んで調べると刀傷で、それも袈裟懸けに斬られたようで。恐らく剣術の心得のある者の仕業だということです。旅姿で、辺りの村でもその年頃の娘が行方知れずになっているという話もなく、一人旅の女だろうという話で。それで関所では怪しい侍を片っ端から調べてるそうで。ただ追いはぎではないらしく金目の物に手は付けられていないとか」
志緒は恐ろしいと思った。物を盗むのが目的ではなくまるで人殺しが目的のようではないか。
「恐ろしいこと」
「気を付けねばな。志緒さん、決して街道では一人にならぬように」
「旦那様がいれば大丈夫です」
志緒には心の底からそう思えた。
旅籠を出る前に源之輔が主に挨拶をしていた時だった。
「ちょっといいか」
二人組の羽織の武士が旅籠の中に入って来た。この辺りの役人だろうと志緒は思った。
「ここに侍が泊まっていると聞いた。ちょいと話を聞かせてもらえないか」
主は一瞬顔色を変えたがすぐに元に戻った。
「これはこれは、山田様と石川様。確かにお武家様がお泊りになっておりますが、何か」
「三島の話は聞いているだろ」
「恐ろしいことで」
「それでな、腕の立ちそうな侍を探してるんだ」
「お武家様は大抵剣術の腕がおありでしょう」
「それがそうでもないんだな。特に江戸のはな。だが田舎は違う」
山田という侍が源之輔をちらりと見た。
「昨日三島の話が伝わる前に関所を通った侍を調べろと言われてるんだ」
志緒は嫌な予感を覚えた。
「私に用がおありならそうおっしゃってください」
源之輔は男達二人に向き直った。
「話が早くて助かる。ちょいと番所まで来て欲しい。手形を持って」
「かしこまりました」
志緒は足元が冷たくなっていくような心持ちだった。
「大丈夫ですよ。志緒さんはここで待って。佐助、頼むぞ」
そう言って源之輔は男達と旅籠を出て行った。
「何かの手違いですよ。奥方様はお部屋でお休みください」
旅籠の主の声は温かだった。だが、志緒にとってこんなことは初めてだった。家族の誰かが取調を受けるなんて。
いったん履いたわらじをいつ脱いだかもわからぬまま、志緒は部屋に戻り源之輔を待った。
源之輔が三島の件に関わりがあるはずがなかった。とはいえ、もし役人に引き止められたら。もし戻って来なかったら。
宿の女将が入れてくれた茶も飲まぬまま、志緒は源之輔を待った。
雲助たちの腕のおかげで山駕籠は暗くなる前に小田原に到着した。源之輔と佐助もやや遅れたが無事に旅籠の前に着いた。
三人が無事に到着したのを見届けた雲助たちは小田原の問屋場に帰って行った。
「よい方たちでしたね」
志緒は心からそう思った。
「今回はいい雲助に当たったのですよ。あの旅籠の紹介のおかげです」
佐助はしみじみと言う。
小田原の旅籠もまた家中が利用しているということで志緒と源之輔は相部屋になることもなく静かな部屋に案内された。落ち着くと箱根の宿場で聞いた辻斬りのことが思い出された。
「そういえば辻斬りをした者はいかがしたのでしょうか」
「何も聞いていないのでまだ捕まっていないのかもしれません」
歩いていた源之輔の耳にも噂話は入ってこなかったようである。
「恐ろしいことですね。江戸でもさようなことはあるのですか」
「あります。人が大勢いると色々なことがありますから」
色々なこと。志緒には想像ができなかった。街中で人を斬る以外にどのような恐ろしいことがあるのか。訊くのが怖かった。
「ただ、屋敷の中にいる限りは恐ろしいことは起きないはずです。私達は赤坂の中屋敷の長屋に住むことになっています」
「お屋敷の中に長屋があるのですか」
「はい。広い庭には池もあります。鯉が何百匹と泳いでいます。下屋敷に行けば馬場もあります」
城下の重臣の方々の屋敷も広いが、鯉が何百匹もいる池など聞いたことがなかった。子どもの頃、女児だけ十人ほど御家老様のお屋敷に招かれたことがあった。姉と一緒に池の鯉を見た時、餌に群がる鯉の口を大きく開ける姿を見て怖いと思ったことを思い出した。あの時の鯉は今思えば五、六匹しかいなかったように思う。
「なんだか恐ろしい。鯉の餌やりだけでも大変なことでしょうね」
「確かに。鯉の餌やりなど想像したこともありませんでした」
源之輔は真面目な顔で言った。
「一体いくらかかることか」
志緒はまるで姉佐登の夫誠之助のようだと思った。勘定方の誠之助は時折家中の費えについて愚痴を姉に語っていた。他の家族に聞こえないようにしているが、二人の部屋の前の廊下を通る時に聞こえてくることがあった。
「旦那様は御家中のことを案じているのですね」
「いえ、あなたこそよく考えている。費えが大変とは」
「あ、私は、餌をやる時に集まる鯉が恐ろしいと思ったのです。口を大きく開けてバシャバシャと水の音が聞こえて。小さい頃に御家老様の家のお庭で見たのです。たった五匹か六匹の鯉だったのに物凄い音で、子ども心になんて怖いんだろうと」
源之輔が笑いを堪えているのが志緒にはわかった。鯉が怖いなんて言うのではなかったと思った。
「申し訳ありません。私は勘違いをしていた。まったくなんてことだ」
「え? 私のことがおかしかったのでしょう」
「いえ、勘違いした私がおかしくて」
源之輔は笑い出した。志緒もつられて笑っていた。
翌朝出立の前に佐助が三島の辻斬りの話を聞かせてくれた。相部屋になった商人が話してくれたという。
「街道から少し離れた薮で用を足そうとした旅人が若い女が倒れているのを見つけたそうで。役人を呼んで調べると刀傷で、それも袈裟懸けに斬られたようで。恐らく剣術の心得のある者の仕業だということです。旅姿で、辺りの村でもその年頃の娘が行方知れずになっているという話もなく、一人旅の女だろうという話で。それで関所では怪しい侍を片っ端から調べてるそうで。ただ追いはぎではないらしく金目の物に手は付けられていないとか」
志緒は恐ろしいと思った。物を盗むのが目的ではなくまるで人殺しが目的のようではないか。
「恐ろしいこと」
「気を付けねばな。志緒さん、決して街道では一人にならぬように」
「旦那様がいれば大丈夫です」
志緒には心の底からそう思えた。
旅籠を出る前に源之輔が主に挨拶をしていた時だった。
「ちょっといいか」
二人組の羽織の武士が旅籠の中に入って来た。この辺りの役人だろうと志緒は思った。
「ここに侍が泊まっていると聞いた。ちょいと話を聞かせてもらえないか」
主は一瞬顔色を変えたがすぐに元に戻った。
「これはこれは、山田様と石川様。確かにお武家様がお泊りになっておりますが、何か」
「三島の話は聞いているだろ」
「恐ろしいことで」
「それでな、腕の立ちそうな侍を探してるんだ」
「お武家様は大抵剣術の腕がおありでしょう」
「それがそうでもないんだな。特に江戸のはな。だが田舎は違う」
山田という侍が源之輔をちらりと見た。
「昨日三島の話が伝わる前に関所を通った侍を調べろと言われてるんだ」
志緒は嫌な予感を覚えた。
「私に用がおありならそうおっしゃってください」
源之輔は男達二人に向き直った。
「話が早くて助かる。ちょいと番所まで来て欲しい。手形を持って」
「かしこまりました」
志緒は足元が冷たくなっていくような心持ちだった。
「大丈夫ですよ。志緒さんはここで待って。佐助、頼むぞ」
そう言って源之輔は男達と旅籠を出て行った。
「何かの手違いですよ。奥方様はお部屋でお休みください」
旅籠の主の声は温かだった。だが、志緒にとってこんなことは初めてだった。家族の誰かが取調を受けるなんて。
いったん履いたわらじをいつ脱いだかもわからぬまま、志緒は部屋に戻り源之輔を待った。
源之輔が三島の件に関わりがあるはずがなかった。とはいえ、もし役人に引き止められたら。もし戻って来なかったら。
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