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第一章 厄介者
03 象の這子
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わらわが十になった時であった。勝姫に縁組の話が来た。相手は飛騨守様の若殿様であった。
その頃は萬福丸様と言っておったが、その名を聞いた時は、羨ましかった。萬福とは腹いっぱいのことであろうと思ったのじゃ。腹いっぱい食べることなど、できなんだからな。
奥女中の楽しみは食べることと着ること。なれど、わらわは他の者のお下がりばかり。食べる物も姫様方のお下がり。まあ、どの姫様も食は細いから残されるのだが、元々盛り付けも少ないから、お下がりも少ないのじゃ。いただいた菓子がまわることもあったが、たいていは最後になるから、わずかしかない。
一度、長命寺の桜餅がまわってな。わらわはせめて半分でもと思っていた。が、食べたのは桜餅を包んだ葉っぱ一枚。それしか残っておらなんだ。それでも塩の味と桜の香りがして、包まれていた餅は一体どんな味であったのかといろいろ考えをめぐらしたものじゃ。
そなたは食べたことがあるのか。
そうか、あるのか。
わらわは殿様の弟の血を引くというだけで、やっていることは端女同様なのに、外には出られなかったのだ。外に用事があって出る者らが羨ましかった。頼んで買ってきてもらおうにも、銭など持たされなかった。姫君は銭を触るものではないと言われてな。
桜餅を買いたいとは思わなかったが、外に出てみたかった。
だが、とうとうその折がめぐってきた。
きっかけは萬福丸様。勝姫は縁談に有頂天でな。奥女中らも、姫に気に入られてお輿入れのお供にしてもらおうと、あれこれと萬福丸様の噂を姫のお耳に入れていた。今思えば、おつきになってあわよくば側室にとでも思っておったのであろう。
その噂に象の話があったのだ。萬福丸様は象がお好きで浜御殿に見に行ったこともあると。それを聞いた勝姫は、象にまつわる物を探すようにまわりの者に命じたのじゃ。たかが八つの子どもの命令に大人が従うさまというのは、今思えば滑稽なことよ。だが、皆、目の色を変えて、象の絵を描いた草子などを集めておった。わらわはそれを横目で見ながら、繕い物や仕立物をしておった。わらわは歌は作れぬが、手先を使うことは嫌いではなかった。奥方様や側室の方々から頼まれてその頃からあれこれ作らされたものじゃ。
ある日のこと、勝姫に呼ばれた。象を布で作れと。一体、何のことかと思うたら、這子のように象の形に縫った物の中に綿を詰めたものを作れと言うのだ。
無理じゃと思った。象など絵でしか見たことがない。それを綿を入れて作るには前や後ろから見た姿がわからねばできぬ。
そう言うと、姫のそばにいた乳母が言うた。今度、象が浜御殿からお城まで公方様にご挨拶に伺うと。その行列を見ればよいと。見たいと思った。わらわは外に出たかったのだ。あの息の詰まるような屋敷の奥から。
あの日は暑かった。わらわは初めて外に出た。一人ではなく、女中と警護の侍を連れてだが。奥での恰好でいると目立つからと、町方の子どもの着物を着せられてな。本当の姫様なら駕籠に乗せられるのであろうが、わらわは歩いて、象の通る道まで行き待つことになった。わらわは外を歩ける嬉しさで暑さも忘れておった。
通りへ出ると、先触れの御徒がおってな。静かにせよ、騒いだら象が暴れると言っておった。皆、前にも見たことがあるとかで、大人も子どももおとなしくしておった。わらわも、黙って待っておった。人込みであったが、親切な人が見えないだろうと前に出してくれてな。供の女中も侍も後ろに突っ立っておったようじゃ。
やがて何やら牛の鳴くような、馬のいななきとも違う獣の声が聞こえた。誰かが象じゃと言う声が聞こえた。姿も見えぬうちから声が聞こえるとは、なんという大きな生き物なのだろうかと思って待っていると、先触れの御徒とはまた違う者達が列をなしてやって来た。いよいよ象のお出ましと待っていると、浜御殿の方からまた声が聞こえる。と、見えたのだ。白ではなく灰色の象であった。それが大勢の人に囲まれて、近づいてくるのが。
とにかく大きかった。囲んでいる者達の頭よりも上に大きな耳が見えたのだから。
声を出すなと言われても、皆ため息をついておった。呟く声も聞こえた。また、大きうなったと。
わらわはその姿を覚えるため、目を見開いた。これまで見たことのない大きさの生き物であった。しわの刻まれた肌、大きな耳、小さな目、長い鼻、柱のような足、身体のわりに小さな尻尾、一体、これを作ったのはいかなる神仏なのかと思うばかり。
と、わらわのちょうど目の前で象は足を止めた。そして、あろうことか、そこで粗相をしたのだ。
皆、笑いを堪えておった。大きな大きな糞であった。わらわの膝くらいの高さはあったやもしれぬ。やがて歩き出した象の後に従う者達は顔をしかめておった。行列が通り過ぎると、どこから来たのか、荷車を引いて来た者がおって、その糞を運んで行ってしまった。あれは恐らく近在の百姓であろうな。あれだけ立派な下肥はなかなか手に入るものではない。他にも糞をした場所はあったようだが、皆、あっという間になくなったそうじゃ。
わらわはいつまでもそこにいたかったが、周りに人もいなくなり、女中と侍が来たので、屋敷に戻ることになった。女中は象の粗相の跡に残る臭いにしかめっ面でな。わらわはおかしくてならなかった。
屋敷に戻るとすぐに象の絵を描いて布の断ち方を考えた。布は好きなだけ使ってよいということであったから、象だけでなく、背中に掛かっていた布も作ろう、布の刺繍もしてみようなどと考えるのは楽しかった。
頼まれた縫い物もあったから、空いた時間はすべて象に費やした。かれこれ二月以上かかってようやくできた。高さ一尺ほどのもので、我ながらよく作れたものと思う。
あれは八月の半ばであったか。その頃には勝姫の縁談は、話が決まったようで、皆えらいはしゃぎようであった。
わらわは綿を入れた象を勝姫に見せた。自分でも会心の出来であったから、何といわれるか楽しみだった。じゃが、勝姫は不機嫌だった。象を見て、ずいぶんと時がかかったなと言っただけであった。受け取ったそれを乳母に渡して、部屋に持って行けと言うと、わらわに一瞥もくれなんだ。
姉と慕ってくれずともよい、せめて良い出来じゃと言ってくれればよかったのだ。だが、たったそれだけであった。わらわはまたも裏切られた。あの勝姫が喜んでくれるなどと思っていた己が浅はかだと言えばそれまでなのだが。
その夜、わらわは初めて勝姫を呪った。あんな妹などいらぬと。
その頃は萬福丸様と言っておったが、その名を聞いた時は、羨ましかった。萬福とは腹いっぱいのことであろうと思ったのじゃ。腹いっぱい食べることなど、できなんだからな。
奥女中の楽しみは食べることと着ること。なれど、わらわは他の者のお下がりばかり。食べる物も姫様方のお下がり。まあ、どの姫様も食は細いから残されるのだが、元々盛り付けも少ないから、お下がりも少ないのじゃ。いただいた菓子がまわることもあったが、たいていは最後になるから、わずかしかない。
一度、長命寺の桜餅がまわってな。わらわはせめて半分でもと思っていた。が、食べたのは桜餅を包んだ葉っぱ一枚。それしか残っておらなんだ。それでも塩の味と桜の香りがして、包まれていた餅は一体どんな味であったのかといろいろ考えをめぐらしたものじゃ。
そなたは食べたことがあるのか。
そうか、あるのか。
わらわは殿様の弟の血を引くというだけで、やっていることは端女同様なのに、外には出られなかったのだ。外に用事があって出る者らが羨ましかった。頼んで買ってきてもらおうにも、銭など持たされなかった。姫君は銭を触るものではないと言われてな。
桜餅を買いたいとは思わなかったが、外に出てみたかった。
だが、とうとうその折がめぐってきた。
きっかけは萬福丸様。勝姫は縁談に有頂天でな。奥女中らも、姫に気に入られてお輿入れのお供にしてもらおうと、あれこれと萬福丸様の噂を姫のお耳に入れていた。今思えば、おつきになってあわよくば側室にとでも思っておったのであろう。
その噂に象の話があったのだ。萬福丸様は象がお好きで浜御殿に見に行ったこともあると。それを聞いた勝姫は、象にまつわる物を探すようにまわりの者に命じたのじゃ。たかが八つの子どもの命令に大人が従うさまというのは、今思えば滑稽なことよ。だが、皆、目の色を変えて、象の絵を描いた草子などを集めておった。わらわはそれを横目で見ながら、繕い物や仕立物をしておった。わらわは歌は作れぬが、手先を使うことは嫌いではなかった。奥方様や側室の方々から頼まれてその頃からあれこれ作らされたものじゃ。
ある日のこと、勝姫に呼ばれた。象を布で作れと。一体、何のことかと思うたら、這子のように象の形に縫った物の中に綿を詰めたものを作れと言うのだ。
無理じゃと思った。象など絵でしか見たことがない。それを綿を入れて作るには前や後ろから見た姿がわからねばできぬ。
そう言うと、姫のそばにいた乳母が言うた。今度、象が浜御殿からお城まで公方様にご挨拶に伺うと。その行列を見ればよいと。見たいと思った。わらわは外に出たかったのだ。あの息の詰まるような屋敷の奥から。
あの日は暑かった。わらわは初めて外に出た。一人ではなく、女中と警護の侍を連れてだが。奥での恰好でいると目立つからと、町方の子どもの着物を着せられてな。本当の姫様なら駕籠に乗せられるのであろうが、わらわは歩いて、象の通る道まで行き待つことになった。わらわは外を歩ける嬉しさで暑さも忘れておった。
通りへ出ると、先触れの御徒がおってな。静かにせよ、騒いだら象が暴れると言っておった。皆、前にも見たことがあるとかで、大人も子どももおとなしくしておった。わらわも、黙って待っておった。人込みであったが、親切な人が見えないだろうと前に出してくれてな。供の女中も侍も後ろに突っ立っておったようじゃ。
やがて何やら牛の鳴くような、馬のいななきとも違う獣の声が聞こえた。誰かが象じゃと言う声が聞こえた。姿も見えぬうちから声が聞こえるとは、なんという大きな生き物なのだろうかと思って待っていると、先触れの御徒とはまた違う者達が列をなしてやって来た。いよいよ象のお出ましと待っていると、浜御殿の方からまた声が聞こえる。と、見えたのだ。白ではなく灰色の象であった。それが大勢の人に囲まれて、近づいてくるのが。
とにかく大きかった。囲んでいる者達の頭よりも上に大きな耳が見えたのだから。
声を出すなと言われても、皆ため息をついておった。呟く声も聞こえた。また、大きうなったと。
わらわはその姿を覚えるため、目を見開いた。これまで見たことのない大きさの生き物であった。しわの刻まれた肌、大きな耳、小さな目、長い鼻、柱のような足、身体のわりに小さな尻尾、一体、これを作ったのはいかなる神仏なのかと思うばかり。
と、わらわのちょうど目の前で象は足を止めた。そして、あろうことか、そこで粗相をしたのだ。
皆、笑いを堪えておった。大きな大きな糞であった。わらわの膝くらいの高さはあったやもしれぬ。やがて歩き出した象の後に従う者達は顔をしかめておった。行列が通り過ぎると、どこから来たのか、荷車を引いて来た者がおって、その糞を運んで行ってしまった。あれは恐らく近在の百姓であろうな。あれだけ立派な下肥はなかなか手に入るものではない。他にも糞をした場所はあったようだが、皆、あっという間になくなったそうじゃ。
わらわはいつまでもそこにいたかったが、周りに人もいなくなり、女中と侍が来たので、屋敷に戻ることになった。女中は象の粗相の跡に残る臭いにしかめっ面でな。わらわはおかしくてならなかった。
屋敷に戻るとすぐに象の絵を描いて布の断ち方を考えた。布は好きなだけ使ってよいということであったから、象だけでなく、背中に掛かっていた布も作ろう、布の刺繍もしてみようなどと考えるのは楽しかった。
頼まれた縫い物もあったから、空いた時間はすべて象に費やした。かれこれ二月以上かかってようやくできた。高さ一尺ほどのもので、我ながらよく作れたものと思う。
あれは八月の半ばであったか。その頃には勝姫の縁談は、話が決まったようで、皆えらいはしゃぎようであった。
わらわは綿を入れた象を勝姫に見せた。自分でも会心の出来であったから、何といわれるか楽しみだった。じゃが、勝姫は不機嫌だった。象を見て、ずいぶんと時がかかったなと言っただけであった。受け取ったそれを乳母に渡して、部屋に持って行けと言うと、わらわに一瞥もくれなんだ。
姉と慕ってくれずともよい、せめて良い出来じゃと言ってくれればよかったのだ。だが、たったそれだけであった。わらわはまたも裏切られた。あの勝姫が喜んでくれるなどと思っていた己が浅はかだと言えばそれまでなのだが。
その夜、わらわは初めて勝姫を呪った。あんな妹などいらぬと。
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