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君と手にする明日は血の色

心の汗だよこれは

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 時間は夜。正確な時刻は不明。
 空の状態は、月が1つで、星はいっぱいだ。

 俺は、地下室――食料庫から持ってきた干し肉全部と美味しそうな果物を持って、洞窟の入口手前で、この異世界を眺めていた。

 そう、異世界だ。
 転生しちまった。
 どうすれば良いのか分からない。
 何をしたいのかも、分からない。

 もとの世界に帰っても、俺は浦島太郎状態だ。
 俺が死んでから、体感時間では何百年も経っている。
 俺が知っている人も、俺を知っている人も、もう生きていないだろう。

 もとの世界に帰りたいとは思えない。戻れるとも思っていない。
 かといって、この世界の言葉も分からない。
 方角も分からない。
 チートもない。

 生前で腕につけた技術もなく、現代知識も、俺には中学生までの記憶しかない。
 しかも、その記憶さえも薄れている。

「………………くそ。転生なんか、させやがって……」

 俺に、どうしろってんだよ……。もっと、別の人間にしろよ……。
 いろいろな考えが頭の中で暴れまわる。
 とにかく、腹を空かせてはいけない。その考えも、暴れまわった思考の内の1つだった。

 俺は石の上にあぐらをかいて、干し肉に手をかけた。
 うまくない。
 やけに塩っぱいし、ジャリジャリする。
 おまけにちょっと、生臭い。

 ああ……。
 母さんの手料理が食べたい。
 そんなふうに、ふと思ってしまって。

「っんく……ひっく……」
 知らずうちに、涙がこぼれていた。

 それを皮切りに、『死者の終着点』で擦れていた感情が、ぶわっと生気を帯びた。
 閉じ込められていた感情のカギが開き、俺の心を悲しみが揺さぶってくる。
 目をつむれば、母の笑顔が脳裏に浮かぶ。嬉しそうに笑う声が聞こえる。

「ううぅ……うう……」
 涙が悲しみを煽りたて、嗚咽が喉を詰まらせる。
 怒ると怖い母には、もう会えない。
 あの優しかった母には、もう2度と会えない。
 足がくさかった父にも、それをからかって笑いあう、家族の声も。
 あの暖かい家庭には、もう……戻れない。

「ううぅぁ……ぅうあああぁぁあ……」
 そのことがひどく悲しくて、辛くて……。
 けれど皮肉にも、泣けば泣くほど、生前の記憶が脳裏に浮かんで。
 辛いこともあった。死にたいと思うようなこともあった。
 だけど思い返してみれば、どの記憶も俺にとっては幸福なことだった。

 初めて告白をして、振られたとき。
 背中をさすって励ましてくれたのは、父親だった。

 不良に絡まれて、ケンカもしたことがなかった俺が心底ビビったとき。
 そんな不良どもを一喝して、追い払ってくれたのは母親だった。
 いつだって、俺のそばには両親がいた。
 友人がいた。
 そのことが、嬉しくて……。
 ……。
 いつか、母と別れる日が来ることは分かっていた。
 いつか、父と話しができなくなる日が来ることも分かっていた。

 まさか、数百年経ってから悔やむことになるなんて、思いもよらなかった。
 あの幸せな家庭に、俺はもう戻れないという事実が、辛すぎて。
「う、うぅぅうう……あぁぁぁあぁぁ……」
 俺は干し肉を頬張りながら、うずくまって泣き続けた……。


 気が付けば月は太陽へと変わり、星空は、快晴の青一色となっていた。
 記憶の1つ1つを想いながら、考え事をしていたからだろうか。
 時間の経過が、ひどく早く思えた。
 どうやら俺は、半日ものあいだ泣き続けていたらしい。
 ずずりと鼻をすする。

 終着点では涙がでなかった。悲しくもなかった。
 遠慮もなしに、これだけ泣いたのはいつぶりだろうか。
 こんなにもはっきりと、心の奥底から悲しみを吐き出したのは、いつ以来だっただろうか。

 時間でいえば数百年ぶり。
 記憶でいえば、小学5年生ぶりだ。

 おかげで、俺の両手は鼻水まみれだ。
 涙とともに溢れ出る鼻水――しかしここにはティッシュもなければ鼻をかめそうな葉っぱもない。
 仕方なく手で処理したけど、ちょっと後悔だ。
 と、まあ。
 心の奥底から吐き出せたからか、そんなふうに思えるくらいには、俺の心中は穏やかだった。


 うん。
 泣くっていう行為は、やっぱり大事だ。
 俺は死んだ。
 そして永い年月をかけて、転生した。

 それはどうやら、紛れもない事実なようで。
 受け入れようが、入れられまいが、転生してしまったものは仕方ない。
 受け入れたのは俺だし、要は考えようだ。

 なにも悲観的になることはない。

 希望か絶望か。
 どちらも考えることができる現状なら、どうせなら希望を抱こう。

 きっと大丈夫、そう言い聞かせて生きていこう。
 そのために、つまり……生きていくためには、どうすれば良いか。


 そんなこと、考えずとも一目瞭然だ。
 睡眠不足は万病の友。そして我らの敵。

 洞窟の地下へと降り、瓶のなかの水で鼻水のついた手を突っ込んで洗い落とす。
 ついで1階に戻り、寝床っぽいところに横になって、俺は元気よく叫んだ。


「おやすみなさい!」
 切り替えが大事だ。何事も。
 だからこそ、誰もいなくとも、自分に向かって明日への希望を願っての挨拶を忘れない。
 目を閉じ、楽しかった思い出を反芻する。
 いまこの瞬間にも、世界が滅びへ突き進んでいるとは、そんなこと、夢にも思わずに。

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