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1:二度目の生
1:二度目の生(1-3)
しおりを挟むぎょろりと半分飛び出したような目玉に、四本足の筋張った体躯。硬い皮膚は赤黒い色をしていて、体毛は生えていない。体長は個体によって多少の差があるが、新東京の人間の平均身長の二倍は優に超えている。体格に見合わない程の速度で移動し、獲物を屠る。鋭い鉤爪や牙で人や動物を噛み殺すけれど、その死体を残さず飲み込んで咀嚼するようなことは殆ど無い。
それは、食べることが目的だと考えるよりは、目に映る物を全て破壊しているのだと解釈する方がまだ自然に思えるような動作である、らしい。
ここまで全て、人伝てに耳にした話だ。それも全て『境界』付近に住む者達――つまり夏生自身も含めて、政府の放送以外ろくな情報源も持たないままで、異形が出没する境界外のすぐ近くで暮らさなくてはならない連中――の噂話だから、どこまで正しいのかは定かでなかった。此処が境界に面しているとは言っても、殆どの場合は先刻のように軍によって『外』で処理されるので、住民が奴らを目撃する機会は滅多にない。少なくともここ数年は、異形が境界の中まで侵入してきたという話は聞かない。
夏生が直接異形の姿を目にしたのは一度きり、それも十年前――父親を亡くした日だけだ。
案の定途中からパラパラと雨が降り始めて、漸く家に着いた頃には身体がすっかり濡れてしまっていた。
三階建ての集合住宅は、大通りからは少し外れた所にある。建物は地震が起きたら一瞬で崩れるのではないかと不安になるほど古く、鍵は越してきた時から壊れていたので後から自分達で購入した物を取り付けた。外付けの階段は踏みしめる度に軋むので、足取りは自然と慎重になる。こんな場所でも、壁と屋根があるだけで境界付近では上等な住処だった。二階の端にある六畳の一室で、夏生は母と姉と共に生活している。
ずぶ濡れで帰宅した息子を見た二人は苦い顔をしたが、すぐに慌ただしく拭く物を探してきてくれた。
半端な長さの黒髪に付いた水滴をタオルで軽く拭う。連日の雨で外に干せていないそれは、生乾きのままでじっとりと湿っていた。
帰宅が遅れた理由を一通り聞くと、母親は「はあ」と重い溜息を吐いた。
「危ないことはやめてって言ってるでしょう」
――馬鹿正直に事情を話さず、適当に誤魔化しておくべきだった。一瞬そう考えて後悔したが、すぐにそれも自分には無理なことだったと思い直す。
夏生には自分が口下手であるという自覚があった。同年代の子供と接する機会が少なかったせいなのか、都合の悪いことを隠したり、他愛無い冗談を言って場を和ますということがこの歳になっても上手く出来ない。そんな自分が吐くその場しのぎの嘘なんて、肉親にはきっとすぐに見破られてしまうことだろう。
「遅くなったのは悪かった、……けどそんなに心配しなくていい。俺は男だし、もう十七歳だ」
「十七なんてまだ子供よ。本当なら血液売買にも関わってほしくなかったのに」
「それは仕方ないだろう」
身体を擦り減らすことなく家族を養えるような仕事など得られないのだから、仕方ない。学も伝手もない青年を雇ってくれる口は近頃かなり減ってきている。母が良い顔をしないやり口に手を出した今だって、姉の稼ぎと合わせても三人が満足に暮らせる分に足りてはいないのだ。自分はまだ子供かもしれないけれど、その立場に甘えていられる状況でもない。母も夏生の考えは分かっているのか、血液売買の件に関してはそれ以上何も触れようとしなかった。
「見るからに様子がおかしかったんでしょう、そういう人には手を貸さないで」
「……あそこに転がしておくのは流石にまずいと思ったんだ」
「放っておけばいいのよ。あの手合いは好きで変になってるんだから」
何か言おうと口を開いた所で、トントンと肩を軽く叩かれた。振り向くと、黙って真横に座っていた姉が夏生の顔を見上げている。赤く爛々と輝いた彼女の目が「これ以上反論しないように」と撤退を訴えていて、夏生は小さく息を吐いて床に視線を落とした。
「……今後は気を付ける」
「母さんもぴりぴりしてるのよ」
早めに床に就いた母を横目に、姉の光生(みつき)が小声で話しかけてきた。
「だからって『放っておけ』はないだろう」
「まあ、言い方はちょっと冷たいけどね。でも、私は母さんの言うこともわかるなあ」
夏生の物言いたげな顔に気付いたのか、光生は「危ない目に遭わせたくないんだよ」と幼児に言い聞かせるような口調で付け加える。
「こっちが助けようと思ったって、逆に怒鳴られたり殴られたりするかもしれないでしょ」
「それはそうだけど」
何が出来るわけでもないけれど、だからって何もしなくていいものなのか。
纏まらない考えを少し零すと、光生は少し困ったように笑った。そんな顔をさせたい訳ではないのにと後ろめたく思ったが、実際に彼女の表情を曇らせているのは自分だ。
「夏生は優しいなあ」
「……そんなんじゃない」
「そうだよ」
母の怒りも、姉の言葉も――理屈では理解しているのだ。ただ、素直に受け容れられていないだけで。処理できない感傷で家族を困らせているだけなのに、それを優しさだと捉えられてしまうことが夏生にはもどかしかった。
――愛されて、大切にされている。だからこそこうして心配されているのだと分かっている。彼女達は、家族は、いっそ過剰なまでに自分に甘い。
いつだってそうだった。
「人に優しいのはいいことだけど、それで自分が傷ついたら元も子もないよ」
俺は優しくなんかない。これはきっとそんなに綺麗なものではない。
眩しいものを見るような目を向けられて、夏生は思わずそう叫びだしたいような衝動に駆られたが、結局は黙って首を横に振っただけだった。自分自身でも理解しきれていないものを人に説明できる自信は無い。
雨はまだ当分止みそうになかった。
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