よあけ

紙仲てとら

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本編

第362話

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「ウル・ラドの楽曲を一曲、通しで歌ってもらいます。どれにしますか?」
「“Drama Queen”」
 ブースとコントロールルームを仕切るガラスの向こう、ヘッドホンを付けたユウが投げやりに応える。ヤケになっているのが見て取れる。
 この曲は2ndシングルだ。独特な変拍子のリズムと複雑なメロディで構成された一曲である。
「いちばん音程の高低差が激しい曲選んだね……」
 緊張の面持ちで、タビトが誰にともなくつぶやく。対してアキラは心底わくわくしているといった様子だ。
「ユウのこういうとこ好きなんだよねえ」
 彼はしみじみと言って、ブースの向こうにいるユウを――怒りに目が据わっているその顔を、愛おしそうに眺めた。
 曲のイントロが始まる。
 ヘッドホンから聞こえるハードなサウンドに情動を刺激されますます眼光を鋭くしたユウは、深く息を吸い込んだ。
 彼の放った第一声は全員の心臓を鷲掴みにする。くぐもったような低音の歌声しか聴いたことのなかった彼らは、張りのある美しい声にまず驚いた。彼は自分の歌声を「汚ねー声」と言っていたが、微塵もそうは感じない。
 深みのあるテノールでタビトのパートをさらりと歌い上げ、セナやヤヒロが裏声を使って歌っている高音域のパートを地声のまま熱唱している。もちろんアキラが担当する低音パートも完璧だ。
 アキラが歌う箇所よりももっと低音域なのがユウの任されている部分だが、そこに差し掛かると急に歌いづらそうになり、声量が落ちる。他のパートでパワフルに歌っていたぶん、その差は明らかだ。
 安定した低音を出すためにボイストレーニングに励んでも上達するきざしが見えず、ユウは歌がそれほど得意ではないのだろうと思い込んでいただけに、ここまでの歌唱テクニックと声量があったのかとアキラは驚くばかりである。それは他のメンバーも同様だ。
 ユウと会話した瞬間から違和感を感じ、生の歌声をすこし聴いただけで、彼がメンバーの前でひたかくしにしていた能力を見破るとは。やはりウツギは只者ではないと、ここにいる誰もが思っていた。
 曲がクライマックスを迎え、ユウの声は更なる熱を孕む。盛り上がるサウンドと共に高音域へと駆け上がっていく歌声。そして――彼は最後のフレーズの流れに乗せて激しくシャウトした。
「信じられない……」
 驚愕と興奮に顔を染めたウツギがつぶやく。
 ガラス窓の向こう、額に薄く滲んだ汗を手の甲で拭ったユウはヘッドホンを外した。
「やべー……めっちゃ気持ちいー」
 陶然と口にし、次の瞬間破顔する。タビトは気持ちが高ぶるあまりにいてもたってもいられなくなり、一目散にブースに飛び込むと、清々しい顔をしている彼に抱きついた。
「すっげーかっこよかった!」
 満面の笑みで叫ぶと、ユウは照れくさそうな顔になる。それをごまかすようにタビトの頬を手で挟み、もみくちゃにしながら言った。
「めっちゃ久しぶりに歌うこと楽しいって思ったわ」
 嬉しそうに何度も頷くタビト。アキラたちもブースになだれ込み、大騒ぎだ。
「ユウ君」
 ウツギがブースの中に呼びかける。騒いでいた彼らは笑みをおさめて、彼の方を見遣った。
「やっぱり、低音パートはアキラ君に任せるべきだ。これからはタビト君と共にメインボーカルのポジションについてほしい」
 熱のこもった声が響く。ユウは唇を一文字に結んだまま、かすかに眉を寄せ黙り込んでいる。
「――ステージの上で、今みたいに思いっきり歌ってみたくはありませんか?」
 ウツギは静かにそう続けた。
 問いかけに答えようとせず沈黙を続けるユウに、周りのメンバーたちの視線が集まる。ややあって、彼はおもむろに顔を上げセナを見た。
「セナ君はどう思う?」
「えっ?!それ、僕に聞く?」
「急にメインボーカルやれなんて言われたって……どうしたらいいかわかんねーよ」
 ユウはセナに近づくと腕に腕を絡め、子どものようにしがみついてくる。そして、彼にだけ聞こえる声で言った。
「わかんない。……怖い」
 滅多なことでは物怖じしない彼が明らかに尻込みしていることを感じ取り、セナは神妙な面持ちで息を詰める。
 母親との親子関係について、彼はユウから詳しい話を聞いていた。長いあいだ生活を支配され行動を制限されてきたからなのか、ユウはこういった重要なことを自分だけの判断で決めることを嫌がる。
 彼が味わってきた苦痛を想像したセナはやるせない気持ちになりながら、静かな声で言った。
「歌声、汚くなんかなかったよ。小さいころ周りからいろいろ言われてコンプレックスになってるんだろうけど……僕は好きだな。おまえの声」
 その言葉に、ユウは前髪の下に隠した目を瞠る。
 ぎゅっと唇を噛み、俯いている彼の顔を覗き込んで、セナは言葉を継いだ。
「ほんとはもう答えが出てるんでしょ?怖がらないでやってみなよ、ユウ」
 ユウは黙って身じろぎもせずセナの言葉を聞いていた。だが少しして、かすかに頷く。
 絡めていた腕を解きセナを解放した彼はウツギの方に視線を向け、
「――音域チェックの続き、お願い」
 そう短く言って、仏頂面のままヘッドホンを耳に当てた。
 ウツギは白い歯をこぼす。隣に座っていたレコーディングエンジニアも嬉しそうに目を細めた。
「今回のシングルは最高傑作になりそうですね」
 ウツギは喉に込み上げる歓喜の声を堪えるように唇を噛みしめる。そして、冷めやらぬ感動に打ち震えながら頷いた。


 蝉の声が住宅街に響いている。
 エアコンの効いた車内から降り立ったチカルとアコは、午後2時の灼けつく日差しのもと、トランクに詰め込んだダンボール箱やビニール袋をせっせと室内に運び入れ始めた。
 渋谷区広尾にある築35年の二階建てアパート――その一角がアコの新しい住まいである。
 彼女は長年の恋人であるランとの別れを選び、10年近く暮らした部屋を去った。家具家電の中には彼女が金を出して購入したものも多くあったが、そのほとんどを置いてきたという。今日は細々とした生活必需品や家電を新しく買い揃えるというので、チカルはその手伝いをしに彼女の家を訪れたのである。
 タビトのマンションで初めて会ったあの日以来、ふたりは互いの家を行き来するくらい仲良くなった。性格も考え方も真逆だが、一緒にいると妙に落ち着く。
「ありがとー!助かったよ」
 最後の荷物を運び込んだ彼女は礼を言って、チカルに休んでいくよう促す。
 エアコンのスイッチを入れると、狭いワンルームはすぐに涼しい風に満たされた。引っ越してまだ一週間ほどの室内は、ほどよく散らかって生活感に溢れている。壁に貼り付けた映画のポスター、壁に沿って床に積まれている海外のファッション雑誌。真新しいキャビネットの上にはくたびれたパンダのぬいぐるみが怠そうに首を傾げて一点を見つめている。開いたままになっているクローゼットはすでに服やバッグなどでいっぱいだ。
「テキトーに座ってて」
 アコはキッチンからチカルの方に声を投げる。氷をたっぷり入れたグラスに冷えたコーラを注ぎ、ぱちぱち弾ける泡の中にスライスしたレモンを浮かべた。
「ほんとはウイスキー・コークで乾杯したいとこだけど」
 いたずらっぽく笑いながらグラスをチカルに手渡し軽くかちりと合わせると、自分もフロアクッションに腰を下ろす。
「散らかっててごめん。なかなか片付ける時間がなくてさ」
「新曲を発売したばかりですものね」
 テレビにラジオに雑誌にコマーシャル――ウル・ラドを見ない日はないといっていいほどだ。今日もアコの家に来る途中、電車の中吊り広告のタビトと目が合った。アオフジ飲料が出しているエナジードリンクのものだ。降りたホームには春駒コーポレーションの巨大広告もあり、海を背景に佇む美しいタビトが物憂げなまなざしで人々を見つめていた。
「チカルさんが手伝ってくれたおかげでラックも買ってこられたし、この辺のものもやっと片付けられそう」
 詰まれているファッション雑誌の一冊を取り、ぱらぱらとめくる。それからすぐ、なにやら思い出したのか突然声をあげた。
「そうだ!このあいだ一緒に出掛けたとき、欲しいサイズが売り切れてて買うのを諦めた服があったでしょ?仕事先でそれに似てるやつ見つけたから買い取ってきたよ」
 言うなり膝を起こすと、クローゼットに這い寄って中を漁る。
 取り出してきたのはシャツジャケットとワイドパンツのセットアップだ。シンプルなブラックジャケットはショート丈で、同色のパンツはリラックス感のあるワイドシルエット。しっかりした生地で、初秋から冬の始め頃まで着られそうだ。
「店で見たやつよりジャケットの丈が短いけどそのぶん上半身がすっきり見えるから、かっこよく着られると思うんだよね」
「素敵……」
 チカルは眼鏡の奥の瞳をきらきらさせながらつぶやく。
「でしょー?」ふふんと得意げに鼻を鳴らして、「こっちの方がシンプルなデザインだし、ぜったい気に入ると思ったんだ~!」
 嬉しそうに笑ったアコは視線でクローゼットを示す。
「ファッションショーする?」
 服を身につけ、髪もセットしてもらう。フープイヤリングで耳を飾り、いつもよりすこし濃いめのリップをつけて鏡の前に立つと、後ろからアコが唸るように言った。
「完ッ璧……めっちゃ似合う!この格好のチカルさんがデートの待ち合わせ場所に現れたらタビトもびっくりすると思――」
 そこまで口にしてから、はっと我に返った彼女は次の瞬間にしょんぼりと眉を下げ、
「デートは無理か……ごめん」
「――あの……実はタビト君から……」
 ためらいがちに言って、めずらしく口元をもごもごさせている。その様子に好奇心をくすぐられて、アコは前のめりになりながら促す。
「なになに?」
 チカルは顔を赤くして俯いた。
「お……、おうちデートしよう、と誘われたんです。それで……」
「おうちデートぉ?!」
 彼女はチカルの言葉を勢いよく遮り、興奮気味に繰り返す。チカルは何度も浅く頷き、ほんのり染まった頬を手の平で押さえつつ続けた。
「部屋から出ないけれど、デートだから……お互いいちばん気に入っている服を着ようということになりまして……」
「いいじゃんいいじゃーん!おしゃれしてこ!」
 満面の笑みで言いながら、クローゼットからどんどん服を出してくる。
 ファッションショーはなんだかんだで夜まで続き、夕食を共にして帰路についた。
 この日から数日後。いよいよ9月を迎えようとしていたとき、ようやく仕事がひと段落しそうだという知らせがタビトより届いた。明後日8月30日、午前中は仕事が入っているものの、昼前には帰れるという。急な話だがこれを逃すとまたしばらく怒涛の忙しさだというので、「おうちデート」はこの日に決定した。
 そうしていよいよ迎えた当日。ファッションやヘアメイクに関してアコからアドバイスをもらい、チカルの準備は万端である。見たこともない新しい自分を玄関の姿見に映し微笑んだ彼女は、軽やかな足取りで自宅を出た。
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