マダム・アルディは微笑む

己がため

文字の大きさ
2 / 2
残像の見せる夢

1、はじまり

しおりを挟む
煉瓦造りの壁に、茶と黒の弾痕。空いた穴の周りに広がった、蜘蛛の巣に似たヒビ。明らかな闘争の跡が残るその壁に、背をつき荒い息を繰り返す女が一人。

「…してやられたわね」

女は『ニコ』と呼ばれる殺し屋であった。通称が付けられる程度の腕はあり、その確かな実力で数々の暗殺をこなしてきた。ニコ自身も自分に多少の腕と運があると自負していたし、それは彼女の周囲も認めることであった。
また、殺し屋という物騒な仕事で生計を立てるには、どうしたって死に臆病ではいられない。時には命を捨てる覚悟で挑まなければならない仕事もある。そういう面に置いて、ニコもまた例外ではない。命よりも仕事が重要であり、ましてや仕事中に命を投げ出すことに躊躇するなど、言語道断である。
しかし今現在、ニコは目の前の存在に、どうしようもなく恐怖し、死に怯えていた。

「……困ったわ」

腹からしとどに流れる赤に、ふっと笑みをこぼす。どこか余裕も伺えるその表情であったが、状況はそう生やさしいものではない。無理に強がってこぼした笑みでさえ、その顔に凍り付かせて息を殺す。ただ、少しだけでも死から遠い場所を望んで、体が延命を求めていた。

「相手が悪かったね、“サーシャ”」

びくり、とニコの肩が跳ねる。なぜ、という問いは喉に引っかかって出てこなかった。幼い頃から『ニコ』として生きてきた彼女にとって、聞き覚えのない名前。しかし、確かにそれは、ニコを捨てた両親以外知り得ないはずの本名だった。……ニコを殺し屋に育て上げた、一人の除いて。

「なぜ、名前を知っているか。気になるかい?」

優しい声色で語りかけてくる、目の前の化け物。ニコはにわかに震え出した。
何か、得体の知れないものを、いつの間にか相手取っていたに違いない。これは不測の事態だ。考えうる最悪のシナリオが目の前に現れてしまった。


「大丈夫さ。なぁんにも怖いことなんてない。僕は君の味方だよ」


ニコの頭の中が恐怖と嫌悪感でいっぱいになる。気持ちが悪い。自分の本名を言い当て、見透かしたような口調。まるで我が子を見守る母親のような猫撫で声が鼓膜を揺さぶる。“それ”の一挙一動に、全身の毛穴から汗が吹き出すような、錯覚。

「安らかにお眠り、サーシャ」



煉瓦に囲まれた部屋の中に、白薔薇が咲き誇った。
しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

思いを込めてあなたに贈る

あんど もあ
ファンタジー
ファナの母が亡くなった二ヶ月後に、父は新しい妻とその妻との間に生まれた赤ん坊を家に連れて来た。義母は、お前はもうこの家の後継者では無いと母から受け継いだ家宝のネックレスを奪うが、そのネックレスは……。

妻からの手紙~18年の後悔を添えて~

Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。 妻が死んで18年目の今日。 息子の誕生日。 「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」 息子は…17年前に死んだ。 手紙はもう一通あった。 俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。 ------------------------------

【完結】あなたに知られたくなかった

ここ
ファンタジー
セレナの幸せな生活はあっという間に消え去った。新しい継母と異母妹によって。 5歳まで令嬢として生きてきたセレナは6歳の今は、小さな手足で必死に下女見習いをしている。もう自分が令嬢だということは忘れていた。 そんなセレナに起きた奇跡とは?

公爵令嬢アナスタシアの華麗なる鉄槌

招杜羅147
ファンタジー
「婚約は破棄だ!」 毒殺容疑の冤罪で、婚約者の手によって投獄された公爵令嬢・アナスタシア。 彼女は獄中死し、それによって3年前に巻き戻る。 そして…。

【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く

ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。 5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。 夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…

聖女を追放した国は、私が祈らなくなった理由を最後まで知りませんでした

藤原遊
ファンタジー
この国では、人の悪意や欲望、嘘が積み重なると 土地を蝕む邪気となって現れる。 それを祈りによって浄化してきたのが、聖女である私だった。 派手な奇跡は起こらない。 けれど、私が祈るたびに国は荒廃を免れてきた。 ――その役目を、誰一人として理解しないまま。 奇跡が少なくなった。 役に立たない聖女はいらない。 そう言われ、私は静かに国を追放された。 もう、祈る理由はない。 邪気を生み出す原因に目を向けず、 後始末だけを押し付ける国を守る理由も。 聖女がいなくなった国で、 少しずつ異変が起こり始める。 けれど彼らは、最後まで気づかなかった。 私がなぜ祈らなくなったのかを。

いまさら謝罪など

あかね
ファンタジー
殿下。謝罪したところでもう遅いのです。

冷遇王妃はときめかない

あんど もあ
ファンタジー
幼いころから婚約していた彼と結婚して王妃になった私。 だが、陛下は側妃だけを溺愛し、私は白い結婚のまま離宮へ追いやられる…って何てラッキー! 国の事は陛下と側妃様に任せて、私はこのまま離宮で何の責任も無い楽な生活を!…と思っていたのに…。

処理中です...