嘘つき師匠と弟子

聖 みいけ

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 時は数日前の昼中にさかのぼる。

「――抱き上げさせといて、言うことか」

 渋い顔をした男に頬を柔くつままれ、少年はきょとんとした顔で銀の瞳を見つめた。

 いつの間に、自分はこの人に抱き上げられていたのだろう。

 この人に弟子として預けられて「母さん」にはもう会えないという話を聞いたところまでは覚えている。

 ただ、その後はもやがかかったように朧気だ。
 明るい窓の外から吹き込むぬるい風に頬を撫でられながら、かろうじて、師匠となる人に挨拶をしなければと思ったのはなんとなく覚えている。

 気が付いたときには既に抱き上げられていて、近くにあった銀色の瞳が呆れと不満を浮かべて自分を見ていた。そして頬をつままれていた。

 少年が首をかしげると、いよいよ呆れ返った顔になった師は頬から手を離す。

 その時。
 窓の外から吹き込んだ風が少年の鼻を擽り、小さなくしゃみが小屋の中に響く。すかさず窓を閉めた師は少年をベッドに戻し、顎までしっかりと毛布をかけた。

 されるがままになりながら、少年は思う。

 ふわふわで、どこにもほつれがなくて、虫くい穴も開いていない綺麗な毛布。こんなに良い毛布を自分にかけてくれるなんて。それに、小屋の中を見ればベッドは自分がいるこの一つしかない。

 ――だとしたら、この人は、いままでどこで寝ていたのだろう?

 ベッドがギシと揺れ、少年の思考はそこで途切れる。

「……お前、名は?」

 ベッドの端に腰かけた師が、真剣な眼差しで少年に問いかける。その瞳の色は、鋭い刃物に似ていた。

 師に問いかけられた弟子は、困り果てていた。答えがなかったからだ。

「名前……」
「母親にはなんと呼ばれてた?」
「母さん……」

 少年の母は旅芸人の一座で歌を歌っていた。

 その人は確かに少年を産んだ母だったが、呼ばれる時はいつも「お前」や「アンタ」ばかりで、ただの一度も名を呼ばれた覚えがなかった。そのくせ、子供を自分の側から離さずにおきたがる人だったから、一座の他の大人と話をしたこともほとんどなかった。

 たまに、母が舞台の上にいる隙に話しかけてきた大人たちも、誰も少年の名前を知らなかった。

 自分を呼ぶ声が言う「お前」も「アンタ」も「坊主」も、皆が持つ「名前」というものではないことに気付いたのは、割と最近のことだった。

 ――ロビン、リッキー、マリー、ゾフィ、フェシリス。

 一座の人達の間で飛び交う「名前」に自分のものがないことが、不思議だった。

 ――ダギー、オリバー、ララ、ワンダー、エメリー。

 あの中に、自分のものがあるのだろうか。あったのだろうか。

 ――自分の名前が欲しい。

 それが、少年のただひとつの望みだった。


「――わからないです」
「そうか、それもか」

 素直にわからないと首を振ると、師は一瞬だけ不憫そうに顔を歪め、その後は顎に指をかけて何かを考えるように黙り込んだ。

 少年は、窓から入り込む陽の光できらきらとしている月の色の髪を「きれいだな」とぼんやり眺める。昔、一度だけ食べたことがある砂糖菓子を思い出しながら、とろりと目を瞑った。

 温かくて、居心地が良くて、うっかり眠ってしまいそうだ。「魔術師の弟子」がどんなことをするのかはわからないが、師匠の問いかけの間に眠ってしまったら、きっと叱られるに違いない。

 寝ないように、寝ないように。心地よいまどろみに抗うように「弟子」は必死に瞼を上げて師を見つめた。相変わらず、陽光は師の髪を砂糖菓子のようにきらめかせていた。

 ――きらきらしたものは好き。

 ふと思い出したのはきらきらと着飾って、きらきらとした舞台で歌う人の姿。
 その場所にいるその人は「母」ではなく「一座の看板歌姫」であったが、少年にとっては普段の彼女よりはいくらか好ましかった。

 名前こそ呼んでもらえなかったが、言いつけられることをしていれば食事と寝る場所が貰えた。抱き締められることはなかったが、暴力を受けたこともなかった。
 時間ができると、その人は気まぐれに歌を教えてくれた。その時ばかりは独り占めできるその声は嫌いじゃなかった。

 けれど、ただそれだけの人だったから、師に「もう会えない」と言われても別段寂しいとは思わなかった。

「……ティニエト」

 師がぽつりと何かつぶやく。聞き覚えのない言葉だった。
 少年が何も答えられずにいると、師はもう一度同じ単語をはっきりと呼んだ。

「ティニエト。当座のお前の名前だ」

 名前を貰ったのだと気が付いた瞬間、いっぺんに目が覚めた。胸にじんわりと温かなものが広がって、頭がふわふわとする。また熱が出たのかもしれないと、少年は慌てて自分の額をさすった。

 少年に背中を向けて小屋の隅を見つめたまま、師は言葉を続けた。

「古い言葉で『曇り空』という意味だ。お前の髪の色からとった……つっても長いな。縮めてティニでどうだ」

 何も言わずに、言えずにいる少年を訝しんで、師が後ろを振り返る。

「ティニ?」
「……はい、ししょう」

 どんな意味だってかまわない。どんな風に呼ばれたってかまわない。名前。自分の名前だ。

 胸がドキドキして、とてもじゃないがじっとしていられない。大きな声を上げて、小屋中を駆け回りたい。これが本当の「嬉しい」という感覚なんだろうか。
 動き出したいのを我慢して、毛布の下で手足をもそもそとさせながら、少年は寝返りを打って枕に顔を押し付けた。

「本当の名を思い出したら、遠慮なく言え」

 師は「曇りよりはマシだろう」と笑って、顔を上げた少年の額にぽんと手のひらを乗せた。

名を貰った少年ティニエトは思わず「ティニがいいです!」と、生まれて初めて大きな声を出した。

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