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しおりを挟むアラキノを呼びに来た少年が出てきた路地を抜ければ、すぐに事故の現場が目に入る。
男たちが集まり、必死に倒れた荷馬車を上げようとしているが、積まれていた荷が重く、一向に持ち上がる気配がない。下敷きになった者の身内なのだろう。初老の女がほとんど泣きながら、懇願するように、荷馬車の下に向けて励ます声をかけていた。
人が集まり、少しずつ崩れた荷を運び、取り除いていくが、それまで下敷きになっている者が持ちこたえられるかどうか。
「悪い、どいてくれ」
野次馬の一人にぶつかった拍子にフードが脱げる。陽光に照らされて月色の髪が光った。
荷を運んでいた男がそれを見つけて声を張り上げる。
「……おい! アラキノが来てるぞ! 道を開けろ!」
「アラキノだ! 魔術師だ! どけ! どけ!」
すぐに人の波が割れ、出来上がった道をアラキノは駆けた。
現場に辿りつくと、すっかり目を赤くした初老の女が、アラキノに縋り付く。
「お願いします、お願いします、アラキノ様、夫と息子が下に……っ!」
「わかってる。危ないから、全員離れていろ!」
崩れた荷を運んでいた男たちが、全員距離をとったことを確認すると、アラキノは自らの右手の拳を馬車に向ける。その中指には青白い石が目立つ、大ぶりな指輪がしっかりとはまっていた。
よく通る低い声が、人ならざるものの言葉で精霊の名を呼んだ。
「ヴォルニケツール・セラ」
呼ぶ声に反応し、青白い光の帯が石から勢いよく飛び出した。アラキノが馬車だったものに向けて指をさす。
「コード ル ヴァルキロ」
この二十年、すっかり口に馴染んだ言語でそう頼むと、アラキノは仕上げに、パチン、と指を鳴らした。
それを合図に、たちまち青白い光の帯が倒れた馬車と崩れた荷に向かって飛んだ。
そして、無謀にも馬車に向かって体当たりし、光の帯は粉々に砕け散った。残った光の粉が馬車と荷に降り注いで消えていく。
まさか、失敗したのかと、見守っていた者たちが息をのむ。
しかし、その瞬間、ふわりと、まるで風に吹かれた羽毛のように、馬車と荷が浮き上がった。その下に男が二人、ぐったりとした様子で倒れ込んでいる。
初老の女が二人の名を呼んで転げるように駆け寄った以外、動く者はいない。車軸の壊れた荷馬車が地面に降りても、皆、ぽかんと口を開けるばかりだ。
「おい、何してる。急いで診療所に連れてってやれ!」
少し苛立ちを含んだアラキノの怒鳴り声に、はっとなった観衆たちが慌てて動き出した。あれよあれよという間に別な荷車が用意され、担ぎ乗せられた一家は診療所へと出発していった。
「……コード ヴァル セ ロ」
パチン、という指の音とほとんど同時に、後方からアラキノの荷物が飛んできた。アラキノはそれを慣れた手つきで受け止める。どこか自慢気な雷光の精霊がアラキノの肩の上で細い帯のような身体の先端を揺らした。
残った人々が、落ちた荷や馬車を片付け始めたのを見て、もう自分の力は必要ないだろうと判断してアラキノは踵を返す。すると、そこには先ほど声をかけてきた身なりの良い男が立っていた。
「……何故、我が主の望みは退け、あのような者たちは助けるのか」
別段、アラキノを責めている口調ではなかった。魔術師の行動を心から疑問に思う、そんな顔をしていた。
アラキノは訝しげな顔をしている男に向き直る。
自分の目つきへの怯えを隠し、強がるように身構えた男に向けて、アラキノは、フン、と鼻を鳴らす。
「あいつらは、俺の名を呼んで、俺に手を伸ばした。それ以外、理由はいらない」
他人からすれば取るに足らないような理由かもしれない。しかし、名を呼ばれ、唯一として頼られるということは、アラキノにとっては重要だった。
何も持たない奴隷ではなく、一人として確かに存在していることの証明だと、そう思っていた。
「……は、それだけか……?」
間をおいて、ようやく言葉の意味を理解した男が、気の抜けた声を上げる。素が出たのだろう。険しい顔つきが緩んだ顔は、先ほどよりもいくつも若いように見えた。
思わず口元に笑みを浮かべたアラキノを見て、身なりの良い男がたじろいだ。アラキノがその不安げな目を見据えると、男はいよいよ怯えたように肩を震わせる。
悪人面だと自覚はあったが、ここまで自分の顔は人を怯えさせるのか。少し笑っただけなのに。
なんとなく悲しくなったアラキノは、意識して表情を消した。
この町の住民は幼い頃からの付き合いでアラキノの顔に慣れている。しかし、初めて会うこの男の反応はあからさまだった。
アラキノがひっそりと気落ちしていると、カラン、カランと時を告げる鐘が鳴る。家を出てから、かなり時間が経っていた。いい加減、師の用事に向かおうとアラキノが歩きはじめると、身なりの良い男がやはり追いかけて来た。
しつこい男だと思いながら、アラキノは大股で歩き続ける。
「っ、待て、アラキノ、とか言ったな? 私は、主の命でお前を連れて帰らねばならない。頼む」
「……あんたの主とやらが必要としているのは、俺じゃなくて『魔術師』だろう。それなら、俺じゃなくとも、そこらじゅうにいくらでもいる。一人くらいは言うことを聞くやつがいるかもしれんぞ。そっちを当たってくれ」
そこを何とか、と縋ろうとした男の前を横切って、手のひら大の淑女の姿をした精霊がふわりと現れた。ほのかな甘い香りを伴ってアラキノに向かって大層優雅なお辞儀を披露した。
「香木の精霊か、珍しいな。散歩か?」
声をかけると精霊は答えるようにくるりと回った。ドレスのようなひれがふわりと翻り、なかなかに可愛らしい。
アラキノに付き纏う男が困惑している事には気が付かないふりをして、アラキノは黙々と歩く。
地を歩く鳥の雛の姿の精霊が群れとなってアラキノの後ろをなんとはなしに、ぶらぶらとついてきていた。魚の姿をした雨水の精霊が、アラキノの髪に触れて数刻先の雨の訪れを告げると、雷光の精霊が「契約しているのは自分だ」とばかりに負けじとアラキノの右腕に絡まる。
まるで、男からアラキノを守るように、続々と精霊たちが集まってきていた。
とうとう、並んで歩くことを諦めた身なりの良い男は、精霊をぞろぞろと引き連れて去って行く魔術師の姿を目で追っていた。
優れた魔術師を追い求める主に使えて二十年。男は、主が集めた魔術師というものを、幾人も目にしてきた。
彼にとって魔術師とは珍奇な人種だった。権威におもねることなく、金銭をちらつかせても目もくれず、ただ、自らの心の思うままに行動する不気味な生き物だった。
だがしかし、その中でも一際、あの不可思議な色の髪をした男は異常だった。あれほど、精霊に囲まれている魔術師を、男は見たことがない。主の求めていた『優れた魔術師』はまさしく彼なのではないだろうか。そう思わずにはいられない。
だというのに、身なりの良い男は、あの時代遅れの外套を羽織る背中を追うことはしたくなかった。
男はぶるりと身を震わせる。それは、畏れだった。
今まで、男は精霊を意識して見たことはなかった。そこにいるな、と思うことすらもなかった。踏んづけようが足で払おうが気にも留めたことがない。向こうから歯向かってくることもない。服についたちりやほこりを無意識に払うのと同じだった。
それがまさか、意思を持ってこちらを威嚇してくるなどとは、露ほども考えたことがなかったのだ。
感じたのはほんの一瞬だった。逃がすまいと魔術師の肘に触れようとした、その瞬間のことだ。
脳髄に冷たく駆け巡った絶望的なまでの恐怖。
生命を守るという生物としての本能が、生まれて初めてはたらいたのを男は感じていた。
あれと関わってはいけない。男は田舎町の喧騒の中、魔術師が去って行った方とは逆に、逃げるようにそそくさと歩き出した。
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