嘘つき師匠と弟子

聖 みいけ

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 それが、いつの時代のなんという日だったか。『ユーダレウス』はやはり覚えてなどいない。

 ただ、雲一つない、わざとらしいまでに真っ青な空がどうにも忌々しくて、一面曇っていたらいいのにと思ったことだけは確かだ。



 その日『ユーダレウス』は、何度か訪れたことのある山間の村に足を運んだ。

 しかし、赴いたそこは既に滅んでいた。

 たしか、小さな村だった。人はどこかよそよそしく、ほとんど会話らしい会話をしなかったと記憶している。無理もない、旅人をもてなす余裕などない貧しい村だったのだから。
 何か困りごとはないかと聞いても、礼はできないからと戸を閉ざすばかりだった。村人に黙って痩せた畑に獣除けと実りの魔術を使い、そっと後にした場所だった。

 今はもう、人影など欠片もない。それどころか、廃村となって久しいことを思わせる土埃の匂いがした。
 家々の屋根や壁は崩れ落ち、朽ち果てた床板の隙間からは生命力逞しい草花が芽吹いている。家々や畑、牧場などを繋ぐ土を均しただけの道も、ほとんど道として機能しなくなっており、代わりに地を這うような背の低い草が蔓延っていた。
 疫病か、災害か、戦禍に巻き込まれたか。はたまた賊に襲われたか。それを推しはかることすらできない。年月は村の滅びの原因までも朽ちさせていた。

 深呼吸をすれば、山特有の澄んだ空気が肺を満たした。『ユーダレウス』は、比較的壁が多く残っていた家屋の跡を借りて、今晩の宿とすることにした。
 こういった人間の痕跡が残る場所では、幽霊がでると怯える弟子もいたが、『ユーダレウス』は何とも思わなかった。この世界に肉体を持たず、魂だけで動く人間は存在しない。

 適当に集めた枝を組み、マッチを擦って火をつける。不規則に揺らぐ炎の舌先が、まだ明るいというのに仄暗い空気に温度を与えていく。
 この村に何もしてやれなかったことを、己の無力さを心から悔いるべきだと思うのに、ひとつもそんな気分にはなれそうになかった。
 悠久の旅の中でこれまでに何度もこうなった場所を見てきた。そこは、この村のように小さな村であったり、それなりの大きな街であったり、国であったり様々だった。
『ユーダレウス』は確かに優れた魔術師だ。しかし、この世界にたった一人しかいない。
 生き残った魔術師を含めても、世界が移り変わる速度には、到底間に合わないのだ。

 間に合わないと悔やむことにも慣れてしまっていた。心に痛みを覚えることもない。また一つ、自分は置いて行かれたと、頭の端でうっすらと思うだけだ。

 感情の抜けた顔をした魔術師は、顔の横にきた髪のひと束を背中に払う。
 洗いざらしにするばかりで、丹念な手入れなどしたことのない髪は酷く傷んでおり、高さのまばらな毛先が傾き始めた陽光に照らされて、月の色によく似た輝きを見せた。

 もっと大事にしろと小言をくれながら髪を梳いてくれた手は、もうどこにもない。その人がどんな顔で笑っていたのか、どんな声だったのか、他に何を話したのか。もうほとんど覚えていなかった。

 忘れないとどれほど強く誓っていても、喉を割きたくなる哀しみも、焼けつくような胸の痛みも、這い寄る孤独も、次第に記憶から薄れていく。慣れていく。忘れてしまう。
 まるで、とるに足らない出来事だったかのように。

 そのことがどうしようもなく恐ろしい。
 師を喪った日のことすら忘れかけていた自分に気が付いたときは、震えるほどに絶望したのに。その絶望感すら、月の満ち欠けが一巡すればすっかり薄れてしまっていた。

 心に痛みを感じる器官が、鈍化しているのではないか。そうしているうちに、心すら失うのではないか。
 感じる心を、痛む心を失えば、それは人間と呼べるのか。
 身体はとうに化け物だ。けれど、いつか、心まで人間でなくなるのではないか。

 恐ろしくて恐ろしくて、けれどその度に、そう思う心がまだあることに奇妙な安堵を覚えた。

 この心をどうしたらいいのか、教え導いてくれる声はもうない。

 他人には安心を与えるために、冷静沈着の極みのように振る舞いながら、『ユーダレウス』の心はずっと葛藤の中を藻掻いていた。

 手元でパキンと小気味のいい音が鳴り、ぼうっとしていた意識が今に戻る。どうやら手にしていた小枝を無意識に折っていたらしい。それを、慎重に、まだ若い焚火に放り込んだ。青い空の下で踊る炎は、投入された新入りを温かく受け入れた。

 手ずから火を焚くという作業は、揺らぐ炎の温かさとその光が相まって、少しだけ心を穏やかにしてくれた。

 何をするでもなく、炎が落ち着いて熾火となるまで、月色の髪の魔術師はじっとそれを眺めていた。

***

 光る玉のような姿のふたりの精霊が、揺らぐ焚火の火の粉と戯れている。
『ユーダレウス』は火にかけていたヤカンから、カップに湯を注いだ。煮だした茶の薬っぽい匂いがふわりと立ちのぼる。それに口をつける前に、昇っていく湯気を目で追った。
 師匠の薬草茶の作り方は、何度も一緒に作ったせいで身に沁みていた。淹れる度に蘇る懐かしさが嫌で、込み上げる想いが溢れそうになるのが嫌で、自分ひとりの為に淹れることはあまりなかった。
 これは、十数年前に独立していった弟子の身体が弱く、しょっちゅう風邪をひくものだから、予防にと作って常備していたものの残りだった。

 ふ、と息を吹きかければ湯気が流されて消えていく。独特な香りごとひと口含めば、ほのかな苦みが口に広がって、思わずため息が漏れた。身体が温まるのと同時に、頑なに凝り固まった心もわずかに緩む。

 ――一度でいい。ただもう一度だけ、あの人の声が。

 風が吹いて草原をざっと揺らした。壁の残りがあるお陰で火が舞うことはない。
 月色の髪の魔術師は、朽ちそこねた壁に寄りかかり、乾いた心のまま目を閉じる。眠るわけではない。何も見たくなくなっただけだ。

「……キトラ ニェルィエ声が聴きたい

 行き先がなく、途方に暮れて、とうとう口からまろび出た願い。『ユーダレウス』はそれを一笑に付す。
 死者と会話をする術はない。魔術師もまじない師も、そのどちらでもない弟子たちですら知っていることだ。伝説の魔術師とて、どうにもできないことだ。

 しかし。『ユーダレウス』が誰にともなく願った声は、傍らを漂っていたふたりの精霊に確かに届いていた。

 すい、と陽光の精霊が、魔術師の前にやってくる。人の世界では滅多にない眩しさは、瞼越しでも明るいとわかった。おもわず目を開けると、陽光の精霊は嬉しそうに揺らめき、その周りを回るように月光の精霊が円を描く。
ゆったり二呼吸の間、それが続いた。
 精霊たちの気まぐれな演舞を見てやる余裕など、『ユーダレウス』にはなかった。精霊たちを寝床に帰そうと、カンテラのぶら下がった杖を手にしたその時だ。

『――やあ、アラキノ』

 求めていた声に、文字通り息が止まった。


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