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ウルヴァリン
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オヤジ殿は一人親方を張った腕っこきの職人だった。現役の頃は腕一つで稼いで、貰った手間賃は「封の切られた封筒」に入れて女房に渡していた。明細なんか無い。元々入っていないのか、あるいは貰った当人が抜いたのか解りはしない。「明細以外の紙」がどれほど抜き取られたためにオヤジ殿の腹が丸くふくれたのかも、今となっては勘定のしようがなかった。
そうだ、オヤジ殿は「雷親父」という「前世紀の遺物」なのだ。
三度の飯の支度も、洗い上がった下着も、何も言わぬうちに出てくるのは当然。「指示代名詞+もってこい」という呪文を唱えれば自分の希望する物体が目の前に差し出されるのが当たり前と思いこんでいる。
その上、連れ合いを喰わせているのは自分で、女房は自分がいなければ生きて行けないものだと信じ切っているから質が悪い。
現役の職人としてバリバリ働いていた頃ならいざ知らず、年金生活の今は、むしろパートに出ている奥さんの方が稼ぎが良いというのを理解していない。
子供らが成人して、楽隠居暮らしができるようになったのだから、オフクロ様が熟年離婚を言い出してもおかしくない。自分ならそうする。それをしないオフクロ様もまた、「良妻賢母」という「前世紀の遺物」なのかもしれない。
「……恐れ入りますが」
静かで、それでいてよく通る声が聞こえた。扉の陰から看護師がのぞき込み、年寄りとその子供らの顔を見回した。若い看護師はオドオドしている「娘」と、落ち着いている(実際は呆れてものが言えないだけの)「娘」とを見比べて、後者の方に声を掛けた。
「治療方針などの説明を……」
「ああ、あっちに説明してください。私は家を出た者だから」
指さされた義妹は、不安げに何度も振り返りながら病室を出た。
「息子さんもご一緒に」
看護師はオヤジ殿を見て言った。
「はぁ!?」
我ながら素っ頓狂に声を上げたモノだと思う。看護師が驚いてコッチを見た。瞬きをしている。
「この人は患者の亭主ですよ」
「えっ?」
今度はオヤジ殿を見、オフクロ様を見る。オフクロ様が頷くと、瞬きが激しくなった。
慌てる看護師とそれを眺めてにやついているオヤジ殿を見て、オフクロ様は小さく笑った。
「さっきから、否定、しない」
「俺は若いってことさ!」
オヤジ殿は楽しそうに言い、困惑顔の看護師に付いて、病室を出て行った。
急に静かになった病室で、オフクロ様が口を動かした。
「服の、場所、知らなから。まだ、乾いてないのに」
半開きの引き戸の隙から、しけっぽい丸い背中が遠ざかってゆく。
突然の呼び出しに慌てて、外行きの服を探しあぐね、物干しに行き着いたオヤジ殿の姿が想像できた。
きっと実家は、箪笥も押し入れも扉や引き出しが全部開け放たれていて、その中身が床一面に散らばっているに違いない。
「困った、人」
オフクロ殿は、母親の顔で言った。
幸い軽症だったオフクロ様は、二ヶ月半ほどで退院した。
リハビリに通う彼女に、オヤジ様は毎日付き合っている。
手を引いたり、肩を貸したり、荷物を持ったり、と、いつもオフクロ様の側にいる。
相変わらず、女房は自分がいないと生きていられないと信じているのだ。
でも実際、相手に付きっきりでいないと生きていられないのは、どっちだというのだろう。
そうだ、オヤジ殿は「雷親父」という「前世紀の遺物」なのだ。
三度の飯の支度も、洗い上がった下着も、何も言わぬうちに出てくるのは当然。「指示代名詞+もってこい」という呪文を唱えれば自分の希望する物体が目の前に差し出されるのが当たり前と思いこんでいる。
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「さっきから、否定、しない」
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