フツウな日々―ぼくとあいつの夏休み―

神光寺かをり

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夏休みの間

70.人の思いを乗せた紙。

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 ここはとてもふわふわした場所だ。

 体の回りには暖かい液体が満ちていた。
 だのに、息はちっとも苦しくない。
 周囲は薄暗うすぐらくて、仄明ほのあかるい。
 龍は、

『宙に浮いてふわふわただよっているんじゃないかな?』
 と、感じた。
 実際、彼は漂っていた。でも宙空じゃない。
 緑がかった黄土色の水の中、だ。

「姫ヶ池だ」

 龍はぼんやりと理解した。

「でもこの間より濁っている」

 水の中なのに息苦しくないと言うことよりも、その水が酷く汚れていることの方が、龍には不思議だった。心配になった。

「それにが低いみたいだ」

 濁った水の彼方にかすかな光が見える。
 龍は光に手をかざした。
 長い爪、節くれ立った指、大きな甲の、ものすごく強そうな手が、幽かな光の中にある。

「僕の手じゃない」

 と思う頭の中に、同時に別の考えが降って来た。

『全く、どいつもこいつも、どうしてこう龍脈りゅうを乱してばかりおるものか』

 龍は降ってくる「別の考え」が、何を言いたいのかさっぱり分からなかったけれども、それでもこの考えの主がずいぶんと怒っていて、その上ずいぶんと悲しんでいる様子なのは感じ取れる。

 この人が一生懸命やっていることを、誰かが邪魔している。この人は邪魔されていることを怒っているけど、邪魔している人のことは怒っていなくて、どちらかというと可哀想だと思っている。

 彼は長い指の間から差し込むまぶしい光を長めながら、耳を澄ました。
 水が跳ねる音がする。それは元気が無くて、淀んだ音だ。
 天井の水面に丸い水紋が浮かび、ゆっくりと広がっていった。水紋の中心は小さな影だ。
 影はやがて人の形に広がった。そして人の形の影は、影ではなく人の姿に変った。

「寅か」

 龍の頭と、頭の上の「別の考え」は、同時に思い、同時に言った。
 確かにその人は「トラ」だった。大人になった「トラ」みたいな、寅姫だった。
 元々色白の顔だけれども、今日は一層青白い。

「どうしたんだろう?」

 龍は思った。

『何か分かったようじゃな』

「別の考え」のぬしが思った。

『判ってみれば簡単なことなのですけれど』

 寅姫は微笑んだ。でもちっとも嬉しそうじゃない。

『誰ぞが札をせき止めておるようで』

「札って何?」

 龍は思った。
 別の考えが、

『アレはタダの紙切れぞ』

 といった。
 寅姫はまた笑った。でも今度の笑顔は苦笑いだった。

『人の思いが乗れば、ただの紙も力を得ます。
 それに、そもそもあれにはと、何よりあなた様の名がしゅとして書き込まれておりますれば』

「呪って何?」

 龍が思う。
 でも別の考えは、

『タダの墨跡ぼくせきに過ぎんがの』

 とため息をつく。
 ため息は大きな泡になって、ぐるぐる渦巻きながら天に昇っていった。
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