27 / 63
柔太郎と清次郎
おはぎ
しおりを挟む
戸板に尻をぶつけた清次郎は、
「うひっ」
珍妙な声を出し、今度は斜め前に蛙のように飛び跳ねた。
一つ、二つ、と蛙跳びに飛ぶ清次郎の向かった先は、この板の間から戸外へ抜け出せる出口の戸だった。
「何処へ行くつもりだ」
言いはしたが、柔太郎には清次郎の目的は解っている。
『土産を渡すことは元より、一番の目的である時計を自慢することは達成したのだから、さっさと赤松家という「我が家」に……いいや、江戸に帰りたいのに違いない』
新しい物も、古い物も、人も、機会も、何もかもたっぷりと満ちている、学びに溢れた大都市に、今すぐにも駆け戻りたいのだろう。
「待て、清次郎!」
柔太郎は蛙跳びの背中に呼びかけた。
「待てと言われて待つ阿呆はおりません」
清次郎は板戸に飛びついた。それを開けようとした、まさにそのとき、柔太郎が静かに言った。
「柳町、松屋のおはぎ」
清次郎の動きがピタリと止まった。板戸をそっと締めて、後ずさりに数歩。くるりと振り向いた清次郎は、堪えられない笑みを満面にたたえている。
柳町は北国街道筋の町家だが、宿駅としての上田の本陣や問屋場からは、曲がり角二つ分、離れたところだ。北国街道をさらに進めば職人町の紺屋町に続く。街道を逸れ、蛭沢川に掛かる橋を渡れば上田城の三の丸内となり、武士達が暮らすの木町となる。芦田家が暮らす御徒士長屋もその町内にあった。
柳町には、藩主肝煎の絹糸・絹織物や、上田紙と呼ばれる薄い紙、といった名産品を商う店、それを江戸や京大坂ほか全国に販売する商人達が宿泊する旅籠がある。
それらに並んで、地元の者たちも訪れる食品の店、道具の店、職人の店がある。
その中には、芦田家が行っている内職の成果物の取引先もあるのだ。柔太郎も清次郎も、そこそこの頻繁さでこの町に訪れている。
道の両側にぎっしりと並んだ店舗の中に、菓子舗の松屋宇右衛門もあった。
清次郎は口元をだらしなく半開きにしていた。よだれが垂れそうになっている。
餌を待たされている子犬のような、という表現が一番しっくりくる顔だろう。
赤松清次郎は甘党だ。酒はほとんど受け付けない。
「酒が好きな御仁は、憂さ晴らしに酒を喰ろうてお眠りになれば良い。しかし俺のような人間の場合、甘い物をひとつふたつ口に放り込んで茶を喫した方がずっと疲れに効く」
そう公言して、清次郎はたびたび甘い物を食べる。外出をするにも、懐に乾菓子やら飴玉を入れた小袋を忍ばして歩く。
そんな清次郎が、昔馴染んだ松屋のおはぎと聞いて、おとなしくしていられるはずがないのだ。
柔太郎の目に、清次郎の尻であるはずのない尻尾がぶんぶんと振り回されているのが、見えた気がした。
「もしかして、松屋のおはぎをそれがしに頂けるので?」
返事もせず、柔太郎は先ほど清次郎が取り付いた板戸とは別の戸口に向かった。ここからは裏庭まで続く通り土間に出ることができる。
土間の途中にこぢんまりした台所がある。
竈に湯が沸いていた。
柔太郎は台所の戸棚の脇におかれていた風呂敷包みを取り上げた。
おはぎの菓子折にしては大きすぎる。
来た道を戻った柔太郎は、子犬の前に座り直し、縦に長い風呂敷包みを彼の膝先に置いた。
奇妙な形の風呂敷包みに眼を瞬かせた清次郎だったが、すぐにその中味を察した。
細かく観察をするまでもなく、風呂敷の縛りめの隙間から、柄樽の柄が突き出て見えているのだ。そうなれば風呂敷包みの中味の大半は液体である。
また風呂敷の下の、樽の蓋あたりから柄の間にかけて、四角い何が乗せられている様子も見て取れた。これは折詰と見て良い。
折詰の中味は松屋のおはぎに違いない。では柄樽の中味はと言うと、
「松屋から北に二つ隣、小堺屋平助の銘酒・亀齢だ。赤松のお父上はお前とちがって、さとうといっても左党の方であられるからな」
柔太郎は左手に猪口を持つ仕草をしてみせた。
「うひっ」
珍妙な声を出し、今度は斜め前に蛙のように飛び跳ねた。
一つ、二つ、と蛙跳びに飛ぶ清次郎の向かった先は、この板の間から戸外へ抜け出せる出口の戸だった。
「何処へ行くつもりだ」
言いはしたが、柔太郎には清次郎の目的は解っている。
『土産を渡すことは元より、一番の目的である時計を自慢することは達成したのだから、さっさと赤松家という「我が家」に……いいや、江戸に帰りたいのに違いない』
新しい物も、古い物も、人も、機会も、何もかもたっぷりと満ちている、学びに溢れた大都市に、今すぐにも駆け戻りたいのだろう。
「待て、清次郎!」
柔太郎は蛙跳びの背中に呼びかけた。
「待てと言われて待つ阿呆はおりません」
清次郎は板戸に飛びついた。それを開けようとした、まさにそのとき、柔太郎が静かに言った。
「柳町、松屋のおはぎ」
清次郎の動きがピタリと止まった。板戸をそっと締めて、後ずさりに数歩。くるりと振り向いた清次郎は、堪えられない笑みを満面にたたえている。
柳町は北国街道筋の町家だが、宿駅としての上田の本陣や問屋場からは、曲がり角二つ分、離れたところだ。北国街道をさらに進めば職人町の紺屋町に続く。街道を逸れ、蛭沢川に掛かる橋を渡れば上田城の三の丸内となり、武士達が暮らすの木町となる。芦田家が暮らす御徒士長屋もその町内にあった。
柳町には、藩主肝煎の絹糸・絹織物や、上田紙と呼ばれる薄い紙、といった名産品を商う店、それを江戸や京大坂ほか全国に販売する商人達が宿泊する旅籠がある。
それらに並んで、地元の者たちも訪れる食品の店、道具の店、職人の店がある。
その中には、芦田家が行っている内職の成果物の取引先もあるのだ。柔太郎も清次郎も、そこそこの頻繁さでこの町に訪れている。
道の両側にぎっしりと並んだ店舗の中に、菓子舗の松屋宇右衛門もあった。
清次郎は口元をだらしなく半開きにしていた。よだれが垂れそうになっている。
餌を待たされている子犬のような、という表現が一番しっくりくる顔だろう。
赤松清次郎は甘党だ。酒はほとんど受け付けない。
「酒が好きな御仁は、憂さ晴らしに酒を喰ろうてお眠りになれば良い。しかし俺のような人間の場合、甘い物をひとつふたつ口に放り込んで茶を喫した方がずっと疲れに効く」
そう公言して、清次郎はたびたび甘い物を食べる。外出をするにも、懐に乾菓子やら飴玉を入れた小袋を忍ばして歩く。
そんな清次郎が、昔馴染んだ松屋のおはぎと聞いて、おとなしくしていられるはずがないのだ。
柔太郎の目に、清次郎の尻であるはずのない尻尾がぶんぶんと振り回されているのが、見えた気がした。
「もしかして、松屋のおはぎをそれがしに頂けるので?」
返事もせず、柔太郎は先ほど清次郎が取り付いた板戸とは別の戸口に向かった。ここからは裏庭まで続く通り土間に出ることができる。
土間の途中にこぢんまりした台所がある。
竈に湯が沸いていた。
柔太郎は台所の戸棚の脇におかれていた風呂敷包みを取り上げた。
おはぎの菓子折にしては大きすぎる。
来た道を戻った柔太郎は、子犬の前に座り直し、縦に長い風呂敷包みを彼の膝先に置いた。
奇妙な形の風呂敷包みに眼を瞬かせた清次郎だったが、すぐにその中味を察した。
細かく観察をするまでもなく、風呂敷の縛りめの隙間から、柄樽の柄が突き出て見えているのだ。そうなれば風呂敷包みの中味の大半は液体である。
また風呂敷の下の、樽の蓋あたりから柄の間にかけて、四角い何が乗せられている様子も見て取れた。これは折詰と見て良い。
折詰の中味は松屋のおはぎに違いない。では柄樽の中味はと言うと、
「松屋から北に二つ隣、小堺屋平助の銘酒・亀齢だ。赤松のお父上はお前とちがって、さとうといっても左党の方であられるからな」
柔太郎は左手に猪口を持つ仕草をしてみせた。
10
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ
朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】
戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。
永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。
物置小屋
黒蝶
大衆娯楽
言葉にはきっと色んな力があるのだと証明したい。
けれど、もうやりたかった仕事を目指せない…。
そもそも、もう自分じゃただ読みあげることすら叶わない。
どうせ眠ってしまうなら、誰かに使ってもらおう。
──ここは、そんな作者が希望や絶望をこめた台詞や台本の物置小屋。
1人向けから演劇向けまで、色々な種類のものを書いていきます。
時々、書くかどうか迷っている物語もあげるかもしれません。
使いたいものがあれば声をかけてください。
リクエスト、常時受け付けます。
お断りさせていただく場合もありますが、できるだけやってみますので読みたい話を教えていただけると嬉しいです。
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
三十年後に届いた白い手紙
RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。
彼は最後まで、何も語らなかった。
その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。
戴冠舞踏会の夜。
公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。
それは復讐でも、告発でもない。
三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、
「渡されなかった約束」のための手紙だった。
沈黙のまま命を捨てた男と、
三十年、ただ待ち続けた女。
そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。
これは、
遅れて届いた手紙が、
人生と運命を静かに書き換えていく物語。
冤罪で辺境に幽閉された第4王子
satomi
ファンタジー
主人公・アンドリュート=ラルラは冤罪で辺境に幽閉されることになったわけだが…。
「辺境に幽閉とは、辺境で生きている人間を何だと思っているんだ!辺境は不要な人間を送る場所じゃない!」と、辺境伯は怒っているし当然のことだろう。元から辺境で暮している方々は決して不要な方ではないし、‘辺境に幽閉’というのはなんとも辺境に暮らしている方々にしてみれば、喧嘩売ってんの?となる。
辺境伯の娘さんと婚約という話だから辺境伯の主人公へのあたりも結構なものだけど、娘さんは美人だから万事OK。
改大和型戦艦一番艦「若狭」抜錨す
みにみ
歴史・時代
史実の第二次世界大戦が起きず、各国は技術力を誇示するための
「第二次海軍休日」崩壊後の無制限建艦競争に突入した
航空機技術も発達したが、それ以上に電子射撃装置が劇的に進化。
航空攻撃を無力化する防御陣形が確立されたことで、海戦の決定打は再び「巨大な砲」へと回帰した。
そんな中⑤計画で建造された改大和型戦艦「若狭」 彼女が歩む太平洋の航跡は
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる