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柔太郎と清次郎
大根おろし
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何をどうしたものか、あの時に柔太郎に心酔したこの老爺は、柔太郎が昌平黌での学問を終えて帰郷するに際して、
『どうしても柔太郎先生にお仕えしたい』
などという無理を言った。
『江戸と信濃では気候も違うし、藩邸と徒士長屋では暮らし向きも大きく違ってくるのだから、おやめなさい』
という柔太郎の尤もな説得もまるで功を奏さない。
ついに彦六は無理を貫き通し、信州上田まで付いてきて、芦田家の下男に収まった。
通り土間に通じる板戸を僅かに開けて顔を出している彦六は、手元に鍋を一つ下げている様子だった。柔太郎が軽く匂いを嗅ぎ取って、
「うどんのようだが、煮込みかね?」
「いえ、つけ汁に緑大根をすり下ろして、味噌を溶きましてございやす」
「この時期に大根がよく残っていたものだ」
「まだ寒いうちに藁に包んで裏庭に埋めておきやした。ただ、緑大根も鼠大根も、さすがにすが入ってございましたんで、これは早いとこ食べ切りませんと」
緑大根は上田藩の北部・山口村あたりの地大根だ。長さ五寸ほどと小ぶりで、長さの半分以上が芯まで緑色をしており、地元では「青首大根」と呼ばれている。そのまま生で食べられるほどに甘いのが特徴だ。
大根おろしにも使うが、沢庵に漬けることも多い。糠の淡い黄色と冴え冴えとした緑がなんとも言えず食欲をそそる。
鼠大根は隣藩である松代藩の東端にあたる坂木村鼠宿の地大根で、これも長さ五寸ほどだが、こちらは丸々太った鼠のような形をしている。
これはとにかく辛い。山葵よりも辛いのではないかと言うほどに辛い。
蕎麦やうどんを、この辛いおろし大根の汁に味噌を溶いたものや醤油を混ぜたものをつけ汁として食べるのが、北信濃から東信濃の人々の楽しみの一つだった。
無論、柔太郎もその楽しみを持つ者の一人である。
「鼠大根があるのか」
「大分辛みが抜けちまっておりやすよ。
ですが若先生、今日は赤松の若先生がお見えになりましたので、緑大根の方をおろしましたんで。赤松先生は辛いのが苦手だと聞いておりやしたので」
「ああ、気を遣ってくれて有難う。だがその赤松先生は、たった今、一言吠えて帰ってしまったよ」
「そのようでございやすなぁ」
柔太郎の苦笑いに、彦六も皺だらけの顔の皺の数を増やして笑い返した。
「ねえ若先生。うどんを二人前打って茹でちまいましたよ。若先生と赤松の先生が腹一杯食べられるように、大盛りの二人前だ。いかがいたしましょうかね?」
「二人前のうどんは二人で食べるより他にあるまい」
そう言って、柔太郎は彦六を手招きした。
まだまだ身分の上下にやかましい時代である。たとえ十石二人扶持という小禄極まりない家の倅であっても武士であるからには、建前上、町人百姓が酒食の相伴をするなど許されるはずはない。
「よろしゅうございますか?」
「父上と母上は鼠宿泊まり、下女のたえは父上たちのお供、赤松清次郎は遁走。
今この家に居るのは、私と彦さんと二人きりだ。
さあ、早く持ってきなさい。うどんがのびてしまっては元も子もないだろう」
「それでは、ありがたく、もったいなく」
満面に笑みを浮かべて、彦六が配膳を始めた。
柔太郎は清次郎の最後の一声を思い出し、考え込んだ。
『フられた……。つまり逃げられた、か』
あり得る話だ、あの鷹女殿であれば――。
柔太郎は「昔」を思い起こしていた。
それはまだ昌平黌に遊学する以前のことだった。
『どうしても柔太郎先生にお仕えしたい』
などという無理を言った。
『江戸と信濃では気候も違うし、藩邸と徒士長屋では暮らし向きも大きく違ってくるのだから、おやめなさい』
という柔太郎の尤もな説得もまるで功を奏さない。
ついに彦六は無理を貫き通し、信州上田まで付いてきて、芦田家の下男に収まった。
通り土間に通じる板戸を僅かに開けて顔を出している彦六は、手元に鍋を一つ下げている様子だった。柔太郎が軽く匂いを嗅ぎ取って、
「うどんのようだが、煮込みかね?」
「いえ、つけ汁に緑大根をすり下ろして、味噌を溶きましてございやす」
「この時期に大根がよく残っていたものだ」
「まだ寒いうちに藁に包んで裏庭に埋めておきやした。ただ、緑大根も鼠大根も、さすがにすが入ってございましたんで、これは早いとこ食べ切りませんと」
緑大根は上田藩の北部・山口村あたりの地大根だ。長さ五寸ほどと小ぶりで、長さの半分以上が芯まで緑色をしており、地元では「青首大根」と呼ばれている。そのまま生で食べられるほどに甘いのが特徴だ。
大根おろしにも使うが、沢庵に漬けることも多い。糠の淡い黄色と冴え冴えとした緑がなんとも言えず食欲をそそる。
鼠大根は隣藩である松代藩の東端にあたる坂木村鼠宿の地大根で、これも長さ五寸ほどだが、こちらは丸々太った鼠のような形をしている。
これはとにかく辛い。山葵よりも辛いのではないかと言うほどに辛い。
蕎麦やうどんを、この辛いおろし大根の汁に味噌を溶いたものや醤油を混ぜたものをつけ汁として食べるのが、北信濃から東信濃の人々の楽しみの一つだった。
無論、柔太郎もその楽しみを持つ者の一人である。
「鼠大根があるのか」
「大分辛みが抜けちまっておりやすよ。
ですが若先生、今日は赤松の若先生がお見えになりましたので、緑大根の方をおろしましたんで。赤松先生は辛いのが苦手だと聞いておりやしたので」
「ああ、気を遣ってくれて有難う。だがその赤松先生は、たった今、一言吠えて帰ってしまったよ」
「そのようでございやすなぁ」
柔太郎の苦笑いに、彦六も皺だらけの顔の皺の数を増やして笑い返した。
「ねえ若先生。うどんを二人前打って茹でちまいましたよ。若先生と赤松の先生が腹一杯食べられるように、大盛りの二人前だ。いかがいたしましょうかね?」
「二人前のうどんは二人で食べるより他にあるまい」
そう言って、柔太郎は彦六を手招きした。
まだまだ身分の上下にやかましい時代である。たとえ十石二人扶持という小禄極まりない家の倅であっても武士であるからには、建前上、町人百姓が酒食の相伴をするなど許されるはずはない。
「よろしゅうございますか?」
「父上と母上は鼠宿泊まり、下女のたえは父上たちのお供、赤松清次郎は遁走。
今この家に居るのは、私と彦さんと二人きりだ。
さあ、早く持ってきなさい。うどんがのびてしまっては元も子もないだろう」
「それでは、ありがたく、もったいなく」
満面に笑みを浮かべて、彦六が配膳を始めた。
柔太郎は清次郎の最後の一声を思い出し、考え込んだ。
『フられた……。つまり逃げられた、か』
あり得る話だ、あの鷹女殿であれば――。
柔太郎は「昔」を思い起こしていた。
それはまだ昌平黌に遊学する以前のことだった。
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