竜頭――柔太郎と清次郎――

神光寺かをり

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清次郎と鷹女

習わぬ経は読めぬ

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 しゅうすけは「もんぜんぞう」だ。
 うちいつ瑪得瑪第加マテマチカ塾でなんとしてやとわれている。
 彼の仕事は、先生や塾生たちのために飯をいたり、水汲みをしたり、掃除をしたり、洗濯をしたり、買い物や用足しに出かけたりすることだ。
 そんな忙しい仕事の間々の、塾の庭先や室内で、彼は聞くともなく先生の教えや生徒たちとの議論を聞いている。その内容から、うっすらと算学という学問をききかじり、興味を抱いた。

 興味はやがて夢になった。秀助は本格的に算学を学びたいと願った。だがを口に出すことはない。できない。
 彼は下男なのだ。彼には身分も金も時間もない。
 窓辺で、廊下で、ふすまの裏で、秀助が聞き耳を立てている様子に気付いたのは、内田先生以外では赤松清次郎だけだった。

 この度の帰国に際して清次郎が彼を小者として選んだ理由は、正しくそこにある。
 清次郎は内田五観先生に許可を得てから、秀助に声をかけた。

「道中泊まり泊まりの宿、それから上田にいるあいだの俺の家で、俺がした本で上田に持ち帰ることになっているものを読んでいい。
 俺は内田先生の算学にまつわる著作や、兵学、砲術の書物を写本し、英国の馬術やら銃砲に付いての書物をしょうやくした。そういったものに、お前が興味を持っていないとはいわせぬからな」

 清次郎は人のよさげな笑顔を作った。
 若い頃の彼は人付き合いが得意な方ではなく、愛想笑い一つ出来ない不器用者だった。それでも内田先生の元で様々な人々と付き合うようになるにつれ、笑顔を「客あしらいの術」として使うことをどうにか覚えたのだ。
 ともかく清次郎にとって、人付き合いは、

『算学よりも蘭学よりも難しい』

 ことだったのだから、大した成長をしたものだと言えよう。

 さてこの帰国に伴って清次郎が持ち帰ろうとしている写本類は、清次郎が上田藩――と、実父実兄の蔵書倉と、養家の棚に――に収めるためのものだ。
 そこには例の草木染めのレシピと縞の見本帳も含まれている。
 清次郎としても徹底的な取捨選択はしたのだが、それでも最終的に存外多い分量になってしまった。少々かさばり、かなり重い。

「そもそも書籍ほん……紙というものは木を材料としてつくられている。それを大量に背負うってことは、言い換えればまきしばの束を負っているのと同じなんだ」

「なるほどねぇ。いだ、半日がかりの書庫のせいとんをやったとき、ずいぶんと腕や腰が疲れた気がしたのはそのせいですかぃ?」

 その時に秀助が何冊かの書物をパラパラとめくってみていたことを、清次郎は知っている。

「ああ、多分ね」

「それじゃぁ赤松先生みたいな『色男』には、辛いお仕事ってことですね」

 秀助は笑った。自然に笑っていことが清次郎にも解る。うらやましかった。

「まあ『金と力はなかりけり』なのは間違いないな。『色男』なのかどうかは知らんけどな」

 清次郎は笑った。自然にでた笑いだ。多分に自嘲を含んでいる。

 瑪得瑪第加マテマチカ塾の蔵書はしょう本ばかりなのだ。物によっては直弟子でも読む許可が得られない場合がある。ましてや、下男という身分侍でも富裕層でもないである秀助には手に取って読む許可などおりるはずもなかった。
 それが写本でも、そして旅行中という短い期間――江戸から上田までは、大凡十日でたどり着いてしまう――ではあっても、自由に読ませてもらえるというのだ。
 好機チャンスというよりほかにない。

 秀助はこの『旨い話』に乗った。

 赤松清次郎の一時帰国はの日程は、かなりきついものだった。秀助が従者に選ばれてから出立するまでに足かけ三日しか期限がなかった。
 つまり秀助にはゆうがない。
 それでも旅立つ前の最低限の準備は、忙しく素早く済ませた。
 いざ出立した後にも、時間の余裕は一切なかった。
 一日歩いて宿に泊まったなら、夜が明ける前に宿を立ち、また一日歩き続けねばならなくなる。
 強引なスケジュールの中、否も応もなく旅は始まった。
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