ヌードフォト

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 僕は青の中にいた。目の前の全てが青であった。長い砂浜に面した小高い丘の上に立ち、真っ青な海と空を見つめるうちに、僕は、その深い青に魅入られて、自分が空を見ているのか海を見ているのかさえも良く分からなくなっていたのだった。
 まるで、自分がその中に、溶けかけているかのようだった。その青の中で、僕は、自分を見失っていた。——自分がその青の中に消えつつあるように思えたのだった。
 目の前の青に、心も体も任せれば、僕は、自分がその中に、どんどんと取り込まれて行くかのように感じられた。僕の視線はただ青の中に吸い込まれて行くのだった。
 青の他に何も見えなかった。それ以外に、今、僕の心を受け止めるものはなかった。ならば視線は青の中に消えて行くのだった。自分が自分である所以となっている視線が、青に溶けていく。それは、恐ろしくも、とても魅惑的な感覚だった。
 この丘の上から、世界の始原に落ちていくのであった。その奥にある深い青に消えて行くのであった。もう、何も考えることもない。何も気にやむこともない。無の中に消えてしまえる。それは、その時考え得るに、もっとも合理的で、自然な選択に思えたのだったが……。
 しかし、僕は、顔を伏せ、足元からなだらかに下る草原を見下ろした。ちょうど吹いた風が心地良かった。強い日差しに照らされて、暑くなった体を冷ます爽やかな風であった。
 風に乗って、様々な草花の匂いが飛んできた。薔薇のような、甘い匂い。新鮮な果物のような匂い。タイムに似た清清しい匂い。僕は、様々な芳香に満ちた空気を吸い込んだ。
 豊穣で、甘美な匂いだった。風が僕の中に吹き込めば、様々な芳香が体内を巡る。それは、たちまちに。穏やかな歓喜に変わるのだった。
 つぎつぎに風が——匂いが——僕の身体を通り抜けて行った。風が吹き抜けて行った。それが気持ち良かった。僕は、何もかも忘れ、その瞬間の歓喜に身を任せるのだった。
 遠くの波が光った。白く砕けるその波の上を、白い雲が漂うのが見えた。繰り返し押し寄せる波のつくるリズム、ゆっくりと流れて行く雲のつくるドローン。まだぼんやりとした、僕の頭の様子に合わせるかのように、世界はゆっくりとした音楽を奏でていた。
 それに、つられるように、思わず、僕の体が動いた。波に合わせて、僕は、無意識に身体を揺らしていた。雲の流れるのを目で追いかけるうちに、——僕はいつの間にか歩き始めていたのだった。
 僕は、広くなだらかな斜面をくだり、海へ向かった。膝まである草の中をかき分けて、とても静かな――あまりに静かな——草原を、僕は進む。
 ここには、僕の他には、誰も、何も、——動くものはいないようであった。虫の声も、鳥の声も、地面を這い回る蛇の音、野ねずみの逃げ回る音も、聞こえなかった。ここには、僕の他には、動くものの気配さえしない。こんなに花が咲いているのに蜂の一匹もいない。それが、僕には、なんだか、ひどく不気味に、——不思議に感じられたのだったが、
「いや、そんなことを謎に思うことはないさ。それは必要がないだけなのだから」
 すると、まるで心の中を読んでいかのように、僕の疑問に答える声が、どこからか聞こえて来た。
「誰だ」
 僕は立ち止まり、声の主を探して、ぐるりと辺りを見回す。
 しかし、まわりには誰もいなかった。なので、
「気のせいか……?」
 僕は、そう呟くが、
「必要がないものを無理に探す必要などはないよ。考えるだけ無駄だ」
 僕は、相変わらず聞こえてくる声に、その主を探して、また辺りを見回すのだったが、——やはり誰も見つからない。 
 しかし、僕は、声の主は見えなくても、もしかして、どこかに隠れているのかもと思い、
「必要がないとはどういうことだ。君……隠れてないで出てきたらどうだい」
 僕は、その声の聞こえる方向に向かって話しかける。
 すると、
「隠れてなんかいないよ。俺には見えるような身体なんてない。同じさ……」
「なにが同じなんだ」
「必要がないのさ。君に僕が見える必要はない」
 また、意味不明の、はぐらかすかのようなことを言う、その声であった。
「必要がないということはどういうことなんだい」
 僕は、どうにも誰かにからかわれているらしいことに、ムッとしながら言う。
「そりゃもちろん必要がないことさ」
 しかし、声は、僕のあからさまにイラついた口調もまるで気にしていないような、飄々とした口調で答える。
「そんなことは分かっている、なぜ必要がないかと聞いているんだ」
 僕は、相変わらず要を得ない声の言葉に、少し怒鳴るように言うが、
「また同じことを言わせる気かい。必要がないからさ」
 あくまでも落ち着いて捉えどころない声に、
「いいかげんに……」
「……真面目に答えてるんだけどな」
「嘘付け、面白がっているだろ」
 もう真面目に取り合うのがばからしくなって、僕は呆れた様子でため息をつくのだった。
 しかし、声は、僕のそんな様子などかまわずに、同じような飄々とした調子で話を続ける。
「——そんなことはない。君が、まだ理解できないだけだ。必要がないということの意味が」
「確かに分からないね。おまえのいうことは」
「まあ、それで良いよ」
「良い?」
「意味が分からなくても、何の問題もないね。俺は君を正しく案内さえできればいいだけだから」
「案内? 何処に?」
 声はそろそろ僕に伝えるべきことの核心を話そうとしているようだった。
「君はこのまま丘を下り君を待つ」
「僕が? 僕に?」
「そう君が君にやがて会う」
「また謎かけだね……」
「謎でもなんでもないよ、だって君は君に会うだけだもの。それ以外に言いようがないね」
「だから、それはどんな意味、……まあいいや」
 僕は、これ以上聞いても、この声にまたはぐらかされて、面倒臭いだけだと思ったので、声から逃げるように、再び歩き始めた。
 僕は早足で丘を下りる。すると、その僕を後押しするように、突然、強い風が吹き降りてきた。風に花びらが舞った。吹き降ろす風に乗って、無数の花びらが僕の周りを飛んだ。
「おい……」
 声の呼びかけを無視して僕は下る足をさらに速める。吹き降ろす風が、丘の斜面に、まるで雪崩のような花びらの奔流を巻き起こしていた。
 宙を舞う花びらを太陽が照らすと、それは光の渦のように見えた。まるで、光が斜面をなだれ落ちているように見えた。そしてその光の後を、音が追いかけて行った。突風に草の擦れ合う音が、光を追いかけるように滑り落ちて行った。
 僕は、いつの間にか、その光を、音を、追いかけて小走りになってしまっていた、そのまま一時も足を止めず、斜面を駆け下りていった。
 気持ちよかった。風が吹き降ろすのにあわせて、僕も、滑り落ちるように走った。風に押されて、どんどんとスピードを上げながら丘を下って行った。
 目の前いっぱいの花びらの中を僕は走っていた。芳香の満ちる空気を胸一杯に吸い込みながら、何も考えずに駆け下りて行った。
 今、僕は、走ることで頭が一杯になっていた。他のことは何も考えられなかった。光と音に包まれて、僕は走った。僕は、走ること以外には、何も考えずに、懸命に、ひたすらに走った。すると、みるみるうちに、鼓動が早くなった。激しい心臓の音。あわせて、大きく苦しげな息の音。苦しそうに喉を鳴らしながら吐く息の音。しかし高ぶる心。苦しければ苦しいほど、心は落ち着かず、興奮して、気づけば、叫んでいた。
 僕は思い出していた。一晩踊り続け、もう足も上がらないほどに疲れきって、しかし、例えようもない高揚感を感じている、——そんな時のことを僕は思い出しながら、その時と同じように、力一杯に声を上げていたのだった。
 目の前には、何時かはわからない遠い記憶の中の光景が浮かんでいた。僕は、その瞬間を思い出していた。
 そこは、フラッシュライトに照らされた狭いダンスフロアであった。その中で、万歳をしながら叫ぶ自分の姿が見えた。
 僕は踊っていた。
 いや走っていた?
 僕は踊りながら、何時かは分らない遠い先の時代で草原を走る自分の姿を思い浮かべていた? いや、僕は走っていた。ずいぶんと前に通っていたクラブで踊る自分を思い出しながら。
 僕は、両方とも今の僕に思えた。この丘を走っている自分と、ダンスフロアで踊る自分。どちらも今の自分のように思えた。僕は、走りながら、踊っている自分を思い出している。それとも、踊りながら、走る自分を思い浮かべている。
 今の僕は、どっちなのか。それは、じっと見つめていると皿に見えたり人の顔に見えたりする騙し絵のように、僕の「今」は次々に入れ替わった。
 走っている。踊っている。
 踊っている。走っている。
 どっちなのか?
 いや、そもそも、どっちかなのか?
 ——両方が正しいということはないか。
 高揚感。鼓動のリズム、身体の躍動。同じだった。どちらでも、身体は世界と一体になって動いた。そう思えば、——それに気づけば、二つの瞬間が次第に混じり合って行くように僕には感じられた。花がフラッシュライトに照らされ、太いベースの音に地が揺れた。僕は、その二つの瞬間の融合を見ながら、走った、——踊った。
 全力で走る僕の前に、海がだんだんと近づいて来る。そして、ダンスフロアでは、ドラムロールに歓声が上がってる真っ最中であった。
 二つの光景が混ざり始めていた。海と踊る人々の風景。そのどちらに僕はたどり着こうとしているのか分からなかった。一瞬で移り変わり、どちらがどちらなのか分からなくなるような光景の中、僕は走っていた、——踊っていた。
 鼓動がさらに高まった。その僕の興奮に合わせるかのように、風の音はますます強く、ドラムロールはさらに大きく強くなる。……

 そして、僕は、結局、砂浜の入り口に立っていたのだった。いつのまにか風はぴたりと止んでいた。
 まだ、花びらが、宙を舞っていたけれど、それは、すぐに、次々と砂浜に落ち雪のように積もって行った。
 その花びらを踏み分けながら、僕は、砂浜を歩きだした。
 岸に押し寄せる波が光り、雲が流れた。
 その流転に身を任せると——。
 僕は、いろいろなことを、少しずつ思い出し始めていたのだった。
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