婚約破棄、心より感謝申し上げます!

八雲

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「アンズ・バーミリオン! 貴様との婚約は、今この時を持って破棄する!」

王宮の大広間。

きらびやかなシャンデリアの下、数百人の貴族たちが固唾を飲んで見守る中、その声は高らかに響き渡った。

声の主は、この国の第一王子、クロード・フォン・エルグランド。

私の婚約者――いや、つい数秒前に『元』婚約者となった男である。

彼は金髪をなびかせ、隣に寄り添う小柄な少女の肩を抱きながら、私をビシッと指さしていた。

まるで英雄が悪を断罪するかのような、決まりきったポーズだ。

周囲からは「まあ、なんてこと」「やはり噂は本当だったのね」「アンズ様、お可哀想に……」といったひそひそ話が聞こえてくる。

私はゆっくりと扇子を開き、口元を隠した。

そして、伏し目がちに震える声を絞り出す。

「……殿下。それは、本気で仰っているのですか?」

「ああ、本気だ! もう我慢の限界なのだ。貴様のような冷徹で可愛げのない女と生涯を共にするなど、僕には耐えられない!」

クロード殿下は、私の震えを見て「ショックを受けている」と確信したらしい。

勝ち誇ったように鼻を鳴らす。

「泣いても無駄だぞ、アンズ。僕の心はもう、このミナだけのものなのだから!」

彼の隣で、男爵令嬢ミナが「殿下ぁ……」と甘ったるい声を出し、上目遣いで彼を見上げている。

ああ、なんて素晴らしい光景だろう。

私は扇子の裏で、必死に頬の筋肉を引き締めていた。

震えているのは、悲しみからではない。

笑いが、止まらないのだ。

(やった……! ついに、ついにこの時が来たわ!)

心の中で、私は盛大なファンファーレを鳴らしていた。

長かった。

本当に、長かった。

五歳で婚約を結んでから十二年。

『次期王妃』という重すぎる肩書きと、それに付随する殺人的なスケジュールの公務。

そして何より、この顔だけは良いが中身が残念すぎるナルシスト王子のご機嫌取り。

私の青春は、すべてこの『苦行』に捧げられてきたと言っても過言ではない。

だが、それも今日で終わりだ。

「……そうですか。殿下の御心は、もうお変わりにならないのですね」

私は努めて冷静に、しかし悲哀を滲ませた演技を続ける。

ここで吹き出してしまっては全てが台無しだ。

円満かつ迅速に、この婚約破棄を成立させなければならない。

「くどいぞ! 僕が一度言ったことを撤回すると思っているのか? 貴様はいつもそうだ。僕の言葉を聞いているようで、まるで聞いていない。その見下したような瞳が、ずっと気に入らなかったんだ!」

「見下してなどおりませんわ。ただ、殿下の奇抜なご発想に、凡人の私が追いつけなかっただけで……」

「ほら見ろ! その口の減らないところが可愛くないと言っているんだ!」

クロード殿下が顔を真っ赤にして叫ぶ。

ミナ嬢が「怖いよぉ」と彼の腕にしがみつくと、殿下はすぐにデレっとした顔で彼女の頭を撫でた。

「よしよし、大丈夫だよミナ。僕がついてる。この悪女には指一本触れさせない」

「悪女……。私が、でございますか?」

「とぼけるな! 貴様がミナにした数々の嫌がらせ、知らぬとは言わせんぞ!」

嫌がらせ。

確かに、身に覚えがないわけではない。

しかし、それは彼が思うような陰湿なものではなかったはずだ。

「私がいつ、彼女に何をいたしましたか?」

「とぼける気か! 先月の茶会で、ミナのドレスに紅茶をこぼしただろう!」

「あれはミナ様がご自分で躓いて、私のカップに突っ込んでこられたのです。私はとっさに彼女を支えようとしましたが、間に合いませんでした」

「嘘をつくな! ミナは『アンズ様に足をかけられた』と言っていたぞ!」

「……ほう」

私はちらりとミナ嬢を見る。

彼女は私の視線に気づくと、ヒッと小さく悲鳴を上げて殿下の背後に隠れた。

なるほど、そういう設定にしたのか。

あの時、彼女は明らかに自分でドレスの裾を踏んでいた。

あまりに見事な転びっぷりだったので、私は助けるのも忘れて「人間ってあんなに綺麗に回転できるのか」と感心して眺めてしまったのだが。

まあいい。

今の私にとって、真実などどうでもいいことだ。

重要なのは『私が悪者になり、婚約破棄が成立すること』なのだから。

「……申し開きはいたしません」

私は殊勝に頭を下げた。

「殿下がそう信じておられるのであれば、それが真実なのでしょう」

「ふん、やっと認めたか。それに、貴様は公務にかこつけて、僕とミナのデートを邪魔したこともあったな!」

「デートではありません。あれは隣国の大使を迎えるための重要な視察でした。殿下がすっぽかそうとされたので、連れ戻しただけです」

「うるさい! 僕とミナの愛を育む時間は、外交よりも重要なのだ!」

会場が、しん……と静まり返った。

周囲の貴族たちが、なんとも言えない表情で顔を見合わせている。

『あ、この王子、やっぱり駄目だ』という心の声が、会場全体から聞こえてくるようだ。

しかし、当のクロード殿下だけは気づいていない。

「真実の愛」に酔いしれ、自分が悲劇のヒーローであると信じ切っている。

面白い。

最高に面白い見世物だ。

私はこれまでの人生で、数々の演劇やオペラを鑑賞してきたが、これほど滑稽で笑える喜劇は見たことがない。

「分かりました、殿下」

私は扇子を閉じ、パチンと音を立てた。

そして、ゆっくりと顔を上げる。

「殿下のお気持ち、痛いほど理解いたしました。私ごときが、お二人の『真実の愛』の邪魔をするわけにはまいりません」

「う、うむ。分かればいいのだ」

私のあまりにあっさりとした引き際に、クロード殿下が少し拍子抜けした顔をする。

彼はもっと、私が泣いて縋り付くと思っていたのだろう。

「愛していない」と言えば、私が絶望に打ちひしがれると信じて疑わなかったのだ。

残念ながら、私の心にあるのは絶望ではなく、解放感だけである。

「では、婚約破棄の件、謹んでお受けいたします」

私はドレスの裾をつまみ、完璧なカーテシー(お辞儀)を披露した。

「クロード殿下、ミナ様。どうぞお幸せに」

「あ、ああ……。もちろんだ! 僕たちは幸せになる!」

「つきましては、この場で正式な書類にサインを頂きたく存じます。後になって『やはり婚約は継続だ』などと言われては、私もお二人の愛を妨げることになってしまいますので」

「なっ……! 準備が良いな!」

「元婚約者としての、最後のご奉仕でございます」

私は懐から、あらかじめ用意しておいた『婚約解消合意書』を取り出した。

昨日の夜、ウキウキしながら徹夜で作成したものだ。

王家の紋章が入ったペンと共に差し出すと、クロード殿下は顔を引きつらせながらそれを受け取った。

「き、貴様……まさか最初からこれを?」

「まさか。殿下の決意が固いことを察し、万が一のために持参していただけです」

「ふん! 強がりを言いおって。本当は未練たらたらなのが目に見えているぞ」

殿下はそう言い捨てると、サラサラと署名をした。

よし。

これで契約成立だ。

私は書類を素早く回収し、大切に懐へしまう。

これが私の『自由への通行手形』だ。

「では、私はこれで失礼いたします。お二人の門出を、心よりお祝い申し上げますわ」

私はもう一度優雅に礼をすると、踵を返した。

背後から、ざわざわとした声が聞こえる。

「アンズ様、気丈に振る舞われて……」

「やはり侯爵家の令嬢としての誇りがあるのだろう」

「それに引き換え、あの王子は……」

同情の声が心地よい。

私は背筋をピンと伸ばし、堂々とした足取りで大広間の扉へと向かった。

扉を開け、長い廊下に出る。

衛兵たちが敬礼する中、私は無表情のまま角を曲がった。

さらに進み、誰もいない控え室に入る。

侍女もいない、私一人の空間。

扉を閉め、鍵をかけた瞬間。

「よっしゃあああああああ!!」

私はドレスの裾をまくり上げ、全力でガッツポーズをした。

拳を天に突き上げ、その場で小さくジャンプする。

「終わった! 終わったわ! あのおバカ王子との不毛な日々が! 山のような公務が! 意味のないお茶会が! すべて終わったのよ!」

笑いが止まらない。

鏡に映った自分の顔は、かつてないほど生き生きとしていた。

「ありがとう、ミナ様! 貴女のおかげで私は自由よ! あの王子を拾ってくれて本当にありがとう!」

感謝のあまり、ミナ嬢の住む方向(分からないが適当に)に向かって合掌する。

「さて、これからどうしようかしら」

私はソファーにどかっと座り込み、足を組んだ。

侯爵令嬢としてはあるまじき行儀の悪さだが、誰に見られるわけでもない。

「実家には……まあ、帰るとして。お父様は卒倒するでしょうね」

父であるバーミリオン侯爵は、私を王妃にすることを夢見ていた。

だが、あの王子の惨状を見れば、娘が逃げ出したことをむしろ喜ぶべきだ。

「慰謝料はたっぷり請求するとして……当面はお金には困らないわね」

私はニヤリと笑った。

王家からの慰謝料だ。

口止め料も含めれば、相当な額になるはずだ。

「そうだわ。せっかく自由になったのだもの、今まで出来なかったことをしましょう」

私は昔からの夢を思い出した。

それは、高貴な身分ゆえに許されなかった、庶民的な娯楽。

そして何より、私の密かな趣味である『人間観察』を思う存分楽しむこと。

「市井に降りて、お店を開くのもいいかもしれないわね」

ただのお店ではない。

人の揉め事、特に色恋沙汰を、特等席で眺められるような場所。

想像するだけでワクワクしてくる。

「決まりね。第二の人生は、他人の修羅場を肴に生きていくわ!」

私は立ち上がり、再び拳を握りしめた。

その時である。

「……随分と楽しそうだな」

不意に、部屋の隅から低い声が聞こえた。

「!?」

心臓が止まるかと思った。

誰もいないはずの控え室。

慌てて振り返ると、窓際のカーテンの陰に、一人の男が立っていた。

夜会服に身を包んだ、長身の美丈夫。

銀色の髪に、氷のように冷ややかな青い瞳。

この国の誰もが恐れる『氷の公爵』こと、王太子の兄、シグルド・フォン・エルグランドその人であった。

「し、シグルド様……!?」

私は固まった。

ガッツポーズをしたままの姿勢で。

「い、いつからそこに?」

「『よっしゃあああ』あたりからだ」

「全部じゃないですか!!」

私の顔から、さーっと血の気が引いていくのが分かった。

よりによって、この国で一番堅物で、一番敵に回してはいけない人間に、本性を見られてしまった。

シグルド様は無表情のまま私に近づいてくると、私の突き上げた拳をじっと見つめた。

「……見事なガッツポーズだ。弟との別れが、それほど嬉しいか」

「あ、いや、これは……その……あまりの悲しみに、天を仰いでいただけと言いますか……」

「無理があるな」

シグルド様は小さく鼻を鳴らした。

怒られる。

不敬罪で捕まるかもしれない。

私が覚悟を決めて身構えたその時、彼の口元がわずかに緩んだのが見えた。

「……安心しろ。誰かに言うつもりはない」

「え?」

「あいつの愚かさには、私もほとほと手を焼いていたからな。君のその反応こそが、最も正常な判断だと言える」

シグルド様はそう言うと、私の手から『婚約解消合意書』をひょいと取り上げた。

「これは私が預かっておこう。正式に受理されるよう、王に働きかけてやる」

「えっ? よ、よろしいのですか?」

「ああ。その代わり……」

彼は青い瞳で、私を射抜くように見つめた。

「君の言う『第二の人生』とやらに、私も一枚噛ませてもらうぞ」

「……は?」

「面白そうなことを企んでいる顔だ。私の退屈を紛らわせてくれるのだろう?」

氷の公爵が、楽しそうに笑った。

その笑顔を見て、私は直感した。

(あ、この人もしかして……こっち側の人間だ)

私の『平穏なる修羅場観察ライフ』に、とんでもない異物が混入しようとしていた。
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