婚約破棄、心より感謝申し上げます!

苺マカロン

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「ご、ご到着でございますー!!」

屋敷に響き渡るセバスチャンの悲鳴に近い報告。

私と父が顔を見合わせる間もなく、玄関ホールの扉が重々しく開かれた。

そこに立っていたのは、騎士団の制服ではなく、仕立ての良い漆黒のフロックコートを纏ったシグルド公爵だった。

背後には、青ざめた顔の護衛騎士たちが控えている。

公爵は、玄関を埋め尽くす貢ぎ物の山を見て、満足げに頷いた。

「……ふむ。思ったより狭いな」

「いえ、玄関が狭いのではなく、荷物が多すぎるのです」

私は即座に突っ込んだ。

不敬? 知ったことではない。

私の平穏な朝を破壊した責任は取ってもらう。

父が慌てて飛び出し、公爵の前で最敬礼をした。

「こ、公爵閣下! このようなむさ苦しい場所へようこそお越しくださいました! しかし、これは一体……?」

「ああ、バーミリオン侯。突然の訪問を許してほしい」

シグルド様は表情一つ変えず、淡々と言った。

「娘さん……アンズ嬢に、折り入って頼みがあって参った」

「頼み、でございますか?」

「うむ。国益に関わる重大な案件だ」

国益。

その単語が出た瞬間、父の背筋が伸びた。

「そ、それは一大事! さあさあ、どうぞ応接室へ! セバスチャン、最高級の茶葉を! いや、私が淹れよう!」

父は気を利かせたつもりなのか、私を置き去りにしてさっさと準備に走ってしまった。

残されたのは、私と、氷の公爵と、物言わぬ木箱の山。

「……立ち話もなんだ。行こうか」

「あの、公爵様」

私は彼を呼び止めた。

「この荷物、全てお持ち帰りいただきたいのですが」

「なぜだ? 気に入らなかったか? リストには『最高級品』とあったが」

「品物の質の問題ではありません。量の問題です。これでは玄関が通り抜けられませんし、何より『王太子の兄が、弟の元婚約者に大量の貢ぎ物を送った』なんて、また変な噂が立ちます」

「噂など、私が揉み消す」

「そういう問題ではありません!」

私は頭を抱えた。

この人、噂通りの冷徹な切れ者かと思っていたが、もしかして少し……いや、かなり「天然」なのでは?

「……まあいい。とりあえず中へ入ろう。話はそれからだ」

彼は私の抗議をさらりと流し、慣れた足取りで廊下を進んでいった。

◇ ◇ ◇

応接室にて。

父が入れてくれた紅茶(緊張で手が震えていたらしく、カップのふちギリギリまで入っている)を前に、私とシグルド様は向かい合って座っていた。

父は「私は席を外す! 国益に関わる密談なら、邪魔をしてはならん!」と言って出て行ってしまった。

絶対に、気まずくて逃げただけだ。

シグルド様は紅茶を一口飲むと、懐から分厚い封筒を取り出し、テーブルに置いた。

「まずは、これだ」

「これは?」

「王太子の婚約破棄に関する、正式な承認書類だ」

私は目を丸くした。

「……はい?」

昨日の今日で?

「王の署名も入っている。慰謝料についても、君が提示した額の満額……いや、色を付けて一・五倍で承認させた」

「い、一・五倍!?」

私は思わず身を乗り出した。

「どうやって……? 陛下は渋ったのではありませんか?」

「ああ、最初は渋っていた。『王家の恥だ』とか『もう少し穏便に』とか言っていたが、君が持っていた『裏帳簿』の話をちらつかせたら、即座にサインしたよ」

「裏帳簿……ああ、あのメモのことですか」

「そうだ。君が長年、クロードの尻拭いをしてきた記録。あれは強力な武器だ。王家としては、あれが公になることだけは避けたかったらしい」

シグルド様は、まるで天気の話でもするように、王家への恐喝(に近い交渉)の顛末を語った。

恐ろしい人だ。

でも、最高に仕事が早い。

「ありがとうございます。これで私も、安心して眠れます」

「礼には及ばない。私も、あの弟には一度痛い目を見せるべきだと思っていたからな」

彼はカップを置き、じっと私を見つめた。

その視線には、昨日見たような、探るような色が混じっている。

「さて、ここからが本題だ」

「……はい」

「私は君の能力を高く評価している。王太子の暴走を最小限に食い止め、裏で完璧な帳尻合わせを行ってきた手腕。そして、あのような修羅場でも動じず、自らの利益を確保する胆力」

「お褒めにあずかり光栄ですが、それはただの保身です」

「その保身こそが重要だ。感情で動く人間は御しやすいが、利益で動く人間は信用できる」

彼は少しだけ身を乗り出した。

「単刀直入に言おう。君を雇いたい」

「……お断りします」

私は即答した。

「まだ条件も聞いていないぞ」

「条件以前の問題です。私は昨日、自由を勝ち取ったばかりなのです。もう、王家の人間や、堅苦しい公務に関わるつもりはありません。私は下町で、気楽な相談所を開いて余生を過ごすのです」

「その相談所だが」

シグルド様はニヤリと笑った。

「出資者を求めてはいないか?」

「……え?」

「君がやろうとしていることは、情報の売買に近い。下町の揉め事、特に色恋沙汰には、貴族の醜聞や商人の裏取引が絡むことも多い。君一人でやるには、危険すぎるし、金もかかる」

痛いところを突かれた。

確かに、父も心配していた点だ。

「私がスポンサーになろう。資金は無制限に出す。場所も提供しよう。王都の一等地でも、スラムの隠れ家でも、君の好きな場所を選べ」

「……その見返りは?」

「情報は共有してもらう。君が集めた『ネタ』の中で、国の監査に役立ちそうなものがあれば、私に流してほしい。それだけだ」

「監査……?」

そういえば、彼は国の監査役も務めていると聞いたことがある。

不正を働く貴族や官僚を摘発する、恐れられる仕事だ。

「君は他人の修羅場を観察して楽しむ。私はその中から悪を見つけ出して処分する。……どうだ? 利害は一致していると思わないか?」

私はゴクリと喉を鳴らした。

悪魔の誘いだ。

でも、魅力的すぎる。

彼の後ろ盾があれば、どんな大物のスキャンダルに首を突っ込んでも安全が保障される。

それに、資金無制限。

私の理想とする「最高級の椅子と美味しいお菓子を用意した、完全個室の覗き部屋(観察室)」が作れるではないか。

「……一つ、確認させてください」

「なんだ?」

「公爵様は、なぜそこまで私を買ってくださるのですか? 有能な人間なら、他にもいるでしょう?」

彼はふっと視線を逸らし、少しバツが悪そうに頬をかいた。

「……昨日の、あれだ」

「あれ?」

「ガッツポーズだ」

「うっ」

古傷(一日前だが)をえぐられた。

「あんなに清々しく、生命力に溢れた姿を見たのは初めてだった。王宮にいる女たちは皆、仮面を被っている。君もそうだった。だが、あの瞬間の君は……その、非常に……」

彼は言葉を選び、そして真顔で言った。

「面白かった」

「……はあ」

「私は退屈しているんだ、アンズ嬢。この腐った貴族社会にも、真面目すぎる自分自身にも。君なら、この退屈な日常を壊してくれる気がする」

彼の目は本気だった。

氷のような瞳の奥に、少年のようないたずら心が灯っている。

ああ、分かった。

この人も、私と同類だ。

まともなフリをして、世間を斜めに見ている「変人」なのだ。

私はため息をつき、そして口角を上げた。

「分かりました。その契約、乗らせていただきます」

「交渉成立だな」

「ただし! 条件があります。私の店には、公爵様といえど『お客様』として来ていただきます。権力を振りかざして営業妨害をしないこと。そして、私の観察ライフを邪魔しないこと」

「承知した。……ああ、そうだ」

シグルド様は立ち上がり、私の前に手を差し出した。

「これからパートナーになるのだ。改めて名乗ろう。シグルドだ。よろしく頼む、アンズ」

「……よろしくお願いいたします、シグルド様」

私がその手を取ろうとした時、彼は私の手を引いて、手の甲に口づけを落とした。

「っ!?」

「契約の印だ。……ふふ、顔が赤いぞ?」

「な、ななな……!」

「意外と初心なのだな。悪役令嬢を名乗る割には」

彼は楽しそうに笑うと、マントを翻して部屋を出て行った。

私はその場にへたり込んだ。

心臓がうるさい。

「……調子狂うわね、もう!」

手の甲に残る熱さを、私は反対の手で必死にこすった。

こうして、私の「よろず恋愛相談所」には、とんでもないパトロンがついたのである。

◇ ◇ ◇

一週間後。

王都の下町、職人街の一角に、小さな看板が掲げられた。

『お悩み相談・バーミリオン』

一見すると怪しげな占い小屋のようだが、内装は驚くほど豪華である(スポンサーの趣味だ)。

私は亜麻色のカツラを被り、伊達眼鏡をかけ、地味な町娘に変装してカウンターに座っていた。

「さあ、記念すべき第一号のお客様は誰かしら!」

ワクワクしながら待つこと数時間。

カランカラン、とドアベルが鳴った。

「いらっしゃいませ!」

勢いよく立ち上がった私の前に入ってきたのは、エプロン姿の恰幅の良いおばちゃんだった。

「あのねぇ、ちょっと聞いておくれよ! うちの旦那がさぁ!」

「はいはい! 肉屋の女将さんですね! どうぞこちらへ!」

こうして、私の華麗なる(?)相談員ライフが幕を開けた。

最初の事件は、「肉屋の旦那が隠しているへそくりの場所を特定せよ」という、あまりにも平和な依頼だったが……。

これが後に、国を揺るがす大事件の入り口になるとは、この時の私はまだ知る由もなかったのである。
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